研究員ラザフォード
「あー、散々だったな」
授業初日の帰り道に、フレッドはぐったりしてそう言った。海に沈んでいく夕日を見ながら、彼は石ころを蹴飛ばした。
「そうですか? 僕はなんだか神学校時代に戻ったみたいで楽しかったですけど」
「やっぱり、お前一人で行かないか。俺はワイン屋の仕事の方が楽しい」
「初日にしてすでに辞める気満々ですか。お気持ちは察しますが、もうちょっとがんばってみてはいかがでしょうか? それに、一人で出国の手がかりを探すより、二人で探した方が、効率がいいのは確かじゃないですか」
ため息交じりにフレッドは「はいはい」と言った。
次の日にも、フレッドは相変わらずやる気がなさそうにぐだぐだと文句を言いながら登校した。登校させるまでもマニュエルは一苦労した。起き上がらないフレッドを、兵士アルネと共になんとか揺すり起こしたのだった。
「で、今日は何の授業があるんだ?」
フレッドは教室の入り口にある予定表も確認しなかったようであった。
マニュエルはフレッドの異常なまでのやる気のなさを案じたが、彼のことはなるようにしかならないだろうから、もし彼が学校を放棄した場合は、自分が何としても学校に残るしかない、と心を引き締めて授業に臨んだ。
マニュエルは昨日一日学校にいただけで、自分の学力が他の生徒達に遠く及ばないことを実感したが、それでもなんとか授業内容は多少理解できたので、いつか追いつけるだろうという希望が湧いてきていた。
まだ教室には一時間目を担当する教員は来ておらず、フレッドは相変わらず窓の外をぼーっと見ていた。マニュエルは慣れない集団生活に辟易とする彼をそっとしておこうと思い、同級生達と雑談して授業開始を待った。
しばらくすると、一人の若い女性が部屋を入って来た。
それを目にしたフレッドは突然すごい勢いで立ち上がった。
「リーナ!」
教室にいた一同はフレッドを凝視した。
フレッドはその女性のすぐ傍まで歩いていった。
「リーナ、なぜお前がここにいる?」
彼は少し震えているようにも見えた。
「リーナ? なんのことですか? ああ。もしかしてリーナ王女様のことですか? よく似ていると言われますが、違いますよ。でも、王女様をそんな風に呼び捨てにするのは感心しませんね」
女性は一歩後ろへ下がると、冷たく言い放った。
「さあ、早く席につきなさい」
フレッドはもう一度彼女をよく見ると、その女性は非常にリーナに似ていたが、リーナよりも若干年上に見えたし、彼のしっているリーナとは少し違っているようにも見えた。しかし、自分の胸が早鐘のようになるのをフレッドは感じた。彼女があまりにもリーナに似ていたからだ。フレッドは同級生達が、がやがやと彼の奇行について話しているのを無視して、マニュエルの隣の席についてから、もう一度教室に響き渡るような声を出した。
「お前は本当に……、本当に、リーナじゃないんだな?」
フレッドの目があまりに真剣だったので、彼に見つめられたその女性は少し動揺したが、怒りを込めて言った。
「違うと言いましたよね」
フレッドは女性を正面からじっくりと見据えた。
「フレッド様、よしてください」
マニュエルは彼をけん制しようとした。
「たしかに、リーナに比べると彼女は巨乳だ。リーナとは違って良い乳をしている」
フレッドはマニュエルだけにそう言ったつもりだったが、女性教員の耳にもその言葉が聞こえたらしく、彼女は顔を真っ赤にした。
「今度そのような無礼なことを言ったら、すぐに貴方を教室から追い出します。授業を始めますのでもう止めてください」
フレッドはまだ自分の目を信じられないといった様子で、女性を凝視していた。
女性はその視線を無視するように努めながら教壇に立った。
「それでは授業を開始します。私の名前はラザフォードです。普段は研究所の研究員をしていますが、今年は週に1コマ、皆さんの褐曜石応用技術基礎を担当します。この科目は特に難しい科目で、半分以上の人がテストに落ちてしまいます。全ての人にとって重要ではないのですが、褐曜石応用技術を将来選考するという希望がある人は、必ずテストに合格してください」
女性の話しぶりを聞くとフレッドは彼女がリーナではないことがさらに腑に落ちた。しかし、それでも彼女は本当にリーナによく似ていた。
「フレッド様、大丈夫ですか。顔色が悪いようですが……」
マニュエルはフレッドの様子をうかがったが、フレッドはそれが聞こえなかったようにラザフォードと名乗る女性を見続けていた。
教員ラザフォードは一通り授業の進行などについて話すと、生徒達に質問はないかと訊ねた。
マニュエルの後ろに座っていたクリスチャンが、手を上げた。
「僕はセイレンブルクの出身です。でも、リッツシュタインはセイレンブルクと違って、原産国のツォーハイムから褐曜石の輸入を禁じられていますよね。第三国からの輸入は非常に高価になることもあって、現在ではほぼ輸入されていないと聞きます。なのに、なぜここで褐曜石が研究されているんですか?」
ラザフォードは微笑を浮かべた。
「とてもいい質問ですね。その質問に答える前に、皆さんの多くは褐曜石についてあまり知らないと思うので、皆さんの知っている褐曜石についての知識を教えてもらいたいと思います。褐曜石の性質について何か知っている人はいますか?」
女性は教室を見渡した。
フレッドはおもむろに手を上げた。
先ほどの彼の奇行から、彼が突然手を上げたのについて、また何かおもしろいことが起こるのを期待した一同は、ひそひそと囁きあっていた。ラザフォードは彼を指名するか一瞬迷ったような表情をしたが、他に手を上げた生徒がなかったので、意を決して彼を指差した。
「えっと、そこの君」
フレッドはラザフォードを見つめながら、立ち上がった。
「褐曜石の使い道は多種多様だが、その原理はいまだ解明されていない。主に他の物質の性質同士の結合や反応を強化・促進させることが特徴で、大抵の物質について反応を起こすが、空気中に単独に置かれていれば空気との作用は始まらない。これを混ぜて作られた合金は決して錆びることも折れることもなくなるし、燃焼物の火力を強めることもできることから、軍事利用や職人達が日用品を作るために、多くの需要がある。無機物との利用方法のほかにも、褐曜石は人体に効く薬の効果を高めることもできる――」
それだけ言うと、フレッドはラザフォードに微笑を見せてから着席した。生徒達は滑舌良く話すフレッドを、驚きの眼差しで見つめていた。ラザフォードも一瞬怪訝な様子を見せたが、すぐに笑顔を作った。
「君は褐曜石に随分興味があるみたいですね。良く勉強してきましたね。その通りです。付け足すことはあまりないですね」
彼女は他の生徒達に視線を送りながら言った。
「もちろん輸入量は限られています。でも、私達研究者は、褐曜石こそこの国の産業に革命を起こすほどの力を持っていると思っているのです。だからこそ、褐曜石の研究を続けることには意味があるのです」
一人の生徒が手を上げた。
「僕は褐曜石が混ぜられた道具を見たことがありますが、原石ってどんな風なんですか?」
ラザフォードは生徒達が授業に食いつくのが嬉しいようすで、笑顔を見せた。
彼女はおもむろに持ってきたバッグから小さなガラスのケースを取り出した。
「小さいけど、これが原石です。これだけで大きさでも、リッツシュタイン内での取引なら金貨2枚の価値があります」
そこには赤みがかった茶色の岩石があった。
「ただの石ころみたいに見えるけど、すごい力を秘めているんです。この石の成分についてはまだ分からないことが多いし、生産国のツォーハイムでは、販売の際の合意事項として、この石をそのまま砕いたりして使用し、石事態に成分調整をすることなく使用することを購入者に約束させます。ツォーハイムでは大昔から伝えられた非科学的な伝承を基に、使用方法を細かく規定していることも、両国の間の国交が断絶された原因の一つです」
マニュエルはその言葉を聞くと、少しムキになる表情を浮かべたが、フレッドはラザフォードに見とれるばかりでマニュエルの様子など上の空であった。
「――基礎知識はこんなところでしょう。それでは、少し褐曜石とその歴史について見ていきましょう」
黒板に年表を書いて説明する女性を、フレッドは未だに落ち着かない様子で見ていたが、しばらくすると彼は諦めて授業に集中しようと決めたらしく、ノートを取っていた。
授業が終わるとフレッドはまたラザフォードのところへとおもむろに歩いていった。そして、片方の膝をつき、頭を下げた。
「先ほどは失礼しました。貴女があまりにリーナ姫に似ていたもので、驚いてしまいました。もしよろしければ、貴女のお名前を教えていただけますか?」
彼女は奇行の生徒に辟易した様子だったが、苦笑しながら答えた。
「マリーよ。君は?」
「フレッドと申します」
じっと見つめるフレッドの琥珀色が美しい目は、もの言いたげにじっと彼女を見つめていた。しかし、若い研究者である彼女はそれ以上生徒からおかしな態度を取られたことをよしとせず、フレッドから顔を背けた。
「私のことをリーナ姫だと思ったららしいわね。私はリーナ姫を生で見たことがないわ。でも、知らない人に、似てるって驚かれたことがある。昔祖母が、うちはリッツシュタイン王家と遠い親戚だと言うのを聞いたことがあるけど、もしかしてそのせいで似ているのかもね。うちは貴族とかそんなんじゃないただの農家けど」
それだけ言うとラザフォードはその場を足早に去って行った。
一人になったフレッドに生徒達は群がってきた。
「フレッド、それは新しいナンパの手法か? 教員に手を出そうなんてお前はやっぱり変わってるな。でも、たしかに可愛い先生だったけどな」
「僕はリーザ姫を遠くから一度見たことがあるけど、確かに似ているような気がするよ」
生徒達は色々とフレッドに尋ねようとしたが、フレッドは何を聞かれても、面倒くさそうにいい加減な返事をしただけだった。
***
それからというもの、フレッドは何も文句を言わずに授業を真面目に受けるようになった。マニュエルには大体フレッドの考えていることが想像できたが、フレッドがこれで学校に自分から進んで残ってくれるだろうと思い、とりあえず安堵した。
翌週、また同じラザフォードの授業がある日に、登校する道の途中で、マニュエルは足取りも軽く歩くフレッドに、何気なく話しかけた。
「フレッド様、突然いい子になりましたよね。もしかしてあのラザフォード先生に恋をしちゃった的な? でも、それじゃあローゼンタールのカティヤさんがかわいそうですよ」
フレッドはマニュエルを鬱陶しそうな目で睨んだ。
「マニュエル……。カティヤのことは今でも大好きだ。この前手紙も書いた。もちろん、差しさわりのないことだけだがな。そして、まだ返事は来ていない」
フレッドは遠くの海の方に目を向けて、言葉を続けた。
「でも、いつローゼンタールに帰れるかわからないだろう。――正直言うと、あのマリー先生を見たときに、俺はリーナへの愛が全身を迸るのを感じてしまった。自分の心に嘘はつけない。かといって、カティヤのことも忘れたわけじゃない。面倒なことは考えたくないんだがなあ」
マニュエルは複雑な気分になった。カティヤにとってフレッドは特別な人であっただろう。しかし、彼がいつリッツシュタインを出られるのかわからないのも事実であった。カティヤはセイレンブルク人であるからリッツシュタインに入国できるだろうが、彼女が騎士団の仕事や家族を捨ててフレッドと共にここで暮らすのはありえないだろう。
フレッドにしても、彼のリーナへの執着は、マニュエルがどうこういって止められるようなものではなさそうだということくらいわかっていた。マニュエルには、ローゼンタールの山道で最後に見たカティヤの切なそうな顔を思うと、移り気なフレッドが薄情に思えるのだった。
教室に入るとフレッドは一人で最前列の席に座ったので、同級生達はまた彼を冷やかしたが、フレッドも授業開始から一週間経って、そろそろ彼らとのやりとりにも慣れてきたらしく、馴れ馴れしい彼らの態度に対しても、イライラしたような様子を見せなかった。
女生徒たちは一人残されたマニュエルを冷やかそうと、フレッドより後ろに座った彼の所へやってきた。
「あの先生が、貴方のフレッドさまをとっちゃったみたいね。二人はなんだか良い関係だと思っていたのに。かわいそうなマニュエル」
そう言って冷やかしてきたのはテレーザだった。
「テレーザ、僕たちについて何か誤解しているみたいじゃないか!」
「えっ、違うの? 二人はそういう関係だとばかり」
マニュエルは顔を真っ赤にして全否定した。
「でも、残念ね。私だけじゃなくてそっちシモーネも、フレッドは変人だけど、すごくハンサムだし、時々賢くて素敵って話していたの。でも当のフレッドはラザフォード先生にお熱みたいね。だけど、ラザフォード先生がフレッドのことを気に入るかもわからないし、まだまだ私達にもチャンスがあるかも!」
冗談半分にテレーザはそう言うと、友人のシモーネと共にフレッドについての噂話に花をさかせ始めた。程なく、テレーザは教室の入り口を見て言った。
「噂をすれば、何とやら。ラザフォード先生の登場ね。今日はどんなことになるやら。うふふ」
テレーザは笑顔を浮かべてマニュエルの隣に座った。
ラザフォードは部屋に入るなり、最前列の席に一人で座るフレッドを見てぎょっとしたが、あえて無視をしたように教卓についた。
「それでは授業を始めます。皆さん、今回からが本題です。しっかりとメモを取り、注意して聞いてくださいね。分からないときはいつでも質問してください――」
すぐに何人かの生徒が手を上げた。
「先生は、おいくつなんですか?」
一人の少年がニヤニヤしながら言った。
「授業に関係のないことを質問した者は、今後即時教室を出てもらいます」
ラザフォードは怒りを顕にした。
「――それでは、この方程式を応用して、反応速度を導くにはどうしたらいいかわかる人は?」
フレッドはすかさず手を上げた。ラザフォードは苦笑した。
「じゃあ、君」
それを聞いた彼は顎を上げてラザフォードを真正面に見据えた。
「マリーさん、ご指名ありがとうございます」
それを聞いた同級生達は歓声を上げた。
「皆さん、静かにしてください!――フレッド君、それはかまわないけど、教員を下の名前で呼ばないこと、いいわね?」
「貴女がお望みとあれば何でもしましょう」
フレッドはラザフォードを真っ直ぐ見つめてそう言ったので、彼女は思わずほおを赤らめたが、また歓声を上げて冷やかそうとする学生達を静めるのにひとまず必死であった。




