曇り一つ無い、晴れやかな笑顔で
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる。平安時代の歌人、清少納言が記した随筆『枕草子』の冒頭である。
かの歌人が詠んだように、春とはいかにも雅なものだ。積もりに積もった長い冬は、春の嵐が切り裂いた。日々はどこまでも平穏に過ぎていき、血みどろな死臭も垣間見える非日常も、すっかりどこ吹く風である。
三月末日のぽかぽか陽気の中、俺こと灰原雅人は、新居目指して雨城の街を歩いていた。
およそ一万回強の死に戻りを楽しんだ俺は、気がつけば今日という日に立っていた。何度も経験した一日であり、これが最初で最後の一日でもある。春の陽気にあくびを一つ。特に気負いをすることもなく、俺はいつものアパートにたどり着いた。慣れた手付きでシリンダー錠に鍵を差し、愛する我が家の扉を開け放つ。
そこに、棗がいた。
「おう、来たか」
「なんでお前がいるんだよ」
「月島に頼んで入れてもらった。悪いか?」
いや、まあ、悪くはないけれども。期待していたものと違うじゃないか。妙な意表を突かないで欲しかった。
「一万回の死に戻りお疲れさん。その顔だと、上手くいったみたいだな」
勿論だ。俺は頷いた。途中いくつかの微修正はあったものの、事は概ね計画通りに運んだと言って良いだろう。
あの日夕焼にドヤ顔で語った理屈の大半は、棗が仮説を立てて月島が計算をしたものだ。俺がやったことはと言えば、白熱する議論を眺めながら茶を淹れることだけだった。これは今初めて明らかになる衝撃の新事実なのだが、実を言うと灰原は難しいことを考えるのが苦手なのである。
「簡単にこっちの世界のことを教えてやろうと思ってな。まあ座れよ」
棗はいくつかのことを教えてくれた。
まず、過去改変の影響について。月島嬢の望みも虚しく、俺たち三人はこの世界でも同学年であった。やはり我らの友情は永遠にして不滅だ。ズッ友なのである。
そして奇妙なことに、棗は改変前の記憶をかなりの精度で持っているようだった。月島も少しは覚えているようだが、棗ほどでは無いらしい。この二人は今回の過去改変で全てを忘れていてもおかしくなかったのだが……。
「だよな、俺も前のことは忘れるもんだと思ってた。変な感じだよ。今、俺の頭の中には改変前と改変後の記憶がごっちゃになっている」
「それって大丈夫なのか? 自分を見失ったりとかしないか?」
「馬鹿言え。見失うような自分がないわ」
オーケー、こいつはいつもの棗だ。俺たちはへらへらと笑った。
何度もやり直しているうちに耐性がついたのかもな、と棗は冗談交じりに言っていた。耐性ってなんだよと思ったが、考えてもわからないので早々に諦めることにした。
「で。お前が一番気になってることが、これだ」
棗は雑誌を差し出した。数ヶ月前の音楽情報誌だ。付箋の付いているページを開くと、そこには華々しい見出しで一組のバンドのメジャーデビューを称える内容が記されていた。
超新星だとか、超絶技巧だとか、超実力派だとか。大仰な言葉をこれでもかと飾り付けられたバンドメンバーの写真には、俺がよく知る人物が二人、心の底から楽しそうな顔で写っているのであった。
「今度近くのライブハウスにも来るらしいぜ。行くか?」
俺はとっさに返事ができなかった。
「泣くなよな」
うるせえよ。
誰かの幸せがこんなに嬉しいなんて、知らなかったんだ。
*****
過去改変の影響は予想していた以上に少なかったが、それでも避けようも無いものもあった。
冷然と突きつけられた現実はあまりにも非情で、俺は考えもしなかった悲劇に滂沱の涙を流した。こんな残酷な現実があってなるものだろうか。どうにかならないかと祈る気持ちで頭を下げたが、彼女は毅然と首を横に振った。
「そんなことをしても、家賃は変わりませんよ」
一月あたり四万三千円。それが、俺に課せられた天文学的賃料なのである。
確かに今となってはあの部屋は事故物件ではない。だからってこんな仕打ちはあんまりじゃないか。一体俺が何をしたと言うのだ。これだから資本主義ってやつは嫌いなんだよ。許さねえぞマルクスの野郎。
「あのですね、適正価格です。むしろ隣の部屋より二千円安くしてます。これ以上の措置は他の入居者様に白い目で見られてしまいます」
月島はそんなことを言うが、それでも四万三千円は苦しいのだ。これでは灰原の最低限文化的な生活が危ぶまれてしまう。しかし、彼女はこれ以上一歩足りとも譲る気は無いようだった。
「なあ頼むよつっきー。俺たちの仲だろ」
「あまり気安く接すると家賃を上げますよ」
「天におわす大家月島よ。かしこみながら家賃を御下げ願い奉る」
「そういう意味じゃないって分かって言ってますよね」
ちくしょう、この女は悪魔だ。このままだと毎日もやしを齧って暮らすことになる。早急にバイトを見つけなければ、冗談抜きで生死に関わるぞ。
「まあでも。私はあんまり覚えてないですけど、灰原さんはすごーく頑張ったみたいですし?」
彼女はネズミをいたぶる猫のように微笑んだ。
「三ヶ月までなら、待ってあげてもいいですよ」
なんとも嬉しい提案だ。俺は涙を流して喜びながら、彼女の手を取った。
「五ヶ月でもいいか」
頭をはたかれた。
*****
いくらかの出会いと別れと再会を経て、果たして俺の日常は変わらなかった。
なんと言っても大学生。一万回死んだくらいで変われるのなら、俺は俺をやっていない。あの時間で過ごした経験は俺を成長させたのかもしれないが、何がどう変わったかと聞かれると困ってしまう。
まあ、自分でも言った通り、あれはまさしく彼女たちの物語だった。結局のところ俺は脇役だ。『特別』に恵まれない一般人が主役を食うほどの目覚ましい成長を遂げる必要も無いだろう。俺の中の小さな変化は、今は慎ましく秘めるとしよう。きっといつか、花咲く日が訪れることを祈って。
そんなタンポポが咲くような日々の中で、俺は再び彼女と出会った。
「やあ」
朝方の、人もまばらな電車の中だった。座席の背もたれに体を預けて睡魔と戦っていた俺の隣に、いつしか彼女は座っていた。
彼女のことは気にしていたが、なにせ素性不明の女である。会えそうな場所を一通り回ってみても、全くと言っていいほど尻尾が掴めない。夕焼優希が感じていただろうもどかしさを遅ればせながら実感していたところだった。
「久しぶりだな」
「うん」
彼女は大きなあくびをひとつして、眠そうに目をこする。疲れた様子にも見えたが、十分に普段どおりの範疇だろう。
「何してたんだ?」
「仕事。最近ずっとサボってたから、頑張らなきゃ」
「へえ。まだ春なのに大変だな」
そう、大変なんだよと彼女は言う。口ぶりに反してとても楽しそうだった。きっとそれは、紛れもなく彼女の天職なのだろう。いつになく上機嫌の彼女は、期待半分に俺の顔を覗き込んだ。
「大変なのです」
「おう。どうした」
「だから、大変なのですよ」
「……おう?」
言いたいことがいまいち掴めなかった。彼女は気恥ずかしそうにはにかんだ。
「良かったら、君も私の仕事を手伝わない?」
それは大変に心ときめく提案だった。
一般人の俺に送られた非日常からの招待状。またとない『特別』そのものだ。この誘いに乗れば、きっと俺は無個性に埋没しない自分になれる。しかし俺は、特に間を置くこともなくこう答えた。
「考えとくよ」
彼女の決意と涙と情熱は、俺が一番良く知っている。だからこそ、大した覚悟も無いのに彼女の隣に立つことはできない。この身に染み付いた一般人根性が抜けるまでは、俺にはまだその資格は無かった。
「残念。振られちゃった」
「本当だって。ちょうどバイト探してたんだ」
「あー。この仕事、基本的に慈善事業で給料とかは一切無いからなぁ……」
彼女はそんなに残念そうでもない口ぶりだった。俺がこう答えると分かっていたようだ。
いつか、俺に誰かの幸せを背負えるだけの覚悟ができたなら。その時はこの道を選びたいと思う。それまでは、ただの大学生でいよう。
「それじゃあね。今度は冬に会いましょう」
電車が駅に滑り込むと、彼女は立ち上がった。
「そうか。もう行くのか?」
「うん」
今になって俺はようやく理解した。彼女は、別れを言いに来たのだ。
俺には俺の道があり、彼女には彼女の道がある。一瞬に交差した俺たちの時間は今再び別れ、それぞれの道へと戻っていくのだ。それは俺たちが進み続けると決めたから。止まっていた時間が動き出したからこその、別れだった。
「寂しくなるな」
「良い子にしてたらまた会えるよ」
「俺は寂しい。行かないでくれ」
「そんなこと言ってもダメなものはダメ」
口先だけの引き止めなど何の意味も無い。彼女は自信に胸を張ったまま、電車からぴょんと飛び降りた。
「だって私は、幸せをもたらす者を名乗ることにしてるんだから」
駅のホームで振り向いたサンタクロースは。
曇り一つ無い、晴れやかな笑顔だった。
扉は閉じる。俺は電車から降りなかった。車内に残されたのは、どこかから舞い込んだ桜の花びらだけだった。
かくして長いようで短い時間は終わりを告げた。時計の針は回転を止めず、俺たちは取り返しのつかない日々を一歩ずつ進んでいく。きっと色々なことがあるのだろう。燦然と輝く未確定の未来に、俺はめいっぱいの期待を託した。
なぜならば。これから始まる全ての季節は、楽しいものに違いないのだから。




