無能、勇者を辞す
俺は昔から、頭が悪く物分かりもあまり良くはなかった。頭を使って物事を考えることが特に苦手で、働いて食っていくには戦士職しかなかった。
でも、目の前の魔王から告げられた言葉は、何故かすんなりと理解することができた。
「……」
イグニスさんは、邪竜アルトだった。
しかも、原点が悪ではなかった。なんの罪もない少女が、生贄として捧げられ、その結果生まれた災厄の生物……望まないまま全てを押し付けられ、望まないまま全てを憎むしかなかった、悪ではない人類にとっての驚異。
そう、彼女は何も悪くないのだ。数百年前、彼女が生贄に選ばれたのもきっと、当時の風習的には仕方がないことだ。生贄として捧げられ、自分だけが災いを一身に背負い、その犠牲の上で笑って生活をしている全ての生命に怒りを覚え、復讐したいと思うことも仕方がないのだ。──その結果、彼女が悪だと罵られて憚られるような存在になっても。
「……ふざけんなよ」
理解はできた。でも、納得なんてできるはずがなかった。
「ふざっけんなよ、マジで」
握りしめた拳に熱がこもり、それはじわじわと体に電波していった。燃え上がるような怒りは赫雷として、今までで一番青くて透き通って……激しくうねりながら、俺の体の周りで轟いている。
やるべきことは、きっと彼女を殺すこと。なんの罪もない彼女の息の根を、今度こそ完全に止めること。それでこの世界の平和とやらを保ってやること、犠牲で積み重ねた土台の上に、ヘラヘラ笑う理想郷を作り上げること。──だったら、俺の選択は唯一つだ。
「──アーサー、ごめん」
「駄目だ」
すべてを察した様子のアーサーは、持っていた剣を既に抜き放っていた。見せかけの殺気が、揺らめく優しさに混じって見え透いている。
「お前は勇者だ。魔王を倒し、世界に平和をもたらす存在だ。先代、先々代がそうだったように、お前は邪竜アルトを倒さなければならない」
分かっている、この選択が最悪なものだということを。俺が血反吐を吐くような思いで積み上げてきたそれも、ようやく取り戻した信頼関係も……それら全てをかなぐり捨てても、俺の願いが叶う確率は限りなく低いということも。
それでも、俺は見過ごせなかった。
「アーサー、先代勇者殿。俺は、俺の正義を貫くために勇者を放棄します。──彼女を助けたいんです」
「……そうか」
いいんだな、それで。悲しげな顔のアーサーが、こちらに切りかかってくる。
「では、現勇者として、俺が引導を渡してやる! ──世界に仇を為す、愚か者が!」
剣を掴み、根元からへし折る。同時に突き出した拳は勇者の腹の奥にめり込み、そのまま苦しそうな咳き込み……しかし彼は笑っていた。泣きながら、しかし安心したような表情のまま、俺の前で倒れ込んだ。
「……本当に、馬鹿だよな」
自分で自分を笑い、嘲りながら、俺は勇者を近くの木に寄りかからせた。もう二度と会うこともないだろうが、本当に惜しい男と道を違えてしまったものだ……またいつか、笑って話せる日が来るのだろうか?
「愚かじゃのぅ、しかし人間は、なんとも難儀なものじゃ。自分の意思や矜持を守るためだけに、何もかも捨てねばならないとは。いやはや……どうせ敗れるのであれば、お主のような人間に負けたかったものじゃ」
「笑うなら笑えよ、その代わり、アーサーには手を出すな」
「余の力では最早虫一匹殺せんよ。それと、別に余はお主を侮辱してはいない。むしろ評価しておる」
意味が分からない、こいつは何がしたいんだ? 訝しげな顔の俺を嘲笑うかのように、虫の息の大魔王はこう言った。
「合理も、論理も、優先すべきそれら全てをかなぐり捨て、守りたいものを守る。お主は無能ではあるが、無能故に、純粋で眩しい正義を秘めておる。勇者として、お主以上の適任はおらぬ。そこの小僧の心労も、少しは考えてやってはどうじゃ?」
「……大丈夫だよ、そいつなら」
俺は、やけに力のみなぎる体にムチを打ち、来た道に戻るように走った。まだ帰れるという事実に目を背け、救わなければいけない存在に手を伸ばす。あっちはもう大丈夫だ、最高の勇者が、もう一度人々の希望になってくれるだろう。
空を切り裂くかのような光を追いかけながら、俺はただひたすらに走った。




