リッツシュタインの城下町
兵達と別れた二人は、のろのろとリッツシュタインの首都へと向かった。所持金が少なかったことから道中野宿を強いられたので、フレッドは酒が飲めないことなどに文句を言った。
しかし、彼らの旅路はリラックスしたものだった。二人がリッツシュタインにいるなど、アルスフェルトの鉱山襲撃計画者達は想像もしないだろうことから、追跡される心配なく過ごせたからだ。
マニュエルは相変わらず国から出られなくなったということで落ち込んでいたが、フレッドは彼を慰めようと、努めて明るく振舞っていた。マニュエルも落ち込んではいたものの、フレッドが無事だったことや、親切で品の良い骨董商人のおかげで、短い奴隷生活の間にフレッドが何もひどい目にあわなかったことを喜んでいた。彼はフレッド達を追う道をがむしゃらに急ぎ、ずっと神経を張り詰めていたのだが、二人で進む首都への旅路ではやっとリラックスすることができた。
翌日の夕方に、二人はリッツシュタイン王国の首都にたどりついた。
フレッドは丘の上に立つリッツシュタイン城を見上げていたが、彼が何か言うより先にマニュエルが口を開いた。
「あそこにフレッド様の初恋のリーナさんとその旦那さんが住んでいるんですね」
フレッドは心情を悟られたのが悔しくて、マニュエルを拳で押した。
街を眺めてみると、7,8年前彼が最後に来たときとあまり変わりないように見えた。
城の裏側に建つ巨大な王立研究所は彼らがいた位置からは見えなかったが、それがこの国を支える唯一の資産であり、この国の誇りであった。そして、商人ドレスラーが言っていた、出国のための手がかりもそこにあるのだった。
フレッドはマニュエルを慰めることで道中は頭が一杯だったが、いざ首都に着いてみると、彼の初恋の相手であるリーナ姫とのことが思い出された。
(もう、あれから2年か。長いようで短かったな)
フレッドにとって特別な存在であったリーナ。目を閉じれば、いつでも彼女の姿を浮かべることができた。
***
「――フレッド、ありがとう。貴方のことは死ぬまで忘れない。いつまでも愛しているわ。私達を引き裂く運命を今は受け入れるしかないけど、私のこと忘れないでね。貴方に会えてよかった。二度と会えなくても、私の胸の中にはいつだって貴方がいることでしょう。私のこと、時々は思い出してね」
リーナの潤んだ目が地下牢の薄暗いランプの光を反射して輝いていた。柔らかい肌と髪の匂いと、その暖かさ――。
それが昨日のことのように思われた。フレッドが彼女を忘れた日はなかった。
リーナにとってもフレッドは初恋の相手だったということもあり、2年前の事件でツォーハイムに誘拐されてきた彼女とフレッドは、人目を忍んで甘く短い時を共にすごした。彼女は誘拐された当初、不安の中で心を閉ざしていたのだが、むしろ吊橋効果とでも言うべきで、不安な状況の中だからこそ燃え立つ恋もあった。
しかし、フレッドが事件を解決し彼女を帰国させると、リーナはすぐに別の国の王子と結婚した。それが親から強要された政略結婚だったことを知っていてもなお、フレッドが受けたショックは大きいものだった。リーナの夫となったドーリンゲンのフィリップ王子について、フレッドはあまり知らなかったが、彼について悪い噂を聞いたことはなかった。せめてリーナが幸せ暮らしてくれていたら良いと思ったが、彼が実際の彼女の暮らしについて情報を得ることは今までかなわなかった。
城下町から王宮を見上げるフレッドは、そこにリーナがいることを思うと切ない気分になるのだった。
(リーナはどうしているだろうか……)
マニュエルはそんなフレッドにお構いなく、上京した田舎者のようにはしゃいでいた。道中では沈み込んでいたマニュエルだったが、リッツシュタインの町に入ってからというもの、打って変わって元気になっていた。
「僕、リッツシュタインに来るのは初めてです。クリス兄さんは小さい頃何度か来たらしいけど、僕は同行したことなかったんです。なんだか色々と見慣れないものがありますね。――見てください! あの箱型の小さな家が突然動きましたよ! 気のせいでしょうか?」
マニュエルは興奮したように一つの建造物の方向を指差したが、フレッドは面倒くさそうに「やれやれ」と言った。
「あれは熱を動力に変えて動いている馬車の代わりのようなものだ。馬車より速く動く。あれで王宮までの坂道を2分もしないで上がることができる。まだ試験的に作られているもののようだが、実用化がすすめば、いずれは馬車が必要なくなるだろう」
「えっ! でも、どうやって熱が家を動かすんですか? そんなことは不可能です。それとも何かの魔法ですか?」
「いや、魔法とかそんな非科学的なものじゃないから……」
フレッドはマニュエルの質問を出来る限りで答えたが、彼の質問はつきることがなかった。
「俺だって、そんなに詳しく知っているわけではない」
フレッドも、マニュエルの言う『魔法』の原理について全てを理解していたわけではなかったが、彼は科学について一般的なツォーハイム人よりもかなり多くのことを知っていた。
「なぜフレッド様はそんなに色々知ってるんですか?」
マニュエルは目を輝かせてそう訊ねた。
フレッドは一瞬考え込むような表情を浮かべた後、いたって真面目な顔で言った。
「このリッツシュタインでは、モテるために科学について詳しいことが必要なんだ」
マニュエルは深いため息をついた。
「リーナ姫に好かれたくて勉強していたわけですね」
フレッドが頷くと、マニュエルは苦笑した。
彼はそれだけフレッドから聞くと、またキョロキョロと周りを眺めた。
「あっ! あれを見てください! もしかして、あの赤いのが噂の『赤の守護者』ですか?」
マニュエルはリッツシュタイン城の塔にそびえる、大きな大砲のようなものを指差した。他の国で見るような大砲の何倍もの大きさをした大砲は赤く塗られ、威嚇するように海の方向を向いていた。
「本当にあったんですね……。あんなものがあってはならないのに……」
マニュエルは表情を失った顔を塔の方向に向け、言葉を失い立ち尽くしていた。悲愴な表情でしばらくじっとそれを凝視していたマニュエルの腹が、突然大きな音を立てた。
「フレッド様、おなかが空きました。何か食べましょう」
マニュエルはまたいつも通りの調子で、甘えたようにそう言った。
フレッドはおもむろに金の入った袋を覗き、所持金を確認してから首を振った。
「パンと水だけ買って夜まで待とう。今日から一日一食だ。そうでもしないと、兵の二人がクリスから金を持ってくるまで生き延びることができないだろう」
マニュエルはしゃがみこんだ。
「それじゃあ栄養失調になりますよぅ。兵がお金を持ってくるまで、ここで何か仕事を探しましょう。取りあえず何か食べ物が買える程度だけでも」
「それはそうだな。でも、俺は政務関係の事務仕事しかできないぞ。そしてお前は何ができるんだ? この国はほとんど宗教をやっている者がいないから、神殿の仕事は非常に少ないだろう」
「えっ! そうなんですか?」
マニュエルは本当に驚いた様子で言った。
「この国の科学者達は世界の仕組みを研究している。どこを探してもお前の信じているような神様がいないことを、彼らは見つけてしまったそうだ。だから、科学者を中心に動くこの国では、その民達からも宗教は大切にされなくなったのだ」
それを聞くとマニュエルは寂しそうな表情を浮かべたが、思い直したように顔を上げた。
「でも、違うと思います。神様っていうのは物質の根本原理なんです。だから、物質世界の法則を作り出した神様自身は物質世界には属しません。よって、世界の仕組みを研究した所で神様を直接知ることはできません」
さらに色々と、聖典の引用をして雄弁に語るマニュエルを、フレッドは耳をほじりながら面倒くさそうに聞いていたが、いくら聞いてもマニュエルの言うことがあまり腑に落ちない様子であった。しかし、マニュエルはさらに情熱的に話し続けた。
「褐曜石がなぜ人の望むとおりに物質を強化させたり、化学反応を異常に速めたりするのかわかりますか? それは神のご意思だからです!」
フレッドは、殆ど彼の言ったことを無視するようにあくびをした。
まもなく、彼の説法を中断させるために、口を開いたフレッドはなんとか話題を元に戻すことに成功した。
「で、その司祭様は、他には何の仕事ができるんだ?」
「えーっと、その……。なんでしょうね」
マニュエルの愛想笑いを見たフレッドはため息をついた。マニュエルにしても彼にしても何か特殊な技能があるわけでもなく、突然やってきた外国でできることなど、何もないように思われた。
二人は市場をとぼとぼと歩き、商人達に仕事をくれるように頼んだが、どこの馬の骨ともわからない者達に短期の仕事を与えようとする商人はなかなかいなかった。
それでも諦めずに聞きまわると、ある酒屋の主人がフレッドのワイン通に興味をもったらしく、話を聞いてくれた。
「ちょうど人手が足りなかったから助かるよ。ただし、雇えるのはフレッド君だけだ。君は全然ワインについて知らなそうだしね。それに、その格好、王立研究所の受験生だろ。 受験前に働いている時間なんてあるのか? 試験はもう3週間後だ。 私の姪も去年から学校に入っているのだけど、入試の前は追い込み勉強が必要だろう」
マニュエルは返答に困ったが、怪しまれないように話を合わせた。
フレッドは店の主人と仕事について話していたが、マニュエルはそれを待っている間に考え事をしていた。
(いっそ、本当に研究所の付属学校に入ればいいかもしれません。旅券発行に関係のあることが分かるかもしれないし)
彼の動機はそれだけではなかった。マニュエルは司祭として、この最先端の科学を誇る国で自然を研究する中で、神を否定することに至ったという研究者達についても興味を持ったのだった。
フレッドが仕事始めの打ち合わせを終えると、マニュエルはフレッドに研究所付属学校の受験について訊いた。フレッドは彼の考えを一通り聞くと、呆れたように言った。
「おいおい。たしかにこの国では16歳くらいで学校に入学する者も多い。しかし、神学しかやったことのないお前に数学や物理ができるのか? 俺もよく知らないが、学校に入るには受験をしなければならないんだぞ」
「でも、国に帰るためには研究所の者達と知り合う必要があると、ドレスラーさんも言ってましたよ」
「それはそうだが……」
フレッドは考え込んだ末、「いいだろう」と言って諦めたように笑みを浮かべた。
「お前がその気ならやってみろ。時間がないが、がんばれよ」
「ありがとうございます、フレッド様!」
二人は特にやることもなかったので、すぐに研究所付属学校の受験について調べるために、王立研究所へと向かった。
研究所は王族の住む城を挟んで、城下町の反対側に位置していた。城に比べて装飾の少ない大きな建物は高い塀に囲まれていた。どこまでも続く塀に沿って歩き、二人は入り口を探した。やっと辿り着いた塀の切れ目は、数名の警備兵によって堅固に守られていた。
警備兵に受験情報について尋ねると、彼はすぐに担当者を呼びにいった。
5分ほど待つと、兵は一人の少年を連れて戻ってきた。少年はマニュエルと同じような黒い服を着ていたが、フード着きのものではなく帽子を被っていた。彼はマニュエルよりも少し若いように見えた。少年は愛想よく二人に挨拶すると、彼がそこの2年目の学生であり、先生達に任されて受験生の質問に答える担当をしていると自己紹介した。
受験では数学と化学についての筆記試験と、その後面接が行われるという。マニュエルは注意深く筆記試験の内容について少年が説明するのを聞いていたが、全く耳にしたことがない単語が並んでいて、さっぱり何のことだか理解できなかった。しかし、フレッドは少年に対して色々受け答えをして、さらにいくつか質問を返している様子から、彼がある程度基礎知識があるということが見て取れた。
主にフレッドが少年と話をして、マニュエルは何を聞けばいいのか分からずに隣で下を向いて黙っていた。
フレッドと少年の話が一通り尽きると、マニュエルは形ばかりの礼を言った。
二人はまた塀に沿って来た道を引き返していった。道を歩きながら、遠くに見える海を呆けた顔で眺めていたマニュエルは、しばらくすると少し涙目になってフレッドを見た。
「フレッド様、僕はなんのことだかさっぱり分かりませんでした。どうしましょう……。やる気だけはあるのですが……」
「しっかりしろ、マニュエル。聞いた限りでは、大したことのない試験だ。しかし、お前も聞いたと思うが入学してからが大変だそうだな。毎学期末の試験で成績の悪かったものは、どんどん落とされていくそうじゃないか」
「でも、僕みたいに全く何も知らない人は、入学すら難しいでしょうね」
フレッドは顎にてを当てて少し考えた末に言った。
「俺はしばらくローゼンタールでソフィアに勉強を教えていたことがあった。ソフィアは俺が教えるのがうまいと言っていた。お世辞かもしれないが、俺もお前のやる気を見込んで、できる限りのことはする」
それを聞いたマニュエルはフレッドに抱きついて礼を述べた。フレッドはさらに話を続けた。
「あと、俺も念のために試験を受ける。お前が落ちてしまった場合、俺が研究者達と近づくために入学する。そうでもしない限り、研究所には入れないだろうしな。俺だってずっとここにいたいわけではない。カティヤもきっと俺のことを待っているしな」
フレッドは遠くを眺めながらそう言った。
「でも、フレッド様は身分証がないじゃないですか」
「それまでには傭兵達が金を持って戻ってくるだろう。それで奴隷身分からの解放者としての身分証を作ろう。お前にも同じように新しい身分証を作るべきだ。入学希望者をチェックするために、例の特殊なインクによる身分証の検査があるかもしれないだろ。偽造証明書じゃ、それをパスできるかわからない。それに、いざとなれば、お前も3年待つしかないから、念のために今からちゃんとした証明書を作っておこう」
フレッドが意外と抜け目ないことにマニュエルは驚いた。彼は、海の方をじっと見るフレッドの横顔を嬉しそうに眺めた。
その日からマニュエルは受験科目の勉強を始め、フレッドがワイン屋で働いていないときには彼から勉強を教わった。
フレッドは彼自身やソフィアが言ったように、要領よく分かりやすく勉強を教える才能があるようだった。そのおかげもあり、マニュエルは楽しく勉強を進めることができた。




