赤の守護者
ラザフォードとフレッドは二人並んで研究所の門を出た。
彼女は研究プロジェクトの進捗などについてフレッドに語って聞かせ、フレッドは幸福そうな顔をして、頷きながらそれを聞いた。
「ラザフォード先生は本当に研究が好きなんですね」
「ええ。新しいことが分かっていくって素敵なことじゃない? でも、フレッド君もすごく褐曜石に興味があるみたいじゃない」
フレッドは、彼が興味あるのは褐曜石でなくラザフォード自身だということを心の中で思い苦笑した。そして、「興味はありますね」と曖昧な返事をした。
「ところで、あの褐曜石が発する熱の力を利用する大きな施設――通称『赤燐』っていうんだけど、私が付属学校の一年生を追えたころに建設されたのよ。そのときは一般の生徒達は見学させてもらえなかったの。でも、私も君がやっているような助手をして、そのときに初めて見てからというもの一目惚れしちゃって、それ以降私は研究一直線なの」
一目惚れという言葉に彼は敏感に反応した。彼女の語り口の可愛らしさに胸がときめいた。
「『赤燐』ですか……」
「そう。褐曜石は反応が最大に達すると有害な赤い光を発するの。そこから来た名称なんですって」
「でも、褐曜石から赤い光が出るっていうのは迷信だと聞きました」
「そうでもないのよ。安全基準値内の最大出力で稼動させた際に、赤い光が見えたんですって。私はその実験には直接関わってないけど」
ラザフォードの言葉に、フレッドはマニュエルの言っていた伝承を思い出した。――山の女神の怒りという赤い光について、マニュエルは怯えながら話していた。
彼女は自分の腹に手を当てて言った。
「あーあ、おなかが空いたわ。これから私の行きつけの大衆食堂に行くわね。そこの魚料理がすっごく美味しいのよ」
二人は下町の方へ歩いていった。小さな店舗の並ぶごみごみとした通りのなかで、彼女は一軒の店へ足を踏み入れた。
「おかみさん、私の生徒を連れて来たわ!」
彼女はそう言って店内に入ると、そこにいた常連らしい客の何名かに挨拶をした。
「あら、ラザフォードさん。いらっしゃい。随分ステキな生徒さんだこと」
太った女が笑顔でフレッドを眺めた。
「さあ、なんでも好きなもの注文していいわよ。といっても、そんなに沢山メニューないけどね。――おかみさん、私はいつもの魚の料理お願い。あと、白ワイン」
フレッドも同じ物を頼むことにした。
すぐに出てきた料理を前に、二人はグラスを傾けた。
安いワインの味は彼の表情を一瞬曇らせたが、魚料理の方は良い味だった。何より、こうしてラザフォードと二人で食事ができることは何にも代えがたいものであった。
「美味しいですね、この魚」
「そうでしょ? この店は私の住んでる場所から近くて、週に2回はここに来ているのよ」
「そうなんですか。俺の家からも近いですね」
「どこに住んでるの?」
「その川を越えたすぐの所です」
ラザフォードは怪訝な面持ちでフレッドを見返した。
「あそこは、高級住宅街じゃない。私はてっきり君は学生寮にでも住んでいるのかと思っていたわ」
モリッツ家から定期的に運ばれる資金によって、フレッド達はそこそこ良い物件に住んでいたのであった。ラザフォードの疑念をかき消すために、自分達が住んでいるのは高級住宅地の中の格安物件であるとの嘘をついた。そして、彼は話を変えようと努めた。
「先生は一人でお住まいなんですか?」
ラザフォードはサラダを口にほお張ったまま首を振った。それを飲み込んでから言った。
「私は妹と一緒に住んでるのよ」
彼女との他愛無い話が楽しかった。
食事が終わってしばらく経つと、ラザフォードは「そろそろ帰りましょう」と言って席を立ち会計を済ませた。外に出ると既に日は暮れ、街にはランプがあちこちと灯り、雑多な町並みの中を、蛍が飛ぶように照らしていた。その向こうに見える海の上にも、明かりを灯した船が何席も行き来し、街の景色の向こうで美しい背景となっていた。
「フレッド君、付き合ってくれてありがとう。楽しかったわ。よかったら、時々また連れて来てあげる。最初はフレッド君のこと変な子だと思ったけど、仕事もがんばってくれるし、貴方と一緒にいるのは楽しいわ」
その言葉を聞いたフレッドはできることなら彼女を帰したくないと思った。しかし、優秀な研究員として彼女を尊敬していたこともあり、自制心によって自分の助平心を押さえつけた。
「俺の方こそ、ご馳走様でした。まさか、ラザフォード先生と二人で食事ができる日がくるとは思いませんでした。本当に楽しかったです」
それだけ言うのがやっとだったが、彼は震える瞳で彼女を見ると、ラザフォードも一瞬真剣な表情でフレッドを見た。
彼は息を止め、手のひらが汗ばむのを感じていた。息を止めた一瞬が長く感じられたが、彼はすぐに気さくな笑みを自分の顔に強いた。
「それじゃあ、また明日」
フレッドは手を握り締めて彼女に背中を向けると、足早に歩き始めた。
後ろから、「気をつけてね」というラザフォードの声が聞こえた。
翌朝、二人は何事も無かったように顔を合わせ、いつも通り仕事を開始した。唯一変わったことといえば、さらに熱心に働くフレッドをラザフォードが嬉しそうに遠くから見つめることが増えたということだけだった。
***
学期休みもあと一週間という日のことだった。フレッドは相変わらずの単純作業を黙々とこなしていた。自分に微笑みかけるラザフォードのことを考えることが、そのつまらない作業をこなす唯一の動力源であった。
午後になるとラザフォードは会議に呼ばれ、いつもの研究室にはいなかった。ここぞとばかりにフレッドは持ってきた砂糖菓子を齧りながらぼんやりと外を眺めて仕事をサボっていた。あと数時間で仕事はお仕舞いだった。今日も、もしかしたらラザフォードと一緒に帰れるかもしれないと淡い期待を抱き、彼女を口説くための台詞を考えていた。
気がつくと彼はそのままうたた寝をしていた。どれくらい寝ていたのだろうか。何かの物音で目を覚ましたフレッドが目を開けると、窓の外で何か黒い影が動くのが見えた。フレッドはそれを目で追った。
(おかしいな……。猫かなんかにしては大きい感じがする)
念のために誰か呼びにいこうと思ったフレッドがドアを開けるて部屋の外へ出ると、廊下の先に血痕が見えた。
彼は絶句し周りを見回したが、人は誰もいない。隣の研究室のドアが半分開いていたから中を覗くと、窓が壊されているのが見えた。
(何があったんだ、いったい。皆はどこだ?)
鼓動が激しくなり、眩暈を感じていた。
ラザフォードはまだ会議だろうか。他の人々は……。ただ、彼のいた研究錬には静まりきった空間だけが広がっていた。
その部屋を出て、もう一つ先の部屋のドアを開こうとした。ドアノブを握り恐る恐る開こうとした瞬間、中から微かな男の話し声が聞こえる。聞きなれぬ発音。それが研究員ではないことは確かだった。ドアノブから手を離すと、彼はしのび足で廊下の棚の影に隠れた。
間もなく、その部屋から全身黒装束の男が二人、足音もなく廊下へ出てきたのが、彼が隠れていた場所から見えた。二人がフレッドのいた部屋に入っていくのが見えるが、棚の影で息を殺すフレッドには気付かなかったようだ。彼らが何者かは全く見当がつかなかった。壊された窓と廊下の血痕、そして静寂。心臓が早鐘のように打つ音だけが、彼には聞こえていた。
フレッドはマニュエルのことを思い出した。意を決すると、マニュエルが仕事をしている研究錬に向かい物陰に隠れながら移動した。その研究錬に入ると、廊下に二人ほど研究員らしき人物が倒れていた。明らかに二人はすでに息をしていなかった。マニュエルの働く部屋まで辿り着くと、フレッドはそっとドアを開けた。
ドアに入った瞬間、鈍器で頭を殴られてフレッドは床に身を沈めた。
「フレッド様!」
それはマニュエルだった。一瞬目の前が真っ白になったが、猛烈な痛みとともに彼の意識はすぐはっきりとした。
「痛ってぇ! 何するんだこの野郎!」
慌てふためくマニュエルは、「ごめんなさい」と小さな声で繰り返した。
「奴らだと思ったんです。僕はうまく隠れていて助かったんですが、グレアム先生が戻ってきません」
「一体何があったんだ、マニュエル!」
「わかりません。僕は怖くて部屋を出られなくて。でも、窓の外を大勢の黒装束の者達が走っていくのを見ました」
恐怖に涙を流すマニュエルは、項垂れてしゃがみこんだ。
「それにしても、なんでこんなに静かなんだ?」
「皆、隠れているのか、それでなければ……」
その先を言おうとしたが、彼の唇はただ震えるだけだった。
「落ち着け!」
フレッドは自分自身にも言い聞かせるように、厳しくそう言った。
何者かが研究所を襲撃したのは確かだろう。しかし、どうやって。まさか、国内の者が研究所を襲うわけはないだろう。国境は厳しく傭兵団によって守られ、国が面する海も、友好国の艦隊に警備されている。すでに国全体が襲撃されたのだろうか。しかし、今朝研究所に来たときの町並みは特に変わったところもなく穏やかで、普段と変わらなかった。それはすべて彼がうたた寝をしている短い間の出来事だったから、研究所のみが奇襲をかけられたと考えるのが妥当だった。
「ラザフォード先生は……」
取りあえずマニュエルの身の安全を確認したフレッドは、次に彼女の身を案じた。
「わかりません。でも、下手に動かない方がいいですよ」
マニュエルは、とっさに部屋を出ようとするフレッドを引きとめようとした。
「でも、彼女を助けないと!」
二人が小声で言い争いをしていると、窓の外で動く影が目に入った。とっさに二人は窓の下に隠れ、気付かれないようにしながら外を覗いた。
黒装束の男達が長さ10mほどの長さの大砲のようなものを運び出しているのが見えた。それを見たフレッドは、恐ろしくなり、思い直してマニュエルと共にその場で隠れることにした。下手に動けば殺されるだろうことは、廊下に倒れている研究者達を見れば理解できた。ラザフォードを助けたいとは思ったが、まずは待機するのが賢明であると思えた。
一時間ほど沈黙の中で二人はただじっとしていた。廊下を歩くいくつかの足音と話し声が聞こえた。その様子からして研究員達のようだ。二人はドアを出ると、それはグレアムともう一人の研究員だった。
「グレアム先生! いったい何が起きたんですか?」
「マニュエル君か。よかった無事で。研究所が襲撃されたらしい。私も隠れていたので分からないが、『赤の守護者』が盗まれたそうだ。大変なことになった」
「赤の守護者?」
「そうだ。褐曜石を使った兵器だ。リッツシュタイン城の塔にも一機あるだろ。最近新しく作られたもう一体の試作品と、ここに保管されていた砲弾が持ち逃げされた」
そういうと、グレアムは二人に「まだ隠れているように」と言って先を急いだ。
『赤の守護者』は、リッツシュタインとツォーハイムの間に亀裂を起こし、国交が断絶されたきっかけとなった兵器である。二人はそれが城の塔に配備されているのは知っていたが、もう一台あったとは知らなかった。そして、その砲弾が盗まれたというのも、二人をとりわけ驚かせた。『赤の守護者』の砲弾には、大量の褐曜石が使用されるため、リッツシュタインへの褐曜石の流入を減らして自国を守ろうというのがツォーハイムの考えであった。しかし、実際に弾薬を作るだけの褐曜石をリッツシュタインが所有しているかについては、ツォーハイムにおいて知るものはいなかったし、そのことは学校内でも語られることもなかった。『盗まれた』というグレアムの言葉から、それが実際に何発か既に出来上がっていたのがわかった。




