無能勇者、寂寥たる背中を憐れむ
その背中は、とても大きく広かった。ガタイの良い肩甲骨が、風になびく赤いマントの上からでも分かる。数多の努力、数えきれないほどの苦労を積み重ね乗り越えた先に、この男は存在しているのだろう。――その背中が肩膝をつかない、体に風穴が空いても尚。
「……なんで」
「なんで、だろうな」
掠れて、イメージに合わない弱弱しい声が聞こえる。俺はこいつを反射的に助けたが、こいつが俺を助ける理由は無いはずだ。
「あいつのこと考えてて、もう二度と会えないってことを改めて自覚して。……もう二度と、自分の見栄で人が死ぬのは嫌だったんだよ」
意味が、分からない。誰の事を示しているのか、一体どんな背景が、過去が、この男の行動を狂わせたのか? どうして、こんな、死ぬような傷を負ってまで俺を守ったんだ。
――視界が、すとんと落ちる。
(え――?)
自分が、地面に寝そべっている事に気付くことにしばらくかかった。蠢くことで精一杯、指一本、眼球を回すだけでも相当な気力を要する。そう、気づけば俺は、体中の体力と魔力を全て使い果たしてしまっていたのだ。
「動くな馬鹿野郎、無理しやがって。猪突猛進な所は、アイツにそっくりだな」
「何、言ってるか、分かんねぇよ。お前こそ、死にかけのくせに……!」
立たなければ、すぐに次の攻撃が来る! 俺がやらなければ、俺がこの手で決着を付けなければ。立て、立て! このままじゃ死ねない、死んでアイツらに、アーサーに顔向けができない! だから俺は立たなければ、剣を握りしめて、立ち上がれ!
「そうやって、自分の矜持の為に他人を犠牲にするのが、勇者か?」
「――っ!?」
何を分かったような口を利いてやがる。俺は、擦り切れた怒りを赫雷に込めた……しかしどうにも上手く、纏まらない。ああ駄目だ、もう一歩も動けそうになかった。諦めたくない、諦めたくないのに!
「俺はさ、目を背けてたんだ。自分に向けられた愛情とか、ホントは分かってたはずなのにさ。わざわざ自分から突き放して、気が付いたらそいつの大事なモンが壊れてて、俺が『好き』だったアイツじゃなくなってた」
その言葉で、浮かぶ顔ぶれがいくつもある。村の皆、王様、両親、かつての仲間たち、そして……俺の背中に立ってくれると言ってくれた、イグニスさんの顔。
俺の行動が間違っている訳が無い、俺は今誰よりも正義に殉じようとしている。でもそれは、揺らぎつつあるのだ。
「……限界なのかもしれないって、思っちゃったんだ。少しでも挫けそうな自分が、少しでも、あいつが正しいんじゃないかって思った自分が許せないんだ……!」
大魔王はこう言った、全ての貧富を、比較という悪の概念を絶滅させる。全ての存在を、自らに統合させる、と。持たざる者としての俺は、その危うく恐ろしい考えを否定しきれなかった。一瞬でも、ほんの刹那であったとしても、俺はそれを「ああ、いいな」と思ってしまったのだ。
苦悩、余りにも苦悩。正義という概念が矛盾に満ち溢れた物である事を知ってしまった俺は、もう代用品の勇者を保つことは難しい。アーサーは、こんなに不安定で溢れ出そうなものを抱えていながら、剣を振るっていたのか?
自尊心の崩壊が始まる直前で、背中が答えた。
「んなもん、正しい部分もあると思うぜ」
「は?」
「考えてもみろ、なんで生き物は殺し合いをすると思う? 互いの主張、願望を押し付けるためだよ。そこに正義も悪も何もない……あるのはただ無秩序、絶対的なルールなんてハナから存在しないんだよ」
背中は徐々に俺から離れていき、その答えをびちゃびちゃと、赤い液体と一緒に零れ堕としていく。そこに明確な何かは無く、何もかもが曖昧で、混ざり合っていて、落としどころをどうにか探れと言いたげである。
「俺からしたら、人間って存在こそが本当の悪なんじゃないかと思うよ。感情なんて言う不安定なものを抱えて何百年も栄えておきながら、未だにそれを制御する術を見つけてやがらない。お前らに欲がある限り、お前らを脅かす存在は消えない」
「そんなこと言われても、俺には……!」
「だからこそ、俺からお前に与える助言は、これが最初で最後だ」
弱弱しい動き、既に死んでいてもおかしくない出血量。
死体の一歩手前と言っても過言ではない男は、振り返らないまま語る。
「お前が正しいと思ったこと、美しいと感じたもの、愛しいと思える人……そういうものを何が何でも守れ。他人の正しさに、お前の大切なものを飲み込まれるな――」
その背中には、威厳があった。
それは多くの強者を束ねた者として、それは己の誇りを守り続けると誓った者として、それは何かを失った先駆者として。
ぐちゃぐちゃで、めちゃめちゃで、どれがこの男の本音で本質なのかは、俺には全く分からない。
「――俺には、それができなかった」
それでも、この男が語る全ての総意……それらを一言で表すのであれば、『後悔』という言葉が当てはまるのではないだろうか? 何も知らない、知る由も無い俺は、膨らんでいく想像の中で、曖昧にアルカという男を憐れんだ。




