青天の霹靂
フレッドが庭園の隅に建つ離宮に入ると、王妃の琥珀色の目が彼を睨みつけた。急に呼びつけられたフレッドは面倒そうに彼女の正面に立った。
「お母様、お話って一体なんですか? 俺は仕事の最中で、急な呼び出しは迷惑です。お話相手が必要なら夕方以降に――」
「ここにお掛けなさい、フレッド」
言葉を遮られ、しぶしぶと彼はソファに腰掛けた。
「フレッド、私の言いたいことは分かってるはずです」
王妃は慄いたように彼を睨んでいた。そばに控える侍女もどういう訳か顔を真っ青にして彼を見下している。思い当たることもなく、フレッドはただ怪訝な眼差しで王妃の言葉の続きを待った。
「貴方にも良心があるなら、自分から法務官に申し出ることね」
フレッドはため息をついた。自分の最近の行いを思い返したが、特に咎めを受けるようなことは何も思い浮かばなかった。しいて言えば、三日前に隠れて一人の使用人の女と会ったことくらいだ。しかし、彼が気に入った女性とそのように会うのは、王妃にとってもう慣れっこのはずであった。彼がプレイボーイとしての本性を発揮しはじめたころは、頻繁に離宮に呼び出され注意されたものだが、ここ数年は彼女も諦めたようだった。
「マルレーンと会ったことですよね……」
面倒そうにフレッドがそう言うと、王妃は顔を真っ青にした。
「貴方はやっぱり……」
「だから、それくらいのことで呼んだんですか? 俺は今重要な公務の最中です。公務だって好きでやってるわけじゃないんだ」
気だるそうに踵を返そうとするフレッドを王妃は制した。
「まだとぼける気なの、フレッド? マルレーンが仕えていたアンネさんはあれからというもの一日中泣いて部屋から出てこないそうよ。アンネのお母様が私のところに今朝やって来て、事の次第を話してくださったわ。直接裁判にかけることも検討なさったようだけど、王位継承者であるあなたのことだし、あちらも事を穏便に処理したいからということで、親戚である私のところにまずいらっしゃったのですよ」
フレッドは一向に検討が付かない。
「裁判って?」
訝しがるフレッドを汚いものでも見るように王妃は言った。
「貴方という人は、やはりまともな人間じゃなかったんですわね」
「なんの事です?」
「まだ白を切るつもりなの! 恥を知りなさい。まさか私の息子が殺人鬼になるなんて……」
王妃はそう言うと嗚咽した。フレッドは頭が真っ白になったが、辛うじて言葉を発した。
「一体なんのことですか? 人違いではないのですか?」
「貴方がやったとアンネは言っているそうよ」
フレッドには思い当たることがなかった。彼がマルレーンとの逢引を終えて、彼女が住み込みで勤めている邸の部屋を出て、彼がそのまま城に帰ってくるまでの間、誰にも会わなかった。
状況が理解できずに呆然とするフレッドを蔑む様に王妃は見つめた。
「他にも貴方がマルレーンの部屋を出るのを見た人がいるそうよ。その後にマルレーンを見た人は、すでに彼女が冷たくなっていたと言っているそうよ。観念しなさい」
「俺は本当に何も知れません」
フレッドは釈明しようとしたが、王妃は彼の言葉に耳を貸さなかった。フレッドはなんとなくそれ以上の自己弁護が徒労であると分かり、口を閉ざすと、重苦しい沈黙がその場を包んだ。
マルレーンとはお忍びで城下に出かけた際に知り合い、彼女とは一夜限りの関係で、彼女に対して特に思い入れはなかった。それでも彼女が突然死んだということは恐ろしかった。そして、なぜ自分の親戚であるアンネがそのような嘘を付くのか全く見当がつかなかった。
離宮のドアが開く音がすると、そこから王が二人の従者を従えて入って来た。
「王妃よ、一体何があったのだ。城まで来てくれたら良いのに、私をここへ呼び出して」
「あなた、どうぞお座りになって」
王は言われたままにソファに腰掛けた。
こうして親子三人がそろうのはいつ以来だろうか。愛人の多い王を疎んじる王妃が、王に公務以外で顔を合わせることは近年ではあまりない。フレッドはそんなことをふと思った。
「父上、これは何かの間違えです――」
フレッドの言葉を制する様に王妃はけたたましい声を出した。
「この子は、人殺しをしたのです」
王は驚きの表情を見せた。
「フレッド、それは本当なのか?」
彼自身の答えを待たずに王妃は続けた。
「3日前の夜にモリッツ家の屋敷に言って、そこの使用人を……」
そう言うと王妃は泣き出した。王はむせび泣く王妃の背中をさすった。
「お前が不真面目で好色だというのは容認していたが、まさかそんなことまで……」
父王もフレッドを哀れむような目で見つめていた。
(なぜ母上も父上も俺の言葉を聞かずに、話し続けるのだろう……)
両親が自分の言葉に耳をかさないということにただ愕然とした。彼が起こしたという事件なのに、彼はあたかも自分がそこに居ないように感じていた。
フレッドは確かに不真面目な性格ではあったが、殺人など犯す度胸はなかった。何を言えば信じてもらえるのか。両親はこんなにも自分のことを信頼していなかったのか。親に自分の言葉が届かないのであれば、誰が自分を信じるだろうか。
(なんだかもう面倒くさい。聞く耳を持たないなら、俺が何を主張したところで変わらないだろう……)
フレッドは、すこし考えた末に、ただ沈黙した。
ただ押し黙るフレッドに、王は冷たい視線を浴びせた。
「もう良い。何も言うことがないなら、残念だがお前を地下牢に幽閉しよう。お前の処遇については法務官と話して決めることにする」
全てがあまりに唐突であった。
***
フレッドが幽閉されたのは政治犯などが収容される地下牢の一つで、一般の囚人とは隔離された独房だった。簡素なベッドの硬いマットレスに慣れないことと、身に降って湧いた状況についての不安が頭のなかでループして、フレッドは寝付けないでいた。
普段、彼は上等のワインを寝酒にしていたのだが、もちろん独房に酒が差し入れられることないので、彼の夜は極めて長いものとなった。
気分を変えるために何かしら楽しいことでも考えようとするが、薄暗い地下牢で彼の気分が上向くことはなかった。自分を弁護するべき根拠を考えようとするが、それも思うようにいかない。
(俺が不真面目だったり、ちょっとプレイボーイだったりするからって、それを殺人罪に結び付けるなんて……)
そうはいっても、彼のその王位継承者としては不真面目すぎる性格が自身の立場を不利にしているということを、彼は痛いほど承知していた。
彼は自分に言い渡されるであろう罰について予想した。まず、極刑になることはないだろう。しかし、有罪になれば王位が剥奪されるだろうことは確かだ。それについては権力欲のないフレッドにとってまったく問題ないことであった。
考えうる最悪の場合には流刑になるだろう。
無言で食事を運ぶ兵が1日3回来る以外に、一度法務官が彼のもとを訪れ、事件に関して質問をした。彼は薄暗い地下牢で睡眠不足になりながら過ごすうちに、昼と夜との境目も分からなくなっていた。それで頭が朦朧としていところに細かな質問を浴びせる法務官に対して、ただ一言返事をしただけだった。
「俺はやってない。信じないならそれでいい。他に言うことはない」
しっかりとしたアリバイを説明するだけの気力が彼にはなかった。おそらく、国内で対立する貴族の派閥の一つがしかけた罠だったのだろう、と事件についてフレッドは想像したが、睡眠不足と頭痛に悩まされていた彼は、明確に何かを主張するのがとても面倒に思えた。
(もうどうでもいい。どうせ、俺が死刑になることはないだろうからな……)
そして、それ以上煩わせないでほしいということが、彼がその場で唯一感じたことだった。
フレッドのやる気のない短い釈明を聞くと、法務官はがっかりした様子で牢を出て行った。
そうして一週間ほど過ぎたある日、王から呼び出された彼は、兵士に連れられて王の間へと向かった。
息子の打ちひしがれた様子を見た王は一瞬同情を寄せたように見えた。彼の美しい銀髪は乱れ、まばらに無精髭が伸び、うつろな琥珀色の目が気だるそうに王を見ていた。
「お前にこんな思いをさせたくない。相手がモリッツ家の使用人でなかったなら、金で解決しただろう。しかし、お前の容疑は晴れなかった」
王は静かな声で続けた。
「手短に言おう。お前を流刑に処することで、法務官やモリッツ家の者と合意した。お前の罪を少しでも軽くしようと奔走したのだが、どうにもならなかった……」
予想していた最悪の事態が現実となってしまった。しかし、フレッドは特に驚くだけの元気もなく、うつろな目で父王を見て言った。
「そうですか……。わかりました」
王は哀れむように息子をみた。
「余もお前を信じたい。しかし、法務官も言うとおり、お前の親しい親戚であるアンネの主張や、お前の普段の素行の悪さのこと、それらを考えるとお前を無罪放免にはできない。それに、王家の抱える事情についても、お前は知っているだろう……」
王はため息をついてさらに続けた。
「隣国セイレンブルクに私の血縁のものがいる。そこでお前が不自由なく暮らせるように計らっておいた。王宮での暮らしほどいい暮らしはできないだろうが、そこで静かに暮らすがよい」
フレッドは諦めたように頷いた。
自分の惨めさが可笑しかった。王位を継ぎたくなかったのは事実だが、だからといって城を追い出されることは望んでいなかった。
自分の人生が音を立てて崩れていくのが感じられた。
「ところで、司祭のマニュエルがお前にどうしても面会したいそうだ」
そう言うと王は兵に命じてマニュエルを連れてこさせた。
白い司祭服のマニュエルは、部屋に入るとフレッドに悲しい面持ちで目配りした後、王の前で跪いた。
「国王陛下、面会を許していただけたこと、ありがたき幸せ。さらにご無礼を申しあげる心苦しさ至極ですが、王子と二人で話しとうございます。なにとぞご慈悲を」
「いいだろう。そもそも、我が愚息に足りぬのは信仰であろう。こやつにはお前の助けが必要だ。我らは部屋の外で待っているから、心行くまで話すがよい」
そう言うと、王は兵を連れて部屋を出た。
マニュエルはフレッドの親戚に当たる。直接の血の繋がりはないが、子供のころには彼の兄のクリスと三人で一緒によく遊んだ仲である。兄クリスの方は豪快な性格で国政の重要な立場を担っていた。マニュエルは真面目な性格で、幼い時より信仰心を持ち、神学校を出て司祭になった男である。そういうこともあって、青年になるころから不真面目なフレッドとは少し疎遠になっていた。しかし、フレッドが去年王国内で起きたとある事件を解決して以降、彼はフレッドを恩人として慕っていた。
マニュエルは柔らかな金髪を揺らしてフレッドに近づいてきた。童顔に優しい笑顔を浮かべていた。
「フレッド様は無実ですよね?」
一瞬驚いたフレッドは、皮肉っぽい眼差しで彼を見返した。
「さあ、どうかな……」
「それだけ軽口をたたけるのなら、少し安心しました。それにしても、災難でしたね」
「まあ、いいさ。これで王位を継がなくてもすむのだから、気楽だよ」
「またそんなことを言って! それにしても、なぜアンネ・フォン・モリッツは貴方を嵌めたんですか。心当たりはありますか?」
彼は首を横に振った。
「アンネと俺は親戚同士だし、特に仲も悪くない。なぜ彼女がそんな嘘の証言をするのか、俺には全く見当がつかない」
悔しそうにフレッドは拳を握り締めた。
「俺はマルレーンのことを知らなすぎる。彼女とは一夜限りの関係だからな。アンネが嘘を付くのには、おそらく、何かしらモリッツ家内部の派閥間争いが絡んでいるのだろう。馬鹿馬鹿しいことに巻き込まれたもんだ。でも、こんな面倒な国を出られて、少し清々するよ」
マニュエルは口をへの字にした。
「僕はこの事件について3日前に知りました。僕の知ってる限りでは、もちろんマルレーン殺害の真犯人は分からないし、何もアンネがフレッド様を騙す動機となるようなことが見当たりません。だいたい、アンネの家は王家と親しい派閥に属していますから……」
「お前はそれでも俺を信じてくれるのか?」
「もちろんです。フレッド様は意外と良い人ですから。殺人なんてしないと思うんです」
フレッドはやっと少し笑顔をみせた。
「貴方が流刑地として隣国セイレンブルクに行くことになったと聞きました。でも、あそこは悪い場所ではない。国内にはいくつか素敵な聖地もありますし」
「そうだな。俺も悔い改めて聖地巡礼でもするか」
フレッドは瓢けてそう言った。しかし、やっと自分の無実を信じてくれる者が現れたことで、少し気も晴れた。
「フレッド様、僕も一緒に来ます!」
マニュエルは彼の目をじっと見据えてそう言ったのだが、フレッドは度肝を抜かれた。
「冗談言うなよ。お前、やっと神学校を卒業したばかりだろう。どうしてお前がくるんだよ」
「言ったでしょう。貴方は恩人です。去年の事件で兄アレックス殺害の敵を見つけてくれました。それに、僕はモリッツ家にとってもあまり必要ない人間です。誰かしら貴方のお供をして一緒に来なきゃならないなら、僕がもってこいです!」
フレッドは少し頬を赤めた。
「本気か、お前?」
「はい」と元気に答え、マニュエルは屈託のない笑顔を見せた。
「王とは僕が交渉します。それに、僕が戻りたくなったら、僕だけここに戻ることだってできます。少しの間だけでも貴方の役に立てたらと思って。それに、この前フレッド様とお会いした時、偉そうに『旅をするように』なんて変な助言をしたのが、ちょっと原因な気もしますから」
「そんなの偶然だろう」
「この世に偶然はないと聖典は言います」
二人は数週間前に一度会っていた。フレッドには忘れられない初恋の人がいて、彼女のことについてマニュエルに軽く相談を持ちかけたのだった。そのときにマニュエルがフレッドに言った助言こそ、『旅をして、世界を見ろ』というものだった。王位継承者であるフレッドには実現不可能に見えたことだったが、その考えが彼の頭の隅で微かな希望となっていたのは事実であった。
フレッドは、諦めたように苦笑した。
「お前が付いてきてくれるのは正直嬉しいよ。お前は良い奴だし、俺の罪深い心を悔い改めさせるには、お前のような司祭様の同行が必要だろう」
「そうです。大罪を犯した王子様の懺悔をいつでも聞いてあげますからね」
冗談っぽくマニュエルはそう言った後、真面目な面持ちで続けた。
「僕はフレッド様の無罪を証明したいです。兄のクリスも貴方の無罪を信じています。彼は忙しい人だけど、空いた時間で貴方の無実を証明するよう努めてくれるとのことです」
マニュエルが言うには、クリスもアンネと同様モリッツ家内保守派の人間だからこそ、秘密裏に調べれば事件に関する良い情報をつかめる可能性は大きいとのことだった。
「無実を証明する証拠が見つかれば、貴方をツォーハイムに戻すことができます。今は兄を信じましょう。大人しく貴方が追放されたら、貴方を嵌めた人たちも油断するでしょうし」
やっと少し希望が見えてきた。両親や周りの者が自分を信じてくれなかったことが彼の心をまだ苦しめたが、少なくとも友人であるマニュエルやクリスが自分を信じてくれることが嬉しかった。
マニュエルは暖かい眼差しでフレッドを見つめた。金髪の細かな髪と白い服が相まって、彼は絵画の中の天使のようにも見えた。
「貴方の無罪を信じているのは僕やクリス兄さんだけじゃない。家臣の中にも真偽を疑っている人はいくらでもいます。貴方への対処がこんなに偏ってなされたのは、去年の事件の影響から、モリッツ家への配慮があったからでしょう。王家はフレッド様をさっさと国から追放することで、モリッツ家にご機嫌取りをしたつもりなのでしょう」
マニュエルはそういうと、フレッドへの同行ついて王と話すために部屋を出た。




