マジ卍している暇などないのだ
春の狂乱から一月も経ち、陽気に浮かれる構内も徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
右も左も分からなかった新入生たちは、直面した最後のモラトリアムの意味を理解し始め、大騒ぎしながらなんとか自分たちの居場所を見つけられた。サークル活動に青春を懸けるもの。バイトに命を燃やすもの。己の趣味へと邁進するもの。大学生らしさに背を向け学問の道を志すもの。あまりの自由さに目がくらみ、学内から姿を消したもの。キャンパスライフは人それぞれだ。
無論、俺たちだって大学生だ。大学生たるもの愉快で痛快な大学生活を享受する権利と義務がある。日本国憲法でもそのように定められている。
ならば俺たちが青くて春なハッピーライフを踊り狂っているかと言えば、そんなわけはなかった。
「なあ。棗」
「どうした」
「青春ってなんだろうな」
棗は無言でラウンジを指差した。俺たちが通う雨城大学北館一階にあるラウンジは、自称青春主人公たちのダンス・フロアになっている。複数人の男女がテーブルを囲み、勉強会と称した乳繰り合いに興じる様がそこかしこに散見された。
「あれだ。やりたいのか」
「馬鹿言え。あんなことやってたら三日で自我が無くなるぞ。よくわからん飲み会に参加させられて、ようやく抜け出した後に『また誘ってください笑』なんて心にもないメッセージを送るなんて俺はゴメンだ」
「ふうん。どこの新歓コンパに参加してきたんだ?」
「ラクロスサークル」
「よりにもよって運動系かよ」
うるせえやい。俺だってやばいとは思ったんだよ。テニスサークルを筆頭に、爽やかスポーツクラブが学内屈指の危険団体ということは分かっているつもりだった。それでも、俺は、自分の可能性を信じたくなってしまったのだ。結果は言うに及ばずである。
そんな話はどうでもよろしい。青春など無くとも俺たちにはやるべきことがある。マジ卍している暇などないのだ。俺たちはラウンジの隅にある机に陣取った。青春から慎ましく距離を取る生き物ほど、隅のほうの机を選ぶ習性がある。
「で。進捗はあったのか」
棗はそう言うが、大して期待はしていなさそうだった。
「この辺だと四年前に強盗殺人が一件、六十代の老夫婦が殺されてる。あと、二年前に駅向こうの交通事故で一人死んでるな。こっちは男だ」
俺はこの街で起きた事件について調べていた。何か黒い女に関する手がかりがないかと思ってのことだが、結果は芳しくなかった。
「聞いただけでも黒い女とは関係無さそうだな……。他に事件や事故はあったか?」
「駅前で破裂寸前のガス管が見つかったみたいな話はあったが、どれも人死にが出るような話じゃない」
ここ数年で起きた事故はいくつかあったが、期待できる情報は無かった。正直俺の方は空振りだ。棗の方は何か掴んでいるかと期待していたが、この顔を見るに彼の方も大した情報は無さそうだ。
「俺は報道されない死者について探ってたんだ。若い女の病死とか、自殺とか、行方不明みたいな話。つっても、十分に調べられたとは言い難いな……。せめて名前が分かりゃ、もうちょっとやりようもあるんだが」
本末転倒だ。それが分かれば苦労はしない。
そんな具合で調査はすっかり難航していた。やはり探偵でもない素人には限界がある。課題のレポートに必要な資料集めすら苦戦すると言うのに、悪霊女の素性を掴もうなど夢のまた夢なのだ。
「名前なら、分かりましたけど」
彼女は、空いた椅子に腰掛けた。
女は大きめのトートバッグをテーブルに置くと、中からアボカドとサーモンのベーグルサンドを取り出した。三時のおやつと呼ぶにはまだ早いが、彼女の場合は遅めの昼食だろう。大学生にあるまじき勤勉さを持つ彼女は、昼休みは付属図書館に籠もり推薦図書をめくる変態だ。
彼女の名は月島千秋。我が愛するアパートの新米大家であり、そしてこれは最近知ったのだが、俺たちと同じ大学の学徒であった。
「月島さん。何か分かったのか」
月島は沈黙を返す。俺と棗の顔を順に見て、それから深々とため息をついた。
「どうかしたか?」
「いえ。あなた方と同学年という現実が、まだまだ受け入れられなくて」
俺と棗は経済学部。月島は法学部。三人揃ってぴかぴかの一年生である。
「何度も言いますけどね。私はあの日のこと、まだ許していませんので」
「いやまあ……。それは悪かったって。俺らも必死だったんだよ」
偽造ループ作戦が大本営発表的成功を収めた後、俺たちは月島に事態のあらましを明かした。
最初、彼女は目を丸くするばかりだった。事情を飲み込むにつれて彼女の目はどんどんと釣り上がり、やがて烈火が如く怒り出した。今ではこうして仲良くお話しする仲に落ち着いたが、彼女の内にはくすぶるものが残っているようだ。
「そんなにあの部屋について知りたいなら、普通に聞いたら良かったじゃないですか。あんなやり方、非常識にもほどがあります。今でも夢に見るのですよ」
「最初は俺たちだって常識的なやり方で聞いたんだよ。でもな、俺が二〇四号室の住人だって言ったら、あんた一切の対話を拒否したんだぜ」
「それは……。だって、あの部屋に関わるすべてに関わりたくなかったし……」
大家らしからぬ発言は聞き逃すことにした。
これも最近分かったことだが、この女、怖かったり気持ち悪かったりするものは基本的に避けるのだ。ホラー映画は見ないし虫にも触らない。君子危うきに近寄らずを地で行くライフスタイルを送っている。怖いもの見たさの申し子たる俺には信じがたい生き様であった。
「とにかく。あなたが死ぬのは勝手ですが、私の前では金輪際やらないでください」
「分かったってば。それ何度も聞いたから」
「何回でも言いますよ。あんなもの、もう二度と見たくない」
彼女の執念たるや閉口ものである。お詫びに一発芸の一つや二つも披露して進ぜようかと思ったが、この頃の俺の一発芸と言うと大多数が死を伴う。絶交などされようものなら事なので、とりあえず今日のところは止めておくことにした。
「まあ、その、私にも幾分かの落ち度があったことは認めなくもないですけど。だからこうして、手を貸しているじゃないですか」
「ならなんで怒るん?」
「率直に申しますが、あなた方とは適度な距離を置きたいです。間違っても友人関係だなどというあらぬ誤解が生まれないように」
なるほどね。それはまた随分な誤解だ。友人だなんてとんでもない。そんな関係はこちらから願い下げだった。
「おいおい棗、聞いたかよ。今や家族以上の存在と呼んでも過言ではないつっきーが、なんだか可愛いこと言ってるぜ」
「まあそう言うなよ灰原。桃園の下に結束を誓った義兄弟たるちーちゃんでも、照れ隠しくらいはするだろうよ」
「月島と呼びなさい。さもなくば家賃を上げますよ」
「月島さん。俺は君に何一つ興味がない。この件が終わったら、記憶を消して赤の他人に戻りたいとすら考えている」
「良いぞちーちゃん。上げたれ上げたれ」
俺と棗は激しい死闘を繰り広げた。この男だけは生かしてはおけなかった。そんな俺たちの不毛な争いを横目に月島はベーグルサンドを頬張り、帰りたいと小さく漏らした。
「で。そろそろ本題に戻りますが」
「月島、ちょっと待て。今この男の息の根を止めるところだ」
「やってみろよ灰原。お前の家賃を上げるためなら、俺は手段を選ばんぞ」
月島は特に気にすることなく続けた。
「日向向日葵。あの部屋で首を吊った、前入居者の名前です」




