百まで生きて笑って死ね
廃ビルの一室で日向は寝入ってしまった。
窓日の差す暖かい場所でじっとしていたからか、日向は気がつくと寝息を立てていた。私は彼女を置いて、一人で廃ビルを後にした。
気持ちは凪のように静かだった。なんとなく、あそこにいけば彼女に会えるだろうと思った。運命に導かれているような、そんな不思議な感覚がした。
いつか私が覚悟を決めた、病院の屋上。サンタクロースは、その場所でじっと空を見ていた。
それと、もう一人。
見知らぬ男が立っていた。
「お前が、夕焼優希か」
男は私の名前を知っていた。
季節感に合わずラフな装いの男だった。派手なアロハシャツとカーゴタイプのハーフパンツ。染めたばかりの均質な金髪。どこのヤンキーかと見紛うファッションセンスだが、顔立ちは強面どころか人好きのする線の細さだ。その顔をピシリと張り詰めさせて、彼は私をまじまじと見ていた。
記憶を洗い直すが、やはりこの男に見覚えはない。困った私は率直に聞いた。どちら様ですか。
「話せばものすごく長くなるんだけど」
間を取り持ったのはサンタクロースだった。久しぶりに会った彼女はどこか投げやりな顔をしていた。疲れているのかもしれない。
「この人の名前は灰原雅人。一言で言うととんでもない馬鹿。一切の常識が通じない危険人物だし、近づくと噛むから気をつけて」
散々な言われようだったが、灰原と呼ばれた彼はまんざらでも無さそうに頷いた。よくわからないが、よくわからない人だと言うことは分かった。
「結論を出す前に、答え合わせをしに来たんだろ。俺はそれに赤ペンをつけに来た」
奇妙なことに、灰原は私が言おうとしたことを先取りした。
「お前の推測は概ね間違っちゃいない。幸福には総量があり、本来あるべきではない幸福があったから不幸が起きる。本当はあの日死ぬはずの夕焼優希が生き伸びたことで、その幸福を埋め合わせるために現象が起きた。それについては正解だ」
心臓が凍てつく感覚がした。
この男は、私のことを知っている。私が経験してきたことを。それだけではなく、私が今から言おうとしたことまでもを知っている。私はそれがどういうことなのかを理解してしまった。
あなたは未来から来たのか。彼はそっけなく答えた。察しが良いな。私は彼を睨んだ。この男は、一体何をしに来た。
「ただし、ここには抜け道がある。わかりやすいのは二つ目の現象、ガス管の爆発事故だ。考えてみろよ。最初の日、事故に巻き込まれたのは十六人だった。死者が二人、重傷者が三人。日記にはそう書いてあったな」
そうだ。私は肯定した。あの日々のことは今でも記憶に新しい。辛い記憶か楽しい記憶かは判断に迷うが、忘れられるはずが無かった。
「でも、それだけじゃないだろ」
灰原は言う。
「駅前での大事故だぞ。直接事故には巻き込まれずとも、物的被害も相当なものだったはずだ。施設や設備が破壊され、営業を止めざるを得なかった店舗だっていくつもあっただろう。そのせいで人生が狂った人も、一人や二人じゃなかっただろう」
そう言われると確かにそうだ。だが、それに何の意味がある。あの現象は既に解消した。今更切り込む余地があるとは思えない。
「そうして始まった現象は、最後には最終的に路上ライブに集まった群衆へのゲリラ豪雨という形で収まったな」
そう。それによって解決した問題なのだ。しかし――。
「この二つは、本当に等価なのか?」
そうは思えない。私は、彼の言わんとすることをようやく理解し始めた。
初めと終わりを比べると、現象の重さに明らかな差がある。きっとそこには何らかの原因があるはずだ。現象の重さを軽減できる何かが。そこに一瞬の光明を見て、私は自分で否定材料を見つけてしまった。
廃ビルの事故はそうではなかった。初めは私が自死を選んだし、終わりにも結局人が死んでいる。この現象は、初めと終わりはほぼ等価じゃないか。そう指摘すると、灰原は首を振った。
「細かいことを言えば、苦しんで死んだか即死したかの差がある。だけどその程度だ。廃ビルの一件について言えば、不幸は限りなくそのままの形で他者に移動した」
だとすると……。現象は何によって減衰したのだろうか。考えてもすぐには答えは出てこない。が、目の前の男は答えを知っているようだった。
「一度目は二回。二度目は十三回。そうだっただろ」
何がだ。もったいぶらないで教えて欲しい。試すような言い方は面白いものではない。そんな態度がつい出てしまい、灰原はすまんと軽く謝った。
「やり直した回数だよ。お前が死んだ数と言い換えても良い」
ああ、なるほど。それが関係してくるのか。
考えてみれば簡単な話だ。つまり、たとえやり直したとしても私の死は不幸としてカウントされる。だから死ねば死ぬほど現象は弱まっていくのだと。そう言われると、駅前で死に続けた日々の最中にも事故の規模はどんどん小さくなっていたような気がする。
だが、これではまだ推測だ。たった一度の凡例しか無い。信じるにはもう少しデータが欲しい。
「データならあるぞ。俺の方でも検証してみた」
検証? どうやって。
「試しに百回死んでみたんだ。死ぬ前に百回おみくじを引いて、死んだ後にも同じことをした。結果は、死ぬ前は大吉が十四回と大凶が二十一回。死んだ後は大吉が九十四回。大凶はゼロだ」
……それはまた、大変な検証だ。
それをやったということは、サンタクロースは全面的に彼に協力したのだろう。彼女が疲れた顔をしている理由が分かった気がした。
なるほど、とにかく理屈は理解した。それなら実際にどうするかの話をしようじゃないか。つまり、これから降ってくる隕石を止めるには、私は後何回死ねばいい。
「お前が生きた日数と、現象による被害者の人数と、死んだ回数による減衰具合とを計算してみた。おおよその数字は二対四対三だとしよう。つまり三十日生きようとしたら、六十人死ぬ現象が起きて、それを減衰するためには四十五回死ねば良い計算になる」
それは違う。その計算式だと、三度目の現象で降ってきた隕石の被害規模は、私が生きた日数と見合わない。
「そうだな。あの隕石が巻き起こした不幸の総量は、およそ六万人分の死亡に相当するものだと考えている。物的被害も誰かの不幸に繋がると考えれば、実際の死者数はもっと少ないはずだが、どちらにせよお前が生きた日数とは数字が合わん」
具体的な数字が出てくるとは思わなかった。その数が正確かどうかは、私には判断がつかない。隕石事故としては前代未聞の規模になることは間違いないが、渋谷のセンター街が吹き飛んだと考えると……。どうなのだろうか。せめて数字の根拠が欲しい。
「幸福には総量があるという原則に対して、あの事故は規模が大きすぎるんだ。あの事故に見合うだけの幸福なんてものは、少なくとも日記の中にはどこにも書かれていなかった。これについて、お前の認識はどうだ」
そこは私も気になっていたところだった。いくら天命を越えて生きたからって、それは隕石で町ごと吹き飛ばされるほどの罪なのだろうか。私はそれを否定できなかったから、生きることを諦めたのだ。
「つまり、隕石を引き起こした幸福が何なのかという謎はまだ解けていない。正直に言ってしまうと、俺もまだこの謎の答えは確定できていない。だけど仮説ならある。鍵になるのは、幸福を前借りできたということだ」
幸福の前借り……? また聞いたことのない言葉が出てきた。私はそんなことをした覚えは無い。
「いや、意識せずともお前はそれをやっていたんだ。二度目の現象が起きたのはある程度の日数を過ごした後だっただろ。つまりお前は先に幸福を享受してから、その後で現象が起きて不幸に見舞われた。それが起きるってことは、同様に不幸の前借りも起こりうるのではないかと仮説を立てた」
ああ、現象の仕組みの話か。それなら私も理解できる。つまり彼が言いたいのは、あの隕石事故によって発生した不幸は、これからの幸福によって埋め合わせられるということだろう。
「そう考えると、隕石を呼び寄せた幸福の正体が見えてくる。それはお前が何よりも求めてやまないものだ。現象に意図なんてものがあるかは分からないが、現象はそれを与えるために隕石を降らせたとすら思えてくる」
……そんな、馬鹿な話があるものか。
彼の話はあまりにも魅力的だった。だからこそ、信じて良いのか不安になる。何か私は騙されているのではないか。見落としがないかと考えるが、すぐには見つけられなかった。
「時間はある。ゆっくり考えてくれればいい。さっきも言ったが、これはあくまでも仮説に過ぎない。これが答えだという確証は無いし、それを確認するのはこれからだ」
そんなことを言ったって、期待してしまうじゃないか。
私は、それが欲しくて、どうしても欲しくて欲しくてたまらなかったんだ。
「隕石の対価は、お前の未来だ」
気持ちを落ち着けるのに、少々の時間を要した。
少し、見苦しい姿を見せてしまったかもしれない。それでも灰原はずっと待ってくれていたし、サンタクロースは私を気遣ってくれた。
「もういいか」
もうちょっと。
「元気そうで何よりだ」
そりゃどうも。この人、中々イイ性格をしている。続けてよ。目元を拭ってから、先を促した。
「お前が残り八十年生きるとして、その日数はおよそ三万日。さっきの計算式に当てはめると、六万人の死亡事故相当という数字になる。もう一つ数字を出すと、この不幸を減衰するには二万回死ななければいけない」
二万回の死。気が遠くなるような数字だ。それだけの死を積み重ねて、とても正気でいられるとは思えない。
「大丈夫だ。そのために、俺が来た。不幸と幸福は巻き戻った人間を基準とするが、死ぬのは巻き戻ったことを覚えている人間なら誰でもいいんだよ。俺も一緒に死んでやる。それなら、死ぬのは一万回で済むだろ」
口では簡単に言うけれど、それがどんなに難しいことなのか分かっているのか。私はそう指摘したが、彼に動じる様子は一切無かった。
「任せろよ。これでも俺、死ぬのは慣れてんだ。千だって万だって億だって死んでやる。それでも足りなきゃもっともっと死んでやる。だからお前は、百まで生きて笑って死ね」
……どうしてだ。
どうして、あなたは、見ず知らずの私にそこまで言える。彼の考えが全く理解できなくて、思わずそんなことを聞いてしまった。すると彼は、渾身のキメ顔を披露してくれた。
「誰かの幸せを願うことは、間違いなんかじゃないからな」
なんなんだその胡散臭いセリフは。他人の幸せを願うとか何とか言って人に近づく奴は不審者だと相場が決まっている。裏があるのは分かってんだよとっとと言え。
率直な懸念を右ストレート気味に伝えると、彼は思い切りへこんでいた。流れ弾を受けたサンタクロースも同様にへこんでいた。今の優希ちゃんはちょっとだけ口が悪かったかも知れない。
「まあ、その。諦めなよ、優希ちゃん」
サンタクロースは気を取り直した。
「こいつ、本当に馬鹿なんだ。損得勘定なんていうお利口さんの理屈は通じないって思ったほうが良い。やりたいと思ったら、こいつはやる。どんな突拍子の無いことでも本当にやる。この人に理性なんてものを期待するのはまったくの無駄だ。ある意味では現象よりもよっぽど性質が悪い」
散々な言われ方をした当人は抗議していたが、サンタクロースの言い分は私にも腑に落ちてしまった。少なくともこの人は、検証とやらのためにさらりと百回死んだのだ。私が死んだ数を全て合わせてもその数には届かない。だとすると……。彼は、本当に、ただの善意でこれをやろうとしているのか。
少し、考えてみる。突然に現れたこの男は、考えもしなかった方向から打開策を提示した。これは願ってもない話だ。差し伸べられた手を取らずにいられる余裕なんて、私にはない。しかし、私には、もう一つ気にかかっていることがあった。
灰原さん。こんなことを言える立場じゃないのは分かってるけど、一つだけお願いがあります。
「今更かしこまるなよ。これから長い付き合いになるんだ、呼び名も灰原でいい」
じゃあ、灰原。もう一人、一緒に生きたい人がいるんだ。そいつにも手伝わせるから、死ぬ数を増やしてもいいかな。
「ああ。日向向日葵のことか」
肯定した。彼は日向のことも知っているらしい。前回のループで、日向は五十三の年で死んだ。きっとそれが彼女の寿命なのだろう。日向とはまだ知り合って数ヶ月の仲だが、私には彼女の居ない人生なんて考えられなかった。
灰原はサンタクロースの顔を見た。決定権があるのはこちらのようだ。サンタクロースは特に考える素振りも見せず、気楽に答えた。
「好きにしたら良いんじゃない?」
軽い口ぶりだった。
「やりたいんでしょ。なら、やればいい。私は、君たちの力になるためにここに来たんだから」
「意趣返しのつもりかよ」
「降参って意味ですよ」
彼らはにんまりと笑った。二人にとっては何か意味のあるやり取りのようだった。
そんな楽しそうなやり取りが少しだけうらやましくて。
私は、諦めることを諦めたのだ。




