国境越え
彼らがツォーハイムへ向かう準備を終えて城の門の前に揃うと、彼らを見て「あっ!」と叫ぶ声を聞いた。フレッドの所に声の主は駆け寄ってきた。
「お前は、ロイ? なぜここにいるんだ?」
そこにはフレッドを人買いから買った商人ドレスラーが居た。
「よお、オッサン。元気か? でも、なんであんたが此処に?」
「それはこっちの台詞だ」
傍にいたラザフォードが首をかしげた。
「ロイって誰?」
「ああ、俺の偽名だ」
フレッドはニコリと彼女を見た。
「ま、まさか、ロイ、お前が例のツォーハイムの王子だとでもいうのか?」
「そのまさかさ」
ドレスラーは頭を抱えこんだ。
「お前のような奴にこの国と王家の命を託すというのか!」
商人は愕然とした。
「フレッド君、この商人さんと何があったの?」
「何でもないさ」
彼は歯を見せて笑った。
「でも、オッサン、なぜこんなところにいるんだ?」
「……褐曜石を運ぶ馬車を手配していたのだ。私は国交があった昔、ツォーハイムとリッツシュタインをよく行き来していたし、丈夫な馬車を持っている。それに、骨董商の絵柄の入った幌馬車なら大荷物を運んでも敵軍から怪しまれないと踏んだ大臣様より命をうけて来たのだ」
ドレスラーは衝撃から立ち直れないでいた。彼が1年前に買ったアル中の我がまま奴隷こそ、この国の運命を託されたツォーハイムの王子であったと知ると、この国が助かるという希望をすっかり失っていた。一緒にいたマニュエルは、なんとかドレスラーをなだめ賺して、出発の準備を急がせた。
準備ができたころ、大臣がやってきてリッツシュタイン国王の書簡をフレッドに手渡した。
「フレッド君、そして皆さん、リッツシュタインをよろしく頼む。君達の働きに期待して私達は帰りを待っております」
「ああ。なんとか親父を説得してくる!」
フレッドは勇ましくそう言ったものの、内心では不安でたまらなかった。ツォーハイムの者達が、性犯罪で追い出された自分の話に耳を傾けるなど、容易には信じられなかった。しかし、ただやるしかない、という気持ちだけに突き動かされ、辛うじて平静を保っていられた。
シュトルツ、マニュエル、ラザフォードとフレッドはドレスラーの馬車に乗せられ、数名の護衛兵達と共に城門を出発した。
城下町を通り抜ける幌馬車に揺られながら、フレッドは騒然としたリッツシュタインの街を目にしていた。赤の守護者の脅威から逃れようと荷を整えて町を後にしようとする人々が路上に溢れている。町に留まり続けようとする人々も、海上から彼らを狙う脅威に平静を保っていられないようであった。
町を見つめるマニュエルの目にもある種の意志が見られた。
「僕にもできることがあるかもしれない。混乱する人々に神の慈悲を願っているだけでは駄目なんだ。立ち上がり、行動しなければならない」
フレッドは彼のその言葉を聞くと、深く頷いた。
馬車は街を出ると、山道に入った。
「ドレスラーさん、こっちは国境へ向かう道ではないですよね? どこへ向かっているのですか?」
心配そうな表情を浮かべるマニュエルにドレスラーは不敵な笑みを見せた。
「マニュエルさん、私を誰だと思っているのですか? 私はリッツシュタイン一の商人ですよ。もちろんこのまま国境へ向かうことなどしません。そんなことをしていたら日が暮れてしまう。昔はこの山道を通って多くの商人がツォーハイムと行き来していたんですよ」
「でも、昔の国境は完全に封鎖されたと聞いています。それに、山頂では両国の警備の兵たちが常に待機し、密入国者は見つけ次第狙撃されます」
ドレスラーは人差し指を左右に振って見せた。
「国境のリッツシュタイン側では、王の手紙があれば問題ないでしょう。そして、国境を突破するには、貴方に交渉をお願いするつもりです、マニュエルさん」
「え、僕ですか?」
「貴方は都会育ちで知らないかもしれませんが、昔の国境があった山頂には今でも国境を跨いだ神殿があるんです。国境としての機能はすでにないですが、その神殿の司祭は、両国からの礼拝者を受け入れているんです。だから、そこが唯一国の境目を通り抜けられる場所なんです。もちろん、司祭様を説得できなければ国境は抜けられず、ツォーハイムの兵士に撃ち殺されてしまう可能性もあるでしょう。でも、私は初めて貴方に会った時にも、貴方の温厚な人柄に惚れこんでいました。マニュエル様ならきっと老司祭様を説得できます」
そしてドレスラーは彼自身もリッツシュタインでは珍しく信仰心のある人物であることを語った。それに対してフレッドは、信仰のあるものが人を買ったということに対して嫌味を言った。
「ロイ――いや、フレッドだったね。商人は商人の仕事を全うせよというのが聖典の教えなんだ。その商売がどんなものであったとしても、任せられた責任を果たすのが商人の義務だ。もちろん、私も人を買うのなんて嫌だった。しかし、誰かがしなければならない仕事だったら、信仰と共にそれを行うべきだと私は考える」
フレッドはただ、「そんなのはいい訳だ」とだけ言って、彼の言葉を本気にしなかった。フレッドを無視してドレスラーはマニュエルに話を続けた。
「その山頂の司祭は私の昔なじみで、私は今でも時々礼拝を兼ねて会いに行くのだ。もちろん、彼は普段国境を通すようなことはしないが、王の手紙とマニュエル君が話してくれたら、きっと司祭様は事情を理解してくださることだと思います」
マニュエルは彼の言葉を聞き終わると、不安気な表情を浮かべた。
「ドレスラーさん、でも、僕は難しいと思います。司祭というのは、神の意思を守り、義務の遂行に従事する者です。国境の警備を任されている司祭であれば、彼は命に代えても国境を守ることでしょう。僕が何を言ったところで労司祭様が彼の義務をうち捨てないということは、僕自身が司祭だから分かります」
フレッドはため息をついた。
「司祭ってのは、だから頭が固くて嫌いなんだ」
「フレッド様! 僕のこと嫌いなんですか?」
マニュエルは涙目になった。
「いや、お前のことじゃなくてな……。一般にってことだよ」
そう言ってフレッドは自分の腕をマニュエルの首に回した。
馬車が山脈を登ると霧が深くなり、肌寒くなってきた。
「やっぱり標高が高くなると寒くなるわね」
ラザフォードは冷えた彼女の体をフレッドにすり寄せた。
「その神殿まで、あとどれくらいかかるんですか?」
彼女は冷えた手を揉みながらドレスラーに尋ねた。
「そうですね、あと一時間も経たないうちに着きますよ」
「あと一時間ですか。それまでに風邪引いちゃいます」
それを聞いたフレッドは彼女をグッと抱き寄せた。
「ラザフォード先生、胸がこんなに冷えて……。さあ、もっと俺にくっついてください……」
「フレッド様、あまりいちゃつかないでください」
「うるさいなぁ。彼女が風邪引いたらどうするんだ?」
ラザフォードはマニュエルに遠慮してフレッドから離れた。フレッドはマニュエルを凶悪な目で睨むと、これ見よがしに舌打ちをした。
ラザフォードの唇が冷えて、少し青みがかって来たころ、荒れた道の向こうに小さな神殿が見えた。少し近づくと、山脈の頂に沿って国境を示す有刺鉄線がどこまでも続いていくのが見えてきた。有刺鉄線に沿うように、国境を守る兵が見張る小さな塔が500メートル置きに設置されているのを薄っすらと眺めることができた。
「やっと着いた? 何か温かいお茶でももらえたらいいですが」
暖かい季節ではあるが、山頂の気温は低かった。
神殿は国境を跨ぐように設置されていた。その横には昔国境検問所であったと見られる建物の跡がそのまま残されていたが、扉や窓には杭が打たれ、外壁は風化していた。
馬車を降りた一行はドレスラーに率いられ神殿に入った。
「私、神殿に入るのは初めてだわ……」
ラザフォードはきょろきょろと質素な装飾の施された内装を眺めた。
神殿内にも国境配備の兵達がおり、ドレスラーは慣れた様子で気さくに兵達に挨拶をすると、司祭を呼んでくるようにと頼んだ。
5分も経たないうちに、年老いた司祭が現れ、ドレスラーを見定めると笑顔を見せて握手をした。
「ドレスラーさんではないですか。よく来てくれました。――リッツシュタインは大変なことになっていると聞きましたよ。こんな時だからこそ、神殿に祈りを捧げに来てくださったのですね。良いお心がけです」
白髪の司祭は皺だらけの顔に愛嬌のある笑顔を浮かべた。
「そうですとも。私には祈るべき理由が山ほどありますからね」
ドレスラーはフレッドを一瞬見て、ため息をついた。
白髪の司祭は琥珀色の細い目で、彼の連れていた見慣れぬ者達を見回した。
「して、この方々はどなた様ですか?」
「司祭様、折り入ってお願いがございます――」
ドレスラーはリッツシュタイン王の手紙を提示すると共に、ことの経緯を老司祭に語って聞かせた。
一通り話が済むと、ドレスラーは頭を下げ、特例として彼らが国境を越える許しだすように請った。
「リッツシュタインとツォーハイムの両国を蛮族から守るため、ぜひ国境を越えるお許しをお願いします」
老司祭はしばらく沈黙した。
「……頭を上げてください、ドレスラーさん。貴方のお気持ちと皆様の事情はよく分かりました。しかし、私には科された義務がございます。それを放棄するわけにはいきませんのだ。もしどうしてもこの国境を越えるのであれば、私の命を奪ってください。私を殺すことでの罪は問わないように兵達に話は付けましょう。でも、私の命のある限りは、自分の義務を放棄することはできません。この老いぼれた司祭にとっては、与えられた義務を放棄するくらいならば、命を取られたほうがよろしいです」
静かにそう言った老司祭の言葉に、ドレスラーは顔を真っ青にして、首を大きく何度も振った。
「司祭様を殺めることなど、誰ができましょうか?」
「それならば、即刻、お引き返しください」
司祭は表情を変えないままで言った。
他の一同は困惑した顔を互いに見合わせあった。
気まずい沈黙が狭い神殿の中を覆った。
「司祭様、どうかお考え直しください」
マニュエルは老司祭の前に静かに歩み出ると、哀願するように言った。
「僕はモリッツ家出身の司祭、マニュエルです。貴方様が命に代えても課せられた義務を守ろうとする御姿には敬服いたします。司祭の鑑であります」
そう言うと彼は手を合わせ、礼拝をした。
「マニュエル君、君がいやしくも司祭であれば、私が言う言葉の意味を理解できるだろうね。自分に与えられた義務を守ることは、信仰の証であるのだ」
突き刺すような視線で彼はマニュエルを見据えた。先ほどまでの穏やかな表情は老司祭から消えていた。マニュエルはその鋭い視線に一瞬怯んだ。
「仰る事は分かります。しかし、私達は貴方を殺すことも、引き返すこともできません」
彼は拳を握り締めてから言葉を続けた。
「私は義務に勝ることを見つけました。それを理由に、貴方が義務を放棄することを求めます」
「ほお、それは何だね?」
マニュエルは彼に向けられた鋭い視線を真っ直ぐに見返した。
「それは、愛です。衆生への愛こそが、義務より勝るものです。そして、その愛は神より与えられたものです。僕はここにいるフレッド王子と共に、各地を点々として目まぐるしい日々を送ってきました。その中で様々な人々に出会いました。それぞれの人が、それぞれの人生を送り、その中で悩み、愛し、もがくのです。僕はそんな人々を見ながら、聖典に書かれた言葉の真髄を見つけたのです。聖典はまさしく神の愛の徴です。でも、神の愛は、僕達が持つ、人々を守りたい、という気持ちの中にも顕現している。そう確信しています」
マニュエルは必死な表情でそれだけ言い切った。
老司祭はマニュエルをただじっと見つめていた。
「お若い司祭様。私は貴方達を試したかったのです。貴方のことは首都の神殿より来たものから聞いておりました」
老司祭はマニュエルが流刑になった王子に付き従い、リッツシュタインにたどり着いたことを知っていたそうで、彼らが神殿に入って来たときから、マニュエルをただ試そうとしていたのだという。
「貴方がただ書物の上での信仰を持っているのか、それとも生類の幸福を信仰の原点としておられるのか、それを知りたかったのです。王に仕える司祭というのは、政治に影響を与える立場にあります。その立場にあるマニュエル様が、神の真の意図を体現しようとしておられるなら、まだこの国を救う価値はありましょう」
老人はニヤリと笑った。
「モリッツ家当主の弟と聞いて、どんな雛っこかと思っていたら、なかなか面白い男ではないか」
そう言うと彼は、呵呵と笑った。
「さあ、通りなされ」
ラザフォードとシュトルツはその間ずっと呆気に取られたままだったが、意味の分からないうちに事が済んだことを喜び合った。
ラザフォードはシュトルツに耳打ちした。
「課長、私、こういうのは苦手です……」
「私もだ。宗教家ってのは意味がわからないものだな……」
ひそひそと話し合う二人を他所に、マニュエルの大演説に感動したらしいドレスラーは涙を流し、やはり私の見込んだお方だ、と言うと彼の手を取り、頭を下げて敬意を表した。




