後悔のないように、毎日を懸命に
何度言われようとも、日記は紙媒体に限るのだ。
日記帳のページが切れたので新調しようという段になって、日向はいつものように私をからかった。電子媒体の方がよっぽど楽だぞと。しかし私はこのスタイルが好きなのだ。個人的な趣味嗜好が利便性を上回って何が悪い。
序文から喧嘩腰なのはさておくとして、この日記は記念すべき八十四冊目の日記帳になる。誰かがこれを読む機会があるかどうかは不明だが、これまでの経緯を簡単に記しておこう。何か意図があってのことではない。ただ、これまでのことを振り返りたくなる気分になったのが今だった。それだけの話だ。
私と日向と灰原。あの日結成された即席パーティは、合計三万回のわくわく死亡体験へと旅立った。私の寿命を伸ばすのに二万回、日向の寿命を伸ばすのに一万回。共に大体の数字だ。
正直に言うと、最初は不安で不安で仕方なかった。三万回だぞ三万回。一人頭で割っても一万回だ。一日一回死んでも二十七年ちょっとかかるデスループに、果たして常人の神経で耐えられるとは思えない。あの頃の私は、そんな可愛らしい不安にぷるぷると震えてしまっていたのだ。
結論から言おう。めちゃくちゃ楽しかった。途方も無い回数の死に戻りは、私がこれまで経験した何よりも胸が躍る体験だった。
死ぬ、と言うのは私が思っているよりもずっと簡単なものだった。そもそも夜になれば突然に降ってきた隕石が何もかもをぶっ壊してくれる。その時間に寝ていれば痛みを感じる暇も無い。昏睡状態で生き残ってしまうことだけが心配だったが、幸か不幸かそういった事態が再び起きることは無かった。
もう何千回も死んでいるので、実際には何度かあったのかもしれない。しかしあの二人は何も言わなかったし、私も強いて聞こうとはしなかった。もしも私が誰かを看取るような事になったら、その時は何も言わずに役目を果たすつもりだ。
つまるところ、この毎日は寝て起きたら何もかもがリセットされるだけのタイムループに過ぎなかった。何をすればいいかもとうに分かっている。それは私たちがとてつもない時間を持て余していることを意味しており、私たちはすぐにこの長い休暇をどう楽しむかについて白熱の議論を交わした。
私たちがやったことはもっぱら観光だ。まず手始めに、あの日逃げるように訪れた東京の地を再び踏むことにした。日本でもっとも人が居る所、文化と経済の集積点。いかに日付が進まないと言えど見るものは多く、私たちは体感時間にして数ヶ月の時間をかけて隅から隅まで見て回った。
ある日、灰原が是非ともやりたいことがあると言ったので、私たちは三人でスカイツリーに登った。実を言うと、私と日向は以前の観光でスカイツリーに来ていた。なので半分付き合いがてらだったが、やはり何度見てもこの景色は素晴らしいものだ。そんな風にまったりしていると、あの男はスカイツリーから飛び降りた。
この行動には正直度肝を抜かされた。やりたいことって紐なしバンジーかよ。翌日そう問いただしたところ、彼にはエキセントリックな死に方を求める嗜好があるらしい。私たちには理解できない高尚な趣味である。その点隕石は楽で良い。こんなに便利な目覚まし時計を手放すことは、私にはできない。
東京観光にも飽きてきたところで、私たちは行動範囲を少しずつ広げていった。東京ディズニーランド。草津温泉。黒部ダム。伏見稲荷大社。ハウステンボス。旭山動物園。宮古島。城巡りに遺産巡り。山にも登ったし海にも行った。釣りもキャンプもたくさんやった。神社巡りをした時は、普段はもっぱら本や漫画を読んで過ごしているサンタクロースも付き合ってくれた。せっかく日本に来たんだし一度挨拶しておきたかったんだ、と彼女は言っていた。あの人、神様とはタメでイケるクチらしい。この世界に神がいるとは初耳である。
本格的に観光に腰を入れ始めると、移動時間の都合で一日だけのループでは少し物足りなくなってくる。そこでサンタクロースに頼んでみたら、彼女は時間を二日前に巻き戻してくれた。初日で現地に移動して、二日目をループすることで丸一日を観光に費やせる。私たちはこれをセーブポイントの更新と呼んでいた。
これにより私たちのループ生活は更に快適になった。移動に体力を奪われることも無くなったので、余力を使って私は少しずつ勉強なんかにも手を出してみた。あまりにも遊び呆けてばかりいるせいか、私の中の真面目な部分がお前本当にそれでええんかと騒ぎ出したのだ。灰原と日向は信じられないものを見る目で見ていたが、数ヶ月も続けていると彼らも一緒になって教科書をめくっていた。正直これは嬉しかった。一人で勉強するのは、少しだけ寂しかった。
やがて私たちはいよいよ海外への進出を決めた。二週間の時間を巻き戻して、パスポートを取得したのだ。セーブポイントを駆使しながら、私たちは世界各国を見て回った。アンテロープ・キャニオン。イエローナイフのオーロラ。ウユニ塩湖。ランペドゥーザ島。ヴァトナヨークトル氷河。マチュ・ピチュ遺跡。アラスカの大自然を三年間かけてゆっくりと見て回った体験は、きっと一生忘れない。
たまには観光を休んで、家で映画や本などを楽しむ文化的活動に没頭したりもした。たまり場になったのはもっぱら日向が一人暮らししている部屋だ。灰原とサンタクロースは、あの部屋でこれでもかと言わんばかりにくつろいでいた。よくもまあ人の家であそこまでリラックスできるものだ。日向は日向で、部屋の隅で体育座りすることを好んだ。ああしていると落ち着くらしい。あいつも時々よくわからない。
時々灰原とサンタクロースの二人は、現象の検証に一日を費やした。いくつかの誤算といくつかの新発見があったらしいが、細かいことは聞いていない。ある日サンタクロースは深刻な面持ちで、一人あたりもう二千回死ぬ必要がありそうだと言った。私たちは小躍りして喜んだ。そういう誤算は大歓迎だ。
そんな楽しい毎日も残り千回ほどになった時、私と日向は一つの計画を練った。以前からギターを弾きたいと常々思っていたが、ついにそれを実行に移すことにしたのだ。弾きたいと言ってもちょっとやそっとの話ではない。本気で、目的を持って、限界に挑むようにギターをやりたい。いつしか私たちは、あの雨の下で冗談交じりに交わしたハイタッチを、本物にしたくなってしまっていた。
ありがたいことに、灰原は諸手を挙げて賛成してくれた。私たちが夢を持ってくれたことが嬉しいと。そんな風に言われるようなものではないが、気持ちは素直に受け取ることにした。それから彼はこうも言った。
「じゃあ、後はお前ら二人だけでやっていけるな」
灰原は本来彼が居るべき時間に帰るらしい。どうしてだと聞くと、彼は柄にもなく真面目な顔をしていた。
「俺の役目が終わったからだ。これはお前たちの人生で、お前たちの物語なんだよ。本当はここにいないはずの俺がいつまでも出張ってたら、何かの拍子にタイムパラドックスが起きちまうかもしれない。だろ、サンタクロース」
サンタクロースは迷っていたが、頷いて賛同の意を示した。
「タイムパラドックス自体は無視できる程度のリスクだけど……。灰原がそうしたいならそうするべきだと思う。でも、本当に良いの? 君だって、このループを楽しんでいたじゃないか」
「そりゃ楽しいさ。でもな、俺だって若者なんだよ」
彼の目は期待と希望に満ちていた。どんな時だって、彼はそんな瞳をしていた。
「夕焼と日向は未来に進むことを決めた。だったら、俺だけが過去に留まるわけには行かないだろ。俺は俺の未来に行くよ」
ま、どんな未来かはこれから探すんだけどなと彼は笑う。
あまりにも当然で、あまりにも躊躇いの無い決意。踏み出す一歩に微塵たりとも迷いはない。見通しのない未来は、彼にとって不安材料足り得ないようだ。
敵わないな、と思った。かっこいい、ともちょっと思った。
未来で会おうぜ、と彼は言った。その時には驚かせてやる、と私たちは言った。そして彼は、彼の時間へと帰っていった。
残された私と日向は、今は毎日のようにギターの練習に励んでいる。メジャーデビューなんてまだまだ夢のまた夢だけれど、何かに向かって積み重ねていく日々は、きっと私たちの人生に意味を与えてくれる。
楽しい日々も、あと三年弱。
後悔のないように、毎日を懸命に死のうと思う。




