無能、再び勇者になる
一撃を相打つだけでも死をなぞる行為なのに、俺は奇妙な穏やかさを感じていた。まるで、対話の席に座っているかのような気分で……自然と、意識の中に声が流れ込んできた。俺はなんだかものすごい焦燥に駆られ、これが最後のチャンスだと言わんばかりの勢いで語りかけた。
──どうしてこんな事をしたんだ?
『邪竜なので』
返答は直ぐに返ってきた。間も感情もない即答には、俺に対する距離感が在った。それがなんとも悲しくて、今までの親しさを思い出せば思い出すほど、俺は怒りが湧いてきた。
──誰も傷つけてない今ならまだ戻れる。こんな馬鹿なことはやめて、戻ってきてよ。
『何を躊躇しているのですか? 貴方は勇者、世界を救う最強の存在。人類の脅威たる化け物を倒すのは、貴方の使命ではないのですか?』
──俺はもう勇者じゃないよ。だから、俺にはイグニスさんを倒す資格も、理由もない。
『イグニスなんて人間は、いなかったんですよ』
俺は、なんだかむず痒くなってきた。振るわれる牙や尻尾、攻撃からにじみ出ているもの……それの正体が、偽物の殺意だということに気づいたからだ。彼女は始めから俺を殺すことが出来ていた、本気を出せば、辺り一帯ごと消し去ることなんて容易かったはずなのだ。なのに彼女はしなかった、それでも俺と戦っている。……バカバカしいけど、彼女らしい理由だ。
──イグニスさんは、俺の目の前にいるよ。
『違います』
──違わないよ。
『イグニスはヒトだった。ヒトの形をして、ヒトと同じく感情を動かし、同じヒトである貴方の隣りにいることが許された。何もかもが違う私が、イグニスなわけが無いでしょう?』
──違うよ、君は紛れもなくイグニスさんだ。だって……。
傷だらけ、もう腕は動かない。
でも、攻撃も来ない。
朦朧とする意識の中で在っても、その姿はしっかりと俺の目に写り込んでいた。
雨に濡れた草木のような、儚げな人だった。短く切り揃えられた銀髪、そこから見える、琥珀を散らしまぶしたような碧眼。その輝きに負けない程の純白の肌。そこら中に火傷を負った肉体はとても痛々しく、されど眩しく。
「だって、こんなに綺麗なんだもの」
そこに悪い竜なんていなかった。いいや、始めから悪い竜なんてどこにもいなかったはずなのだ。
ここにいるのはただの女の子。みんなのために自分一人を犠牲にするしかなかった、哀れな哀れな、強い女の子。ずっと誰かを待っていた、ずっと一人ぼっちが寂しかっただけの、ただの女の子。
「君は、アルトなんかじゃない。俺の仲間で、相棒で……大好きで大切な、イグニスさんだよ」
潤んだ瞼から、雫が滴り落ちる。彼女はまるで夢から覚めたかのように、そう、怖い怖い夢から覚めたかのように……開放された安堵感を、俺への抱擁という態度で示した。その様子に、誰が剣を振り下ろす? この弱さに、誰が恐怖を抱く?
「ガド……」
「うん、ここにいるよ」
「私の……」
泣きじゃくった声で、彼女は何度も声をつまらせながら、それを言おうとしていた。俺は彼女の背中を擦りながら、その言葉をじっくりと待った。待って、待って、待ち続けて……そして、遂にその言葉が転がり落ちてきた。
「私だけの、勇者様……!」
なんてことはない、勇者のふりをした無能は、たった今、一人の少女にとっての最高の勇者と昇進した。唯一で、絶対で、なくてはならない存在へと……俺はそんな自分のあり方を、皮肉を込めてこう嗤った。──失敗ばかりの、『無能勇者』と。




