そこに、誰も居なかった。
春はあけぼの世は情け、いい国作ろう最上川とは、南北朝時代の高名な歌人坂上田村麿呂の一句である。
かの歌人が詠んだように、春とはいかにも陽気なものだ。長い冬が終わりを告げれば、桜は舞い散り野草は茂り、春一番が吹き抜ける。タンポポ大好きな俺たちがついつい浮かれ騒ぐのも無理はない。
三月末日のぽかぽか陽気の中、俺こと灰原雅人は、新居目指して雨城の街を歩いていた。
新生活。そう、新生活なのだ。
「ここか」
駅から歩いて十数分。駅前の喧騒が立ち消えた閑静な住宅街に、俺の城は構えられていた。
二階建てアパートの二階。バストイレ付のワンルーム。近くにはコンビニと大型スーパーがあり、少し歩けば商店街もある。これでお家賃四万五千円だ。これでも可能な限り安い物件を探したのだが、あいにく良い物件はどこも埋まってしまっていた。俺の財政事情だとこの家賃でもかなり厳しいが、まあ、なんとかなるだろう。
先立つものに不安はあれど、俺の気分は有頂天となっていた。見慣れぬ町並みも、桜を散らして吹く風も、シリンダー錠に鍵を差し込む音すらも心地良い。一度下見に来たとは言えど、この瞬間のトキメキたるやインフィニティ。期待に大いに胸を膨らませ、俺は新たなる我が家の扉を開け放った。
そこに、誰も居なかった。
誰かが居るはずなどない。ここは俺の部屋なのだ。なのに、ここに誰かが居てほしいと期待している自分が居た。妙な感覚だ。俺は思わず首をひねった。
宅配で届いた荷物を受け取って、部屋を整理している間も奇妙な感覚はつきまとっていた。何かがおかしい。俺は何かを忘れている。今すぐ何かをしなくてはいけない。そんな風に頭のどこかが騒ぎ立てるが、しかし、いくら考えようと正体は掴めなかった。
その時、部屋のインターホンが鳴った。俺は、弾かれたように、勢いよく扉を開けた。
「あの……」
扉の前には女が立っていた。若い女だった。年の頃は俺と同じくらいだろうか。ふんわりとしたミディアムボブと、どこか困惑した顔をしていた。違う。彼女ではない。何がとは分からないが直感的にそう思った。
俺たちは目を合わせたまま、じっと互いの顔を見ていた。どう考えても初対面のはずだ。しかし、何故か俺は彼女の名前を知っていた。
「月島さん、ですか」
「そうです。……灰原さん、ですよね」
「はい。初めまして、でしたっけ」
「そうだと思います」
奇妙な挨拶だったが、それで分かってしまった。きっと彼女も、俺と同じ違和感を抱えている。
何とも言えず、俺たちはそのまま互いを見ていた。この違和感の正体を突き止めようと、俺は必死になって頭の中を探し回った。何かがおかしいのだ。しかし、その何かがわからない。
「もうひとり、いたような」
月島が言う。そう言われるとそんな気がする。忘れようにも忘れられない、盟友とも仇敵とも呼べる男が、俺には確かにいたはずだ。
「灰原! 月島!」
その男は、アパートの入り口に息を切らせて立っていた。顔中に浮いた汗をぬぐって、二階に居る俺たちに向かって叫んだ。
「説明しろ! これはどういう状況だ!?」
思い出した。あいつの名前は棗裕太。灰色を憎む至上の馬鹿者だ。彼女の名前は月島千秋、このオンボロアパートの新米大家である。
俺たちは、三人で、何かをしようとする仲だった。
*****
荷解きもしていない部屋で車座になり、俺たちは途切れ途切れになった記憶をすり合わせた。
いくつかの認識が合った。この違和感は俺たち三人が共有しているものだということ。俺たちは一月ほど何かを調査していたということ。そして、俺たちが探していた何かは、この部屋に居たということ。
「くそッ……。ダメだ、これ以上は何も思い出せん」
三人の中で比較的記憶を持っていた棗が匙を投げる。俺も必死になって記憶をたぐるが、もう何も出てきそうもなかった。
「これって、私たちが、何かを忘れているってことですよね」
「そうだ。何か大事なことなんだ。俺たちは、それを、忘れさせられた」
「忘れさせられた……ですか……」
躍起になって思い出そうとしていたせいで、言葉遣いが荒くなる。いや、違う。俺は確か月島には敬語を使わなくなっていたはずだ。いつからだ。
……いつから? そもそも俺は、いつの記憶を失った?
「灰原さんは今日この街にやってきたんですよね。私は以前からこの近くに住んでいました。棗さんは?」
「俺は一昨日だ。一昨日、この街に越してきた」
「だとしたら……。私たちが何かを調べていた一ヶ月間って、いつのことですか?」
強烈な違和感に頭が痛む。一つの答えが見えていた。あまりにも非現実的だとは分かっていたが、俺はそれを口にした。
「四月の中頃から、五月にかけての期間だ。その間、俺たちは、大学生活の傍らで調べ物をしていた」
「でも……。それって、未来の話じゃないですか」
そう、それは未来の話なのだ。何度時計を見ても今日は三月の下旬。俺たちが出会った日は、今よりも先の時間にある。この矛盾こそが違和感の根源だ。
「だとすると、俺たちが忘れた何かって言うのは、これから体験したことなんじゃないか。自分で言ってて無茶苦茶だとは思うが、そう考えると筋は通る」
棗が言う。突拍子もない話だが、不思議と腑に落ちた。俺の中に渦巻く違和感も、それが正しいと言っていた。
「一度視点を変えよう。その何かって奴はこの部屋に関わることだった気がするんだ。月島さん、この部屋について何か知ってることはあるか?」
「いえ……。ここは至って普通の部屋です。特別なことなんて、何も」
「何だって良い。中に入ったら何かを忘れるとか、もしくは忘れた感覚を得るとか、そんな話は無かったか」
「灰原、それは違うぞ。俺はこの部屋に入る前から違和感があった」
そうか……。しかし、だとしたらこの部屋には一体何がある。いくら見回してもこの部屋には何もない。そう、ここには、何もないのだ。
「やはり、ここは普通の部屋ですよ。祖母からアパートを引き継いだ時も何も言われませんでしたし、私が掃除に来た時もおかしなことはありませんでした。前の入居者様の私物が残っていたくらいで」
ざわりと、肌が粟立った。
前の入居者。この部屋に、以前住んでいた人間。女。黒。死。そんなイメージが連鎖的に思い浮かぶ。
「その残っていた私物ってまだあるか」
「はい。確かまだ、処分していなかったはずです」
「見せて欲しい。頼む」
月島は一度自室に戻り、それを取ってきた。それは白い布で包まれていた。手に触れる前から、妙な胸騒ぎが止まなかった。
布を解く。中から出てきたのは、錆びた古い包丁だった。
極めつけに異常な感覚がした。
言い様も無い感覚だった。恐怖と憧憬と渇望と快楽が入り混じっていた。子供の頃に、使われていない納屋の奥で不気味な顔の案山子を見つけてしまった時のような、恐ろしさもどこかに好奇心が勝った衝動があった。
瞬くように記憶が蘇る。俺は、この包丁で刺されたことがある。何度もだ。何度も何度も何度も刺されて、その数だけ俺は死んだ。普通に考えれば悪夢のような体験だ。それでも俺は、なぜだかそれを、楽しい記憶と覚えていた。
「なあ……。棗、月島」
「どうした」
「これで俺を刺せって言ったら、どう思う?」
俺は今、おかしなことを言っている。まるでコンビニでパンを買うような気軽さで、とりあえず死んでみようとそう思った。死んだら何かが分かるかも知れないし、何も分からなくても別に損はしない。まったく筋は通らないが、そんな風に考えていた。
「灰原さん。今、そういった冗談はやめてもらいたいのですが」
「いや、待て月島。そうじゃない」
棗は床を小刻みに叩いていた。表情は真剣そのものだ。彼は、震える声で確かめるように言った。
「どこを刺すんだ」
「心臓。もしくは、致命傷になるならどこでもいい」
「そうだよな。俺も、それが正解だと思う」
理論ではない。感覚だ。説明はできない。直感だ。しかしきっと、これが正しい。何度も何度も積み重ねてきた記憶にない経験が、それを裏付けていた。
「あの……。二人とも、正気ですか?」
正気ではない。そんなことは百も承知だ。それでもこれは、やるべきことなのだ。
「どうする、灰原。今やるか」
「ああ、急いだほうが良い。後に回したってしょうがない」
「相変わらずだな。ちょっとは躊躇えよ」
俺たちはへらへらと笑った。何が相変わらずかなんて分からないが、俺たちはいつもこうだった。そんな気がした。
ならば後はやるだけだ。そう考えて、踏みとどまった。一つだけ気がかりがあったのだ。
「あー、棗。やっぱりやめだ。さすがにこれはおかしい」
「そうか? 俺もこれで合ってると思うぞ」
「まあな。でも、やめたって言ったらやめた。気が乗らないんだ」
俺は片目を瞬かせる。棗はわずかに目を見開いた。俺のサインを受け取ってくれたようだ。
「そうだな。じゃ、やめとくか」
棗は立ち上がって伸びをした。気だるげに立ち上がり、短く「帰る」と告げて、そのまま部屋から出ていった。
「ええ……? あの、棗さん、帰っちゃいましたけど」
「腹でも減ってたんじゃないか?」
「めちゃくちゃ急ですね」
唐突に流れたお開きムードに流されて、月島もそそくさと部屋を後にする。ひとり残された俺は、同じく取り残された包丁を手にとった。
「月島の前では死なないって、約束したからな」
消えてしまった記憶の彼方で、そんな約束をした気がした。理由なんてものはそれだけだ。あと、確か棗もグラン・ギニョールは得意じゃないと言っていたような覚えがある。あいつについては正直おまけだ。
俺は包丁で心臓を貫いた。
会心の手応えだった。




