世の中の幸せな何もかもが
世の中の幸せな何もかもがぐちゃぐちゃになりますように。
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その女は、確かにサンタクロースと名乗ったのだ。
サンタクロース、サンタクロースである。サンタクロースと言えば、クリスマスに出没してはプレゼントをばらまく正体不明の人物だ。何が楽しくてそんなことをしているのか、どのような手口であの完全犯罪めいたサプライズを成し遂げるのか、夏場はどこに隠れ潜んでいるのか、それらの素性は全くの謎に包まれている。かくいう私も全身全霊をもって彼の者の正体を追い求めたことがあるが、ついぞその謎を暴くことは叶わなかった。
そんな胡乱さ極まる存在が、女の皮をかぶってこの私の前に現れたのだ。その驚きたるや筆舌に尽くしがたいものがあった。
「奇跡だ」
しかし、女は私以上に驚いていた。
「一体どんな人生を歩めば、サンタクロースを信じたままその歳まで生きられる」
夕焼優希、十六歳。
言葉の意味はわからないが、なんだか馬鹿にされたことは分かった。
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さあ今からお前に幸せをくれてやるぞと言われて、わーいやったーと受け取れる者はどれほどいるのだろう。
因果の見えない幸福なんて扱いにこまるだけだ。道端に落ちていた百万円を拾ったら、どんなしっぺ返しを受けるか分かったものではない。親切顔で近づいてくるやつほど裏があると相場が決まっているのだ。
「そんなに難しい話じゃないんだけどな」
なんと言おうと、生き馬の目を抜く現代社会では、小さな油断こそが命取りになる。私はそれを身に沁みて実感していた。というより、つい最近させられた。
具体的に言うと、先日学校をサボってぶらぶらと街を歩いていた時に、突然空から降ってきた廃ビルの外壁に押しつぶされたことで十分に理解した。
「私はただ、君に幸せになってほしいだけなんだよ」
病室に現れた彼女はそう繰り返す。しかし、瓦礫に両足を潰されて二度と歩くことができなくなった後に、そんなことを言われたって困るのだ。
それに、幸せと言われても良くわからない。それは何を意味する言葉なのだろうか。抽象的な言葉ではなくて、もっと具体的な定義を求めたい。私はこれでも理系なのだ。そう問い詰めたら、今度はこの女が困る番だった。
「実は、私もよくわからないんだよね」
サンタクロースなのに。そう責めると、彼女はますます困ったように笑うのだ。
「だから一緒に、幸せってやつを探してみない?」
サンタクロースは一冊の手帳を差し出した。
日記帳だった。
だから私は、らしくもなくこうして筆を執ることにしたのだ。
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この日記帳を見せつけると、彼女は大変に渋い顔をした。
「この一ページ目に刻み込まれた……呪詛? うん、呪詛。みたいなものってなんなのさ」
紛れもなく呪詛である。幸せを求めろと言われたは良いものの、幸せとは何かを考えあぐねた末に面倒くさくなってああ書いた。それ以上の意味はなかったが、期せずして意趣返しとなったので良しとする。
「君って、話したことをそのまま書くんだねえ」
それについては、なんとなく以上の意味は無かった。日記なんてものを書いたことは無いが、こうやるのがしっくり来るのだ。
「そうじゃなくて。私と話したこと以外は書いてないなって意味」
それは、まあ。それ以外に書くものなんて無いから。
夕焼優希とて人の子だ。書きたくもないことをわざわざ書いて、胸の内をぐろぐろさせる趣味はない。せめて筆を執るからには、少しくらいは現実ってやつから離れてみたいのだ。
「吐き出す場所になればと思ったけど、まあいっか。楽しんでくれているなら、それで」
それきり彼女はにまにまと微笑むものだから、私には余計に分からなくなってしまった。
吐き出せと。
仮に吐き出したとて、この薄っぺらい紙の束は、私の人生を受け止めてくれるものだろうか。
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にゃー。
にゃーにゃー。
にゃーごにゃーご。にゃにゃ。
みゃーお。みゃみゃ。みゃーみゃみゃ。
ふにゃー。にゃんにゃん。
うにゃ。
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以上が、我が十六年の生涯に起きた全てである。
これを読んだ諸賢においては、壮絶にして凄絶な体験であったと思われるかもしれない。かように苛烈極まる不幸がたかだか十六歳小娘のパーソナリティに重苦しく絡みついているなど、安穏な日常に生きるあなた方には想像もつかないだろう。しかし、これは紛れもなく事実であり、私がこの身で体験してきた地獄そのものだ。
こうして文に書き起こしたところで、やはり何がどうなるというわけではない。あの女の言うことは間違っていた。たとえどんなに破綻しきっていようとも、私の人生は言葉にしてどうにかなるような安物ではない。
「いや、そもそもさ。猫語なんだけど」
にゃんにゃん。
「書きたくないのは分かったから。それなら何か楽しいことを書いてみたら? どんなことでもいいから、何か楽しいニュースを期待してます」
なるほど彼女の言い分は一理ある。ちょうど私もそういうことを書きたい気分だったのだ。彼女がそれを所望するのであれば、全身全霊を持ってそれに答えようじゃないか。
この狭く閉ざされた病室で繰り広げられる七色の物語を、熱く迸る筆致で書き綴ることにおいて夕焼優希の右に出るものなどいないのだ。
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何書けばいいんだろう。
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日光。眩しいよね。
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バタピーのバタって何? あとピーも何?
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認めよう。そうともさ。楽しいことなんて無いのである。
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先日はああ書いたが、少しだけ自分のことについて記そうと思う。
夕焼優希は世の中が嫌いだった。学校に行くのが嫌いで、家にいるのが嫌いで、誰かといるのが嫌いだった。そこに至るまでの経緯を長々と愚痴っぽく語るつもりはない。ただ、私にとっては一人でぶらぶらとどこでもない場所を歩く時だけが唯一マシな時間だったのだ。
しかし今、どこかに行くための足すらも失った。こんな体ではもうどこに行くことも叶わない。元より不幸には事欠かない人生を送っていたが、ついにこういうことが起きたかというのが率直な感想だ。今更こんな不遇に嘆いたりしない。私にはもう、諦めるようなものなんて何一つ残っていないのだから。
だからもう。
そろそろ終わりにしても良いのではないかと、思うのだ。
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日記を読んだ彼女はさっと目を伏せてしまった。今にも泣きそうなくらいにくしゃくしゃの顔で、か細い声を漏らした。
「おっちょむ……。本気なの?」
ちょっと待てお前こそ本気か。その珍妙な呼び名はなんだ。まさか私のあだ名のつもりか。
「うん。夕焼ってなんか秋っぽくない? だからオータムで、おっちょむ」
次その名で呼んだらこの場で舌を噛みちぎる。本気の脅迫だった。諦めるものなんて一つもないとは書いたが、これだけは譲れなかった。
なんだか妙な寸劇が挟まってしまったが、昨日書いたことに嘘は無い。その上で私は彼女にお願いをした。管理された病院の中、自由に動かない体でそれを成し遂げるのは、少しばかり手間なのだ。私だって、できれば楽なやり方を選びたい。
そう頼むと、彼女はめちゃくちゃに怒った。
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実に数日間の攻防が繰り広げられた。
サンタクロースは私を籠絡しようとあの手この手を繰り出した。希望を説いたり、道徳を説いたり、本や雑誌を持ってきたり、テレビを付けたりした。私はそれらに一切に興味を持たず、ただ一つの望みだけを求め続けた。もしも彼女が幸せをくれると言うならば、それこそが私にとっての幸せに他ならないと。
やがて私は勝利を勝ち取った。
彼女は、私の頼みを聞いてくれたのだ。
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開けた屋上から見える空は、突き抜けるような青だった。
白いリネンが初夏の風に揺られてはためいていた。陽光に照らされた雨城の街はきらきらと輝いて見える。この街に良い思い出なんてものはないけれど、それでもこの景色は文句なしに良いものだった。こんな綺麗な一日を汚すのは、少しだけ気が引けた。
「やめる?」
サンタクロースは言う。私は首を振った。
「やめようよ」
首を振った。彼女はそれ以上言わなかった。
私が日記を書いている間、サンタクロースは景色を眺めていた。この日記は遺書になる。なので、誰に当てたものというわけではないが、書くことはちゃんと書いておこう。
私は誰も恨んでいない。
しばらく考えたけれど、それ以外に書くことは思いつかなかった。私は本当に世の中ってやつが嫌いなのだと思う。恨み言を思い浮かべるのも嫌になるほど、つまらない十六年だった。
それから私たちは少しの間他愛のない話をした。良い天気だった。それらの内容をこの日記に書くのも良かったが、そのために費やす手間が惜しかった。
だって。楽しかったから。
歓談の隙間にふとした無言が差し込んだ。少しだけためらいがちな息遣いに、彼女が次に何を言うのかが分かった気がした。
「どうしても、なんだよね」
私は今更返事をすることもなかった。柵の外を見やることで、私はそれを肯定した。サンタクロースの顔には実に様々な感情が渦巻いていたが、今は二つの感情がより強く出ていた。
血のにじむような切望と。それから、善悪を超越した、深くて重い覚悟があった。
「これから私がやることをどうか許してほしい。これは私にできる全てだ。必ずしも分のいい賭けじゃないことは、私自身良く分かっている。ともすれば、君はこれから果てのない地獄を見ることになるかもしれない。だとしても、私は、いつかの君に幸せになってほしい。それだけが私の願いだ」
言葉の意味は分からなかった。
それでも彼女は、彼女の言葉の一言一句をこの日記に書くように要望した。
「ルールは一つ」
彼女は言った。
「幸福には、総量がある」




