「幸福には、総量がある」
彼女は極めて深刻な面持ちで、あの部屋について語った。ニ〇四号室には、真っ黒な服を着た女と血のように赤い服を着た女が出るのだと言う。衝撃の新事実であった。
「このアパートを引き継いだばかりの時、清掃のために部屋に入りました。すると部屋の中に二人の女の子が居て……。最初は家出少女か何かだと思いました。事情を聞こうと思って中に入ると、いきなり、あの黒い子が」
あーね。君もふらみょん被害者の会だったのね。
月島は情緒たっぷりに語ってくれたが、俺としては「まあそんなこともあらあな」くらいの感想だった。そりゃ時には殺されることもあるけど、それさえ目をつむれば少し変わった子の範疇だ。同居人として俺は黒い女に不満を持ったことはない。
「あの時の感覚ははっきりと覚えています。体に突き刺さる刃物の冷たさも、臓腑から滲み出る血液の生臭さも、遠のく意識の喪失感も、全て嘘ではありませんでした。その時私は確かに死んだのです。本当です」
「なるほど。それで、その後は?」
「……あの。私が言うのもなんですけども、疑ったりしないのですか?」
俺も棗も首を振った。俺は実体験としてそれを知っていたし、棗は馬鹿だ。疑う理由などどこにもなかった。
「死んだと思ったら、私はあの部屋の前で立っていました。まだ春先のひんやりとした日だと言うのに、冷や汗が止まらなくて……。なんだか無性に現実感が無くて、夢でも見ていたのかと思いました。不思議に思いながらも私はもう一度部屋を開けたのです。そしたら」
「あ、すみません。そこ巻きで」
「巻き!? 巻きですか!?」
口を挟むと良いリアクションが帰ってきた。その辺の話は十分に知っているのだ。悪いけれど人生は百年しかないので、物珍しさの無い話はどんどん巻いてもらいたい。
「ああ、ひょっとすると山根さんは私と同じ体験をしたのかもしれませんね。でも、だったら、覚えていてもおかしくないような……?」
「いや全く何一つとして覚えがありませんな。なあ、田沼」
「俺の名前は田辺だ。ちょっとお前黙ってろ」
怒られてしまった。失礼。静かにします。
「とにかく、あの部屋にはそういった何かが住み着いています。ご理解頂けないかもしれませんが、本当のことなのです」
「一つお聞きしたいのですが。そういう部屋だと知っていて、なぜ灰原にあの部屋を貸したのですか」棗が言う。
「それは……その。言い訳になってしまいますが、部屋を貸したのは私の祖母なのです。私が引き継いだ時にはもう手遅れで、不動産屋の方にも事情を説明したのですが相手してもらえず……」
「ああ。あの不動産屋ですか」
なんだか俺はこの人が無性に可哀想になってきた。祖母からは事故物件を押し付けられ、不動産屋のツーブロックゴリラには相手にされず、挙げ句の果てに俺たちのようなならず者にデスループに閉じ込められる。一体彼女が何をしたと言うのだろう。世の中ってやつは全く不条理だ。
「そうですよね……。分かっています。灰原さんがいなくなったのは、ある意味では私の責任です。本当に申し訳――」
「あ、いえ。それは良いです。大丈夫です、何も問題ありません」
「大丈夫なのですか!?」
あまりのいたたまれなさに口を挟まざるを得なかった。これで頭まで下げられたら俺の良心が溶ける。ごめんな月島ちゃん。本当はな、君は何も悪いことなんてしとらんのや。
「失礼。月島さん、その部屋に住み着いていた何かについてお聞きしたい。あの部屋で過去に何かがあったりしませんでしたか」
しかし棗は攻撃をやめなかった。多分この男には緑色の血が流れている。
「いえ、そういった話は聞き及んでおりません。ですが、そうですね。祖母なら何か知っているはずです」
「すみませんが、確認していただいてもよろしいでしょうか」
「それは構いませんけども……。あの、あなた方は、灰原さんを探しているのですよね?」
どうする、と棗は聞いた。
誤魔化そうと思えばできるだろう。しかし、彼女は協力者になってくれるかもしれない。嘘を重ねるか、腹を割るか、どちらにするかという意味だ。俺はコンマ一秒だけ考えた。
「もう良いと思うぜ」
「そうだな。俺も同感だ」
棗は俺から話せと促した。さて、どこから話したものかと唇を舐める。その時だった。ほんの一瞬、目がくらんだ。弱い立ちくらみのような小さな違和感。普段なら気にもとめないくらいの感覚だったが、しかしそれは、死に戻りとよく似た感覚だった。
「灰原」
気がつけば、部屋の中にサンタクロースが居た。
壁によりかかり、腕を組み、憮然とした顔で俺たちを見ていた。
「何をしてるかと思えば、そう。そういうこと。あの子のこと嗅ぎ回ってたんだ」
冷たい声音だった。ともすれば敵意すらにじんでいた。彼女がこれを喜んでいないことは明白だった。
「はっきり言っておくよ。私たちの事情に立ち入らないで。余計な詮索をしないで。何もしないで。死なないで。できれば早めに出ていって」
「おい、待てよ。お前はそうかもしれんが、俺だってな」
「君のそれが善意だろうと悪意だろうと関係ない。私は、もう二度と、誰にも失敗してほしくないんだ。理解しなくてもいいよ。これが警告だってことさえ分かってもらえれば、それで良い」
サンタクロースは一方的にまくしたてると、深く息を吐いた。それから「帰る」と小さく吐き捨てて、振り向きもせずに部屋を出ていった。
突然のことだった。残された俺たちは、引き止めることもできなかった。
「おい。おい、灰原」
「ああ……なんだ?」
「追いかけなくて良いのか」
棗に促されてから、弾かれたように立ち上がった。そうだ。こんなことをしている場合ではない。
「すまん、行ってくる。月島さん、色々ありがとうございました!」
「ええ……? あの、一体どういうことですか?」
「それは俺から説明します。灰原、いいから行け」
この場は棗に任せて、俺は部屋を飛び出した。
*****
二〇四号室。見慣れたはずの俺の部屋で、サンタクロースは俺を待っていた。
窓枠に軽く腰掛けて、手元にはロリポップを揺らしていた。初めて会った時のように、赤い女がそこに居た。彼女は外を眺めていなかった。じっと、正面から俺を見ていた。
「灰原」
彼女は言う。
「何回死んでも諦めなかった君だ。どうせ私の警告なんて聞いてくれないんだろう。結局のところ、君は君の望むところをする。それの善悪なんて問いもしない。違うかな?」
違わない。俺は否定しなかった。
俺はこの部屋で二人の女と出会った。僅かながらにも彼女たちに関わった。それから大学で棗と出会った。灰色のものを焼き尽くそうと、あいつは言った。そして俺は選んだのだ。
だからこれは俺の意思だ。誰に頼まれたわけでもない。紛れもない俺の望みだ。
「お前の顔が気に入らない。何もかも諦めたような顔が気に入らない。口をつぐんで、じっと痛みを堪える顔が気に入らない。解決を時間に押し付けて、停滞に甘んじる顔が気に入らない。俺は、お前の、笑顔が見たい」
「それは無理だよ」
「無理なもんか」
平行線になるのは分かっていた。元よりこれは議論ではない。俺もサンタクロースも、ここに決着は求めていない。これはただの意思表示であり、選手宣誓であり、宣戦布告であり、そして何よりも意地の張り合いだった。
「良いよ。好きにすれば良い。君にはその資格がある」
サンタクロースは丸い瞳を真正面から俺に向け続けた。彼女は揺れない。いつかに見た、手負いの獣のような不安定さはどこにもない。強い意思を持って、彼女はここに立っていた。
彼女の内には、血のにじむような切望と。善悪を超越した、深くて、重い、覚悟があった。
「私がしていることを許さなくていい。これは私にできる全てだ。これがどういうものなのかは、私自身嫌というほど分かっている。私たちが出会ったあの日から、灰原は果てのない地獄を見続けている。だからこそ、私は、いつかの君に諦めてほしい。それだけが私の願いだ」
言葉の意味は分からなくもなかった。
彼女は、一言一句を刻み込むように、ことさら丁寧に突きつけた。
「ルールは一つ」
彼女は言った。
「幸福には、総量がある」




