多少死んだくらいで死ぬわけじゃないんだから
喫茶店を後にした俺たちは、再びあの部屋の前に立っていた。
彼女は嫌そうな素振りを見せながらも、これ以上は俺を拒絶しなかった。彼女の顔には実に様々な感情が渦巻いている。その多くは後悔や葛藤といった負の感情だったが、僅かにでも期待の色はあった。そう、一言で言うならば。
「私、なんでこんなことしてるんだろう……」
「気にすんなって」
「君に慰められなきゃいけないのか私は」
サンタクロースはもう何度目かになるため息を漏らした。俺は彼女の気を楽にしようと、百点満点のスマイルを彼女に向けた。何やらおぞましいものを見てしまったような反応が帰ってきた。うむ。
「あのね、もう一度言うけども。あの部屋に入ったら君は死ぬ。それはもう間違いない。嫌だって言うなら、ここで引き返してもいいんだよ」
「大丈夫だっつの。多少死んだくらいで死ぬわけじゃないんだから」
「死ぬっつってんだろ保育園からやり直せ」
あー、保育園からやり直してえなあ。あの頃の俺はきっと誰かに愛されて生きていた。それがどうよ、今となっては俺を愛してくれるやつなんて、夏場の蚊と二十九歳未亡人の久光さやかさんしかいない。久光さん、元気にしてるだろうか。数年前に主人がオオアリクイに殺されたと言っていたので、三日三晩考えた励ましのメールを送ったのだ。返事は未だに来ていない。
「もちろん死んだら巻き戻してあげるよ。でも、それは君の経験を無かったことにするわけじゃないんだ。痛くて辛くて苦しかった記憶は無くならないの。本当に大丈夫?」
「逆に聞こう。なぜ俺が大丈夫じゃないと思ったんだ?」
「馬鹿だから」
ぐうの音も出なかった。この女、一度遠慮がなくなれば寸鉄を振るうのに一切のためらいがない。まだ死にもする前から、俺の心はすっかりズタボロである。
いよいよ以って俺は自室へとたどり着いた。なお、アパートの共用部分に備え付けの郵便受けに入っていた不在票は、俺のメンタルを打ちのめすには十分すぎるほどの効果があった。この世に生を受けて十八年、一度たりとも欠かすことが無かった大いなるオフトゥンの温もりを、今夜ばかりは享受できないのである。そんな途方も無い喪失感と共に俺はドアノブを手にとった。
「なんかラーメン食いたくなってきたな」
「君情緒どうなってんの?」
サンタクロースの冷たい声に屈することなく、俺は扉を開け放った。
あいも変わらず、そこに女が居た。黒服の女が立っていた。
「よう。さっきぶりだな」
黒服の動きは緩慢だった。蝿が止まるほどゆっくりと首を回すと、ひたと一歩を踏み出した。地を這うように、粘ついた動きでじわりと這い寄る。その手には、鈍く錆びた包丁がゆらゆらと揺れていた。
「自己紹介からやり直そうぜ。俺の名前は灰原雅人。今日からこの部屋に住むことになっている。つっても、先住民が居るとは思ってなかったけどな。安心しろよ、農場で砂糖やタバコを作らせるような関係は望んじゃいない。ただちょっとお友達になりたいだけなんだ。わかるだろ?」
黒服はひたひたと歩み、ある一点で踏み込んだ。
ずん、と重々しい衝撃。深い痛みが熱を伴って腹を貫いた。ドラマとかで刺された人が即座に血を吐く表現ってあるじゃないか。あれは嘘だと聞いたことがある。確かに刺されれば胃の中に血が充満するが、とっさにそれを逆流させるような反射作用は持ち合わせていない。今回俺は身をもってそれを証明することになったわけだが、そんなことに気が回る余裕はなかった。
「ちょっと、ハグが情熱的すぎかもな」
肺を動かすだけで途方も無い痛みが走った。だが、女はそれを気にすることなく包丁を抜いた。
そして、もう一度振りかぶった。
*****
記憶の不連続を脳が整理する一瞬の幻惑。頭を抑えて、浅い呼吸を繰り返して、目を瞬いた。
アパートの前だった。俺はまだ扉を開けていなかった。照りつける春の日差しのせいだろうか、身体中からぶわりと冷たい汗が出ていた。
「ボス戦前からやり直させてくれるなんて、中々気が利いてるじゃないか」
軽口の一つも叩きたいところだった。だが、待てども軽妙なツッコミは来ない。隣を見ると、サンタクロースは気遣うような顔をしていた。
「大丈夫?」
「見りゃ分かんだろ」
「顔色悪いけど」
「ダイエット中でな。貧血なんだ」
「水買ってくるね」
…………。そんなに酷い顔をしているだろうか。
何がなんだか分からなかったさっきまでと違い、今回は何が起きているのか理解してしまっている。だからこその当惑だった。自慢じゃないが俺は馬鹿だ。理解はかえって枷となる。
サンタクロースがくれたミネラルウォーターをがぶ飲みしながら考えた。なるほど、確かに話が通じるタイプには見えない。目につくものを手当たりしだいに殺す悪霊と言っていたが、まさしく言葉どおりの意味だった。
正攻法ではどうにもならない。ならばどうするべきだろう。俺はたっぷり二秒もの時間を思考に費やした。
「なあ。俺の死を軸に時間を巻き戻してるのなら、それに関わったあの黒い女も記憶を持ってるのか?」
「そうだよ。あの子は全部、最初から何もかも覚えてる」
なるほど。だったら、やることは一つだ。
「よし、決めた」
「どうするの?」
「どうせ考えてもわからないし、とりあえずもっかい行ってくる」
「ああ、そうなの……」
ぱしんと頬を張る。こういうのは足を止めたら負けなのだ。ほら、国歌でも歌っているじゃないか。雨だれは石を穿つ的なサムシング。ちょっと違ったかも知れないが、やがて巌となる男として細かいことは気にしないことにした。




