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お前の血しぶきで漫画が汚れた

 時計を見る。

 時刻は二時四十七分。俺が死ぬぴったり三十分前に、俺たちは駅前に立っていた。


「えーっと……。棗」

「なんだ」

「俺たち今、何してたんだっけ」


 棗は答えた。


「駅前の不動産屋から出てきたところ、みたいだな」

「みたいってのは?」

「俺の記憶だと、ちょっと前にお前が死んだばかりだ。それから目がくらんで、気がつけばここに立っていた。なんつーか……。この感覚、脳がバグるな。事前に知ってなければ夢でも見てたと思うかもしれん」


 棗は立ったまま目頭を押さえた。その感覚には共感があった。やっていることはゲームで言うリスポーンによく似ているが、そこに生々しい実体験が加わると妙にそら寒い感覚がする。例えるならば、知らない路地にうっかり踏み入れてしまった時の違和感を百倍に濃縮したような。少しだけ非日常を垣間見たと思ったら、次の瞬間には理解よりも早く実感を突きつけてくるのだ。


「棗、お前、巻き戻る前のこと覚えてるのか?」

「まあな。あのサンタクロースって女、怒ってたぞ」

「へえ。どんな風に?」

「お前の血しぶきで漫画が汚れたってさ」


 …………。おう。そうか。

 俺たちは足早にアパートに向かった。一〇一号室が見えるところでしばし待ち、大家が出てきたところで声をかけた。


「すみません、大家の月島さんですね」

「ええ、はい。あなたは?」

「ええと……」


 どう誤魔化すか少し迷った。何一つ自分を偽ることなく生きてきたせいか、こういう時にとっさの嘘が出てこない。俺が答えあぐねていると、隣の棗が口を挟んだ。


「このアパートに住んでいる灰原くんの友人です。俺が田辺で、こいつが山尾」

「入居者様のご友人ですか。どういったご用件でしょう?」

「あいつ、ここ数日大学に来ていないんですよ。何かあったんじゃないかと思って、心配で」


 棗はいかにも友を案じる友人のような誠実な顔をした。絶妙に、断りづらい顔だった。この男、これで中々役者である。


「部屋のインターホンを鳴らしても返事がなくて。なんとかして安否を確認したいんですけど……。すみません、鍵を開けていただくことはできませんか」

「いえ。本人の承諾も無しに、勝手に部屋を開けるわけには」

「でも、その本人に連絡がつかないんですよ」


 棗は後ろ手にスマートフォンを抜き、俺に見える角度で電源ボタンを何度か押した。サインを受け取り、俺は自分のスマホの電源を落とした。


「少々お待ち下さい。私の方から連絡してみます」

「お願いします」


 大家は一度部屋に引っ込む。その間に俺は棗に耳打ちした。


「俺の部屋なんて開けさせてどうするんだよ。鍵ならここにあるぞ」

「探りを入れてるんだ。あの部屋のこと知ってるならなんとかして開けるのを避けるだろ。ボロが出たら、そこを突く」

「お、おう……? まあ、任せるわ」


 こういう駆け引きは苦手の類いだ。おとなしく棗に任せるべきだろう。しばらくして部屋から出てきた大家は、明らかに青ざめた顔をしていた。


「ご友人のお名前は、灰原雅人様でお間違い無いでしょうか。……二〇四号室の」

「はい、その灰原雅人です。連絡は付きましたか?」

「いえ。携帯電話の電源が落ちているようでした」


 棗はここぞとばかりに深刻そうな顔をした。


「やはり、あいつの身に何かあったんだと思います。無理を承知でお願いします。どうか、部屋を開けてはいただけませんか」

「いえ、しかし、こればっかりは規則ですので」

「お願いします。もしあいつが部屋の中で倒れていたら、助けられるのは今しか無いかもしれません」

「でも……。だとすると、灰原さんはもう……」


 もう? もう死んでいる? 彼女が濁した言葉は明らかに匂ったが、棗はまだ食いつかなかった。


「中を確認したらすぐに僕らは去ります。それでも、ダメでしょうか」

「ごめんなさい。私の手では、あの部屋を開けるわけにはいきません」

「それでしたら警察に連絡します。警察からの要請ならば開けていただけますよね。お手数ですが、少々お時間を頂けないでしょうか?」

「警察、ですか……」


 大家は明らかに狼狽していた。買い物袋の持ち手をぎゅっと握りしめ、うつむきがちに声を潜める。


「どうしてもあの部屋に人を入れるわけにはいけないのです。どうかご理解ください。警察を呼ぶというのも……。やめていただけると、助かります」

「しかし、それだと灰原が!」

「……灰原さんのことは諦めてください。おそらく、もう、手遅れです」


 なるほど俺はもう手遅れらしい。彼女があまりにも真剣に言うものだから、俺は思わず笑いそうになった。棗は後ろ足で俺のスネを蹴った。ごめんて。


「灰原が手遅れというのはどういった意味でしょうか」

「それは……。その、お答えできかねます」

「ひょっとしてあなた、何かご存知なのですか?」


 いかにもあなたを疑っていますと言わんばかりの、絶妙な声音だった。よくもまあ躊躇いもせずにここまで顔が作れる。


「お願いします。人命がかかっているかもしれません。何だって良い。もし少しでも知っていることがあるのなら、どうか教えていただきたい」


 棗にガッチリと視線を向けられ、大家は可愛そうなくらいにたじろいだ。友の身を案じる立場からの頼みだ。さぞや無碍にしづらいだろう。断れない頼み方ってこういうものなんだなと、俺は他人事のように眺めていた。

 大家はそれでも逡巡したが、最後にはうなうなとうめき声を上げて不承不承に折れてくれた。


「わかりました……。そこまで仰るのなら、部屋の鍵をお渡しします。それでよろしいですね」

「ありがとうございます。……鍵、ですか?」

「はい、そうです。それを使って部屋の中を確認してください」

「あなたは立ち会わないのですか?」

「ごめんなさい。それだけは、どうしても無理なのです」


 大家は一度部屋に戻り、鍵を取ってくると棗の手に押し付けた。


「私はここに居ますので、確認が終わりましたら鍵を返しに来てください」

「ええと……。もし何か知っていたら、教えてもらいたいのですが」

「あの部屋についてお教えできることは何もありません。これ以上ご質問にもお答えできません。確認が終わりましたら、どうかお引き取りください」


 俺は内心で舌打ちをした。ここまでやっても彼女は語る気は無いようだ。すっかり目を伏せてしまい、俺たちと目を合わせようとすらしない。片手でぎゅっと体を抱きしめ、可哀想なくらいに震えてしまっていた。

 この様子ではこれ以上は無理だろう。棗も同じように考えたのか、礼を言って二階へ向かう。俺もその後についていった。


「くそ。思ったよりガードが堅いな……。今更お前の部屋なんて見たってどうにもならんぞ」

「どうする棗。部屋を見てから、もう一回追求するか?」

「ダメだ。あいつ、すっかり口をつぐんじまった。いくら聞いてもこれ以上はどうにもならんだろう」


 棗は困ったように頭をかいた。これ以上打つ手は無いようだ。正攻法でも、人情路線でも、彼女の口を開くことはできなかった。ここまでやってもダメだと言うなら……。一体どうすれば、あの女を攻略できる。


「おい灰原、とりあえず一回死んでくれるか。一度やり直したほうが良さそうだ」

「いや……。待てよ。死ぬのは別に良いけど、それより思いついたことがある」

「何か考えがあるのか?」


 考えがあると言うか、まったくもって考えなしのゴリ押しも良いところなのだが。それでも手段は手段である。


「なあ棗、お前ってさっき俺が死んだ時も前の記憶を持ってたよな。なんでだ?」

「いや分からんけど。お前が死んだところを間近で見てたからじゃねえか?」

「俺も多分そうだと思う。そこでだ」


 どうにもならない現実を砕く、たった一つの冴えたやり方。強引極まるリーサルウェポン。こんな状況を覆す術なんて、俺は一つしか知らなかった。


「ちょっと俺、あいつの目の前で死んでくるわ」


 そう。死ぬのだ。

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