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樹 3

 

『美しさはそれだけで武器なのよ。貴方はそれを学ばなければね』

 そう言ったのは息子に良く似た面差をもった美貌の母だった。

 幼い頃から自分の容姿に苦い思いをさせられて来た身に母の言葉は衝撃だった。

『人はね、醜いものより美しいものが好きなの。それに振りまわされるのではなくて利用するのよ』

 樹と同じ薄青い瞳を悪戯っぽく輝かせて膝に乗せた息子を愛しそうに撫でる。

『貴方の外見に惹かれる人間は多くいる。でもね、貴方の外見ではなく内面を見てくれる人間も必ずいるわ。そういう人に出会ったら絶対に逃しちゃダメよ。その人はきっと貴方の味方になってくれる。とっても得難い人よ』

『どうすればいいの?つかまえてとじこめる?』

 息子の非常識な回答に母は声を上げて笑った。

『人を閉じ込める事は出来ないわ』

『でも、ママはぼくをそうしているよ?』

『そうね、貴方は今私の腕の中に捕まえて閉じ込められているわね。樹はずっとママの腕の中にいたいの?』

『………ずっとはいや』

『ふふっ、ママもずっとは無理かなぁ。腕が疲れてしまうもの。ねえ、パパはどうしてママの傍にいてくるのだと思う?』

『ママをあいしているから』

『そうね。じゃあ、おじい様の親友のラルクおじ様は?』

『おじいさまがだいすきだから』

『そうよ。大好きな人の傍を離れたいと思う人はいないのよ。人をね、閉じ込める必要はないの。貴方を大好きになってもらえばいいの』

『………なってもらえなかったら?』

『そのために外見だけじゃなくて内面も磨くのよ』

『???』

『樹が好きな人は誰?』

『ママ!パパ!おじいさまでしょ。後ね』

 身近な人物を片っ端から上げて行く息子に母の笑顔は深くなる。

『皆とっても素敵な人達よね』

『うん』

『樹もね、そういう素敵な人になればいいのよ』

『うん!』


 幼い頃のやり取りを鮮明に覚えている。母の言葉は成長するにつれよく理解出来るようになった。金品を得るのは容易いが、人を得るのは難しい。樹の容貌に惑わされる人間は実に多い。そういう人間程樹に勝手な要望や理想像を抱くのだ。ただ排斥するだけでは反発が大きいので、それをコントロールする事を早い段階で覚えた。お陰で人を観察する癖がついていた。人の機微に敏く大抵のトラブルは避ける事が出来た。だが千種に関してだけは、それはマイナスにもプラスにも働いた。


 その日、樹は何かと忙しい日で千種から離れる事が多かった。昼休みの殆どをプライベートな用事に費やして戻って来た時、教室に千種がいなかった。妙な胸騒ぎを感じて千種を探した。

 中庭の方からクラスメイトの女生徒達が歩いて来る。少しはしゃいで興奮しているように見えた。前方にいる樹に気が付くと少し動揺して直ぐに平静を取り繕った。

「斎賀君、こんなところでどうかしたの?」

 話しかけて来たのは一番気が強い女子の中心人物だ。美人でお嬢様らしく些か気位が高い。

「椎名を見なかった?」

 彼女達をじっと見つめる。彼女の取り巻きはちらちらと視線を交わし合っているが少女は堂々と樹を見返している。

「さあ、知らないわ。中庭では見なかったし、こっちには来てないのではないかしら」

「そう、ありがとう。でも念のために見てみるよ」

「いないわ。2度手間になるだけよ」

「そうかもね。でもいいんだよ、僕の気の問題だから」

 少女の顔が不愉快気に歪む。

「私、斎賀君に信用されてないって事?」

 二人の遣り取りを取り巻きは戦々恐々と見ている。樹の目が酷薄に細められる。急に変わった樹の雰囲気に少女達が後ずさった。

「僕の目は節穴じゃないんだよ。2度目はないから覚えておいて」

 冷たい一瞥を投げて通り過ぎる樹の背中に少女が声を張り上げた。

「斎賀君には失望したわ!!あんな女の後ばかり追い掛けて!!!」

 綺麗な顔を真っ赤に染めて涙を溜めた目で必死で樹を見つめる少女を樹は無表情に振り向いて優しく微笑む。

「それが、何?」

 樹にとって彼女にどう思われようが何の意味もない。彼女の気持ちは欠片も価値がないのだ。

 彼女が蒼褪める。取り巻き達はオロオロとするばかりだ。

 樹が背を向けて、今度こそ歩き出す。背中に彼女の泣き声が聞こえたが何も感じなかった。


 大概の人間は樹に対して程度の差こそあれ何らかの欲を抱く。清十郎でさえ最初の頃はそうだった。ただ一人千種だけが違った。千種の目には恐れと恐怖があるだけで、樹の美貌を前にしても欲がない。樹の事だけに限らず千種には欲求というのが希薄だった。生きて行く上では不自然な千種の在り方。私欲を排した千種は清廉で一つの澱みもない。それに樹は強く惹かれる。ただ一人千種に求められる存在になりたいと思うのだ。


 千種はずぶ濡れで制服は泥に汚れていた。杖もなく一人で立ち上がろうと悪戦苦闘している。千種は酷い有様だった。

 彼女の杖は近くには見当たらない。口は固く引き結ばれ助けを呼ぶ気はないようだった。

「椎名!」

 千種に駆け寄るとその軽い身体を有無を言わさず抱き上げた。見下ろした樹の眼差しに怒気を感じ取ったのだろう、抵抗は見せず視線を伏せて諦観の息を吐いた。

 千種を運びながら怒りは収まらず増して行くばかり。彼女をこんな目に合わせたクラスメイト達やそれを阻止出来なかった樹自身にではなく、それを許している千種に対して強い怒りを覚える。

 抱き上げた時千種には樹に見つかった事を憂いていただけでクラスメイト達に対する怒りも屈辱もなく、責める気さえないように見えた。水を掛けられ大事な杖まで奪われても泰然と出来る理由、時折見せる自身に対する厳しい態度や奇妙な諦観は、何をされても仕方がないと千種自身が思って受け入れているからだ。それは罪人が贖罪を乞うような態度を思い出させる。

 一体千種の何処にそんな罪があるのか。樹は千種の態度は全く理解出来ないが、樹以外の誰かにそれを許す千種に心底腹を立てていた。


 樹専用の休憩室に千種を運び込むとその身体をソファに降ろした。千種は身を固くして縮こまる。樹に対する怯えは相変わらずあるが、すぐに逃げ出す気配はない。もっとも杖がない今自力で歩いて逃げ出すのは不可能で大人しく座っているしかない。

 千種の緊張が樹にも伝わって来る。部屋の隅にあるロッカーからタオルを取り出して濡れた髪を拭おうとした。

「やめて!!」

 千種の手が樹の手を振り払う。静かな室内に千種の拒絶は鋭く響き樹を抉った。振り払われたタオルが樹の手から落ちる。

 ずっとそうして来た様に、千種は何度でも拒絶する。

 ―――樹だけを。

 不意に樹の中の眠っていた獣が咆哮を上げだ。千種を見据えて喉を鳴らして喜んでいる。

「じっとして」

 ささやくように言って千種に手を伸ばす。

「じ、自分で」

 怯えて震える千種は捕食者にとって嗜虐心を煽る結果にしかならない。樹の手が千種のブラウスのボタンにかかる。千種が驚きに目を見張る。

「ど…うして………?」

 そんな疑問は滑稽だ。樹の勝手な狂気が囁く。何をされても仕方がないと諦めているのなら、千種は受け入れなければ。樹だけを受け入れなければいけないのだ。

 千種の些細な抵抗を無視してボタンを外して行く。

「い、や」

 恐怖に身が竦んで千種は抵抗らしい抵抗が出来ない。混乱と恐怖に呑み込まれて息も絶え絶えに喘ぐだけ。

 樹の手が千種に触れる。温かく甘い肌は獣を夢中にさせた。

 彼女は美しかった。柔らかな髪、円やかな頬、澄んだ黒い瞳に小さな赤い唇。日に焼けていない白い肌。樹の片手に収まる柔らかな乳房。樹が持っていない優美な曲線。醜い跡の残る痛々しい右足さえも。その全てに触れて味わう。

 外見の美醜に何も感じない樹が、この身体が千種を形作っているのだと思うと全てが美しく愛おしく思える。

 小柄な千種の身体は樹の腕の中にこれ以上なく収まる。隙間なく重なる身体はパズルのピースのようにぴったりだった。

 この腕の中に一生閉じ込めておこうか?今ならそれも出来そうな気がする。

 キスを何度も繰り返す。飲み込みきれない唾液が千種の口元を穢して樹が恍惚と舐めとる。

 樹の中の獣が千種の全てを奪えと叫んでいる。最後に残った理性が千種を壊すなと訴えて来る。

 何も写していない朦朧とした千種の瞳を覗きこむ。

「千種、僕の名前を呼んで」

 切なく樹の瞳が揺れる。口に出してしまえば、それを何よりも望んでいたのだと知った。

 幾度となく樹を拒絶する千種は樹の名を呼んだ事が無い。彼女の拒絶の証だ。

 唇を耳元まで滑らせて囁く。ありったけの願いを込めて。

「千種、樹と」

 千種の身体が跳ねる。彼女の喉から悲鳴が上がった。

「あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああっ」

 暴れる身体を咄嗟に押さえつけた。

「千種!千種!!大丈夫だ、落ち着いて!!」

「うああああああああああああああああああああああああああああああああっ」

「これ以上何もしないからっ!千種!!」

 錯乱したような千種を抱き込む。壊れかける精神を繋ぎとめるために何度も何度も名前を呼んだ。やがて泣き喚くのを止めた千種の頬を樹が優しく撫でる。瞳から止めどなく零れ落ちる涙が樹の手を濡らす。

「千種、大好きだよ。僕から逃げないで、拒絶しないでくれ」

「………」

 樹を見る事なく千種の瞼がゆるゆると落ちて行く。大きく息を一つ吐いて千種の身体から完全に力が抜けた。

 千種を撫でていた手を握り締める。樹の顔が苦しげに歪み、千種の胸に顔を埋めた。赤い痣の、心臓の上で囁く。

「僕を受け入れて」

 これ以上酷い事をする前に。

「僕を………好きになって」

 誰にもした事のない懇願を、震える程の切なさを千種は知らなかった。



 その夜から千種は体調を崩して何日も休んだ。樹は許す範囲で千種の許に通った。ベッドの上で何度か目を覚まし、その度に樹を見て驚いた顔をする。熱で朦朧としていると分かっているが、何度確認しても千種の目には樹に対する嫌悪がなかった。

 ―――あんな酷い事をした樹なのに。

 手放せない。諦める事など出来はしない。樹の胸に決意が宿った。


後、ラスト一話。毎日投稿・・・こんな事は2度とないでしょう。(もったいぶる程の長さじゃないから、むしろ短編でもいいくらい)

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