91 公主の使命
畳や戸板などを遮蔽物構築のために取り外した景紀たちであるが、流石にすべての畳や戸板を接収したわけではない。
倭館には未だ数十名の人間が寝起きしており、ために生活空間として必要な区画の畳や戸板などはそのままである。しかし、本来は陽鮮人使者を迎えるために造られた東館の広間の畳は、すでにすべてが剥がされてその下の床板が剥き出しになっていた。
その寒々しい空間となった広間の上座にあたる位置に椅子を持ってきて、そこを仁宗国王に対する仮の玉座とした。
今、角灯の光に照らされた広間には、倭館の主要な者たちが集まっていた。
秋津側出席者は倭館館長・深見真鋤、首席全権・森田茂夫、次席全権・広瀬信弘、軍事視察団団長である景紀、そして書記官と通訳官。
陽鮮側出席者は仁宗国王、貞英公主、熙王子、礼曹講修官・金寿集、礼曹佐郎・金光護、京畿監司・崔重祥、内禁衛将(親衛隊隊長に相当)・鄭孝顕であった。
なお、二騎の翼龍を駆って倭館へと逃げ込んできた者は、二人の龍兵の他は仁宗国王、講修官・金寿集、内禁衛将・鄭孝顕、侍従長の六名であった。
京畿監司・崔重祥はこれまで景紀の命によって軟禁されていたのであるが、仁宗国王に秋津側への不信感を抱かせないために、やむを得ず解放されていた。
そして解放されるや否や、仁宗国王よりも先に倭館に逃げ込んでいた京畿監司・崔重祥は、国王の前で自分が二人の王族をお守りするために倭館にいるのだと、慇懃な調子で釈明していた。
この様子を、景紀たち秋津側出席者は白けた調子で見遣っていた。
そうして陽鮮側関係者が一通り国王への拝礼を終えると、ようやく両者の協議に入ることが出来た。
「このような状況ですので、陛下に対する拝礼は省略させていただきます」
景紀は館長や全権たちが何かを言う前に、牽制するようにそう言った。高圧的にも聞こえる声であった。ここで儀礼に拘って、時間を浪費したくないのだ。それに、強硬派の全権たちの言葉で協議を混乱させたくもなかった。
金光護が、景紀の言葉を通訳する。
『倭奴の分際で、陛下に対して無礼であろう!』
激昂したのは、京畿監司・崔重祥であった。ここで少しでも忠臣のように振る舞い、監司としての職務を放棄して逃亡したという事実を霞ませようとしているのかもしれない。あるいは、今まで軟禁されていた鬱憤が溜まっていたのか。
『そもそも、武官如きが口を挟むでないわ! だいたい、貴様はまだほんの若造ではないか! 何の故があってこの場にいるのか!?』
儒教思想によって文官が優遇され、そして年齢による上下関係に厳しい陽鮮らしい言葉であった。
だが当然、陽鮮語を解さない景紀は何か喚いている人間がいるという認識でしかない。
『少し静かにしておれ』
そして、それを諫めたのは仁宗国王であった。
『しかし陛下、我々監営の者たちは両殿下をお守りするために馳せ参じながら、今まで倭奴によって不当に軟禁されていたのです。この点を曖昧にしたまま、倭奴と協議するなど……』
『監司閣下』
慇懃な調子で、しかしほのかな怒気を漂わせながら、金光護は崔重祥の言葉を遮った。
『今まで凶徒から両殿下をお守りしていたのは、ここにいる景紀殿を始めとする秋津人たちです。小官は、監営の方々が両殿下をお守りしようとしていたという記憶はありません』
『何を戯れ言を!』
顔を赤くして、崔重祥は怒鳴った。
『佐郎の分際で、陛下に偽りを吹き込むでない!』
『小官は真実を申し上げているだけです』
『貴様っ……!』
『静かにせよと言ったのが聞こえなかったのか!』
流石に業を煮やしたらしい仁宗が、二人を一喝した。
『状況の逼迫は余も理解している。卿らの話は後で余が詳しく聞くが故、控えておれ』
国王の言葉に、流石の二人も黙り込むしかなかった。
『余は建設的な話し合いをしたい。貴殿は先ほど、庭で見た顔であるな。名は何と言う?』
「皇国陸軍中佐、結城景紀。現在は本館の守備を担当しています」
国王からの下問を、硬い無表情をした金光護が通訳し、それに景紀が答える。
なお、先ほどまでの陽鮮側の遣り取りは、倭館の通訳官を通してすべて景紀らに筒抜けであった。
『なるほど。確か貴殿は、結城家の嫡男であったな?』
「はい、左様です、陛下」
仁宗と景紀の間で勝手に話が進んでいくことに、森田首席健全や広瀬次席全権は面白からざる表情を浮かべていたが、強いて口を挟もうとはしなかった。正規の外交官を飛び越えて国王と一軍人が話をすることは確かに苦々しいのだろうが、彼らとしても現時点における倭館の実質的な最高責任者は、この六家次期当主だと理解しているのだ。
そして、深見館長の方はすでに倭館館長としての自分の役割は終えていると思っているのか、諦観交じりの表情で、仁宗国王と通訳越しに会話する景紀を見つめているだけであった。
「ときに、陛下はどのようにして帯城を脱出されたのです?」
『礼曹判書と、余に忠実な内禁衛(親衛隊)が手引きをしてくれたのだ。今頃、王宮は騒ぎになっておろう』
『……父上、母上はどうされたのですか?』
二人の会話に口を挟んだ貞英の疑問は、ある意味で当然のものであったろう。翼龍に乗っていた人間の中に王后がいなかったのだ。
『……あやつは欽の奴を説得すると言って王宮に残った』
娘に対して、少し言い辛そうに父である国王は答えた。
『そう、ですか……』
貞英の顔が悲痛そうに歪む。彼女は、父親の言葉を決して額面通りに受け取りはしなかった。何かしら、国王と共に脱出出来ない理由があったのだと思った。
『姉上……』
隣に座っている幼い李熙王子も自分の母親だけ脱出しなかったことに衝撃を受けているようであったが、姉である貞英を慰めるように手を彼女の背中に添えていた。幼いながらに、姉思いの王子らしかった。
「それで陛下、陛下がこちらにいらした理由についてお伺いしても?」
純軍事的に考えれば、守る者が増えたことは景紀ら菊水隊にとって負担でしかない。政治的に考えればまた別の意見があるのだが、少なくとも相手の意図は把握しておきたかった。
『余は今まで軟禁されていたが故、講修官に説明させよう。金よ、説明せよ』
『御意』金寿集が恭しく一礼する。「端的に説明すれば、我が王国と貴国との戦乱の勃発を避けるためだ。此度の一件はすべて王位を簒奪した王世子一派による陰謀であり、陛下は貴国との戦乱を望んではおられない」
「つまり、この館を包囲している者たちは政権を奪取した王世子に従っている者であり、李欽政権は陽鮮の正統な政権ではないと、貴殿らは言いたいのですね?」
「その通りだ」金寿集が頷く。「王位を簒奪した者は、正統な王ではない。貴国には、このことを明確に認識してもらいたい」
「……」
そうは言っても、帯城での騒擾を鎮圧出来なかった責任は、仁宗政権に存在する。その失態のツケを払わされているのが景紀ら帯城倭館の者たちであり、金寿集の言葉は、仁宗政権にとってのみ都合の良い解釈であった。
とはいえ、仁宗側が王世子を簒奪者と考えているということは、秋津皇国にとっては政治的に好都合ではあった。仁宗の安否が確定したことで、皇国は陽鮮王国の誰を支援すればよいのかが明確になったからだ。
国王が安否不明な状況下で皇国が第二王子・李熙を擁立すれば傀儡政権との批判は免れなかっただろうが、この状況ならば仁宗国王を支援すればよいだけである。ただし問題は、仮に仁宗国王が政権を奪還出来たとしても、彼に統治能力があるのかということであった。
皮肉なことに今回の騒擾で、仁宗国王の持つ権力基盤の脆弱さが露わになってしまったのだ。下手をすれば、陽鮮開化派を支援するよりも皇国が半島を占領すべしという意見が国内で広がりかねない。
もっとも、そのあたりのことは本国の連中が考えればいいことである。景紀は思考を切り替えた。
今、自分たちが考えるべきは、どのようにして倭館から脱出して海軍部隊と合流するかということである。
「……その言葉は、少しだけ遅かったですね」
景紀は、あえて陽鮮側の焦燥を駆り立てるような言い方をした。
「すでに本国は、海軍部隊の派遣を決定しました。明日には、艦隊は江蘭島沖に到着するでしょう」
一瞬だけ苦い顔を浮かべた金光護が、景紀の言葉を陽鮮語に訳する。感情を押し殺して通訳に徹するのも大変だな、と景紀は他人事のように思う。
「もちろん、倭館に拠る我々を救出するための部隊であり、貴国との戦争を目的とした出兵ではありません。しかし、江蘭府の対応如何では、本格的な武力衝突に発展する可能性はあるでしょう」
「……」
「……」
「……」
陽鮮側出席者は、互いに険しい顔をして顔を見合わせた。
『少し、よろしいでしょうか?』
そこで口を開いたのは、貞英であった。
『先日、妾は景紀殿の要請を受けて、江蘭府へ秋津軍の通過を認めるよう説得する内容の書状を送りました。今度は、父上が直筆で江蘭府への書状をしたため、両国の衝突を未然に防止すべきかと』
恐らく、この中で最も両国の武力衝突を憂えている人間は、彼女であったろう。何しろ、景紀らによって自国民が撃ち倒される場面を、秋津側で見ていたのだから。
これ以上自国民が犠牲になることを、公主として何としても阻止しなければならないという覚悟が、彼女の口を開かせているに違いない。
『現状、江蘭府は態度を明らかにしておりません』金寿集が説明する。『それを鑑みれば、陛下からの書状は一定の効果を持つかと。しかし、陽鮮の土地を秋津軍が通過するのを認めるということは、属国の如き扱いと反発する者も出てきましょう。ここは、江蘭府に援軍を求める書状にすべきかと』
『問題は、誰を江蘭府への使者とするか、だ。もし江蘭府が王世子殿下側に付けば、使者はその場で首を刎ねられるだろう』
内禁衛将・鄭孝顕が渋面を作って指摘した。一瞬、陽鮮側出席者が互いをちらりと見る。
少なくとも、倭館に籠っていれば、秋津軍による救援が見込める。だが、江蘭府が仁宗政権と李欽政権のどちらに帰順しようとしているのかが不明な以上、そこへ向かうことには危険が伴う。さらに皇国海軍と江蘭島砲台との戦闘が発生すれば、使者はそれに巻き込まれる恐れもあった。
自分より官位の高い者たちが逡巡する様を見て、礼曹佐郎・金光護は自分が志願する決意を固めた。だが、口を開こうとした次の瞬間、それは遮られてしまう。
『それは、妾がやるのじゃ』
彼が口を開くよりも早く、一片の躊躇もなく貞英が名乗りを上げたからだ。
『父上では危険が大きすぎる。他の役人では、江蘭府を動かすだけの力が足らぬであろう。ならば、王族である妾が行く』
固い決意を秘めた貞英の言葉に、陽鮮の者たちは何も言えなかった。父親である仁宗は、少しだけ困ったような表情になっている。弟の熙王子は、心配そうに姉を見上げていた。
「何を議論しているんだ?」
景紀はそっと、秋津側の通訳に尋ねる。通訳官は、江蘭府に誰を使者として派遣するのかで揉め、それに貞英公主が志願したのだと答えた。
これまでの貞英の態度や、先ほどまで宵たちと共に配食を手伝っていたことなどを思い出し、景紀は彼女ならばそう言ってもおかしくないと納得した。宵に比べればまだまだ未熟なのだろうが、それでも覚悟において彼女に劣るものではないだろう。
結局、誰も貞英を翻意させることは出来ず、彼女は二十五日の朝一番で江蘭島へ使者として向かうことが決定したのだった。
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一方、景徳宮では混乱が広がっていた。
国王の親衛隊である内禁衛の一部が、王宮の一室に軟禁中であった仁宗国王を救出し、内禁衛の保有する翼龍を使って王宮を脱出したというのである。
内禁衛の将軍である内禁衛将も、行方不明となっていた。
仁宗の脱出が成功したのは、その直前に王后が宮女に変装して王宮から脱出しようとしたことが発覚し、警備の目がそちらに引きつけられてしまったからだ。いわば、王后は国王を逃すための囮となったのである。
さらには、仁宗側についた一部の宮廷呪術師たちが、呪術による偽装工作を行って国王の王宮脱出の発覚を遅らせたことも大きい。
仁宗が脱出し、簒奪者・李欽を討伐せよとの伝教を発すれば、李欽政権は崩壊する危険性が高まる。かといって、その可能性を恐れて父親を殺害することも、李欽には出来なかった。それでは、完全に簒奪者・弑逆者となり、政権の基盤を自ら打ち壊すようなものだったからである。
二律背反に陥って中途半端な対応をした結果、正統な王である仁宗に忠実であろうとする者たちの離反、そして彼らによる国王救出という事態をもたらしたといえよう。
そして、李欽政権側の問題はそれだけではなかった。
五営を動員したにも関わらず、倭館を落とすことが出来なかったのである。
しかも、人的被害も深刻なものであった。
まず、龍虎営、禁衙営、総戎営を率いる三名の上将軍(営の司令官)が戦死、次席指揮官である大将軍や各級指揮官も戦死が相次いだ。さらに展開した火砲もほとんどが破壊され、兵卒の被害も二〇〇〇名を越えている。
それでもなお、農民や貧民から徴兵した兵士たちが逃亡せず、辛うじて軍の形を維持出来ているのは、五営の中で蜂起軍民からなる義勇兵や攘夷派武官が睨みを利かせていたからである。
彼らは昨日の反省から、少しでも逃亡の気配を見せた兵卒たちを厳しく糺弾し、場合によってはその場で首を刎ねたのである。後世でいうところの督戦隊のような役割を、義勇兵や攘夷派武官は担っていたといえよう。
結果として、昨日のような群衆事故を起こすことなく、現在も倭館を包囲し続けることに成功していた。
ただ問題は、その倭館に仁宗国王が逃げ込んだらしいということである。倭館の倭奴を鏖殺する過程で国王を巻き添えにすれば、それこそ李欽は父であり国王である人物を弑逆したとの汚名は免れ得ない。
だが、彼の祖父である太上王は違う意見であった。
「あやつは、倭奴どもに殺されたことにすればよい」
そう言って、万が一仁宗が死亡した場合でも、それを成したのは倭奴であるということにすれば、国民を反秋津感情で団結させることが出来ると、太上王・康祖は説くのである。
実の息子に対する親としての感情など、まるで感じさせない冷徹な物言いであった。
「儂の直属の術師たちも、急ぎ呼び戻しておる。倭奴の小癪な術者を、今度こそ仕留めてくれようぞ」
先日、倭館を襲撃した太上王直属の暗行御史の術師たちは、地方勢力の動向を探らせるために、一時、帯城を離れていた。それを、太上王は呼び戻していたのである。
「術者がいるから倭館は持ち堪えておるのだ。連中さえ仕留められれば、あとは有象無象の夷狄に過ぎん。洋賊を退けた我ら陽鮮の力を、今度は思い上がった倭奴どもに思い知らせてやるのだ」
フランク共和国とヴィンランド合衆国、二度の洋擾を退けた経験を持つ太上王は、自信と共に自らの孫を説得したのであった。
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皇暦八三五年七月二十五日の早朝、倭館の庭では二騎の翼龍が飛び立とうとしていた。
倭館には翼龍に食べさせる十分な糧秣が存在していなかったため、二騎の翼龍には若干の疲労が見えた。だが、帯城倭館から江蘭島までは約二〇キロ。片道飛行ならば龍の体力が持つであろうと判断された。
片方の翼龍には貞英が同乗し、もう一方には皇国海軍部隊との通訳を担当すべく金光護が乗る。
「……今まで、世話になったのじゃ」
翼龍に乗る直前、見送りに来た景紀に貞英は冬花の通訳用呪符を通してそう言った。
「俺は特に殿下のお世話をした記憶はないんですが?」
「だが、そなたは妾を女だという理由で蔑ろにしなかったのだ。そなたのような者が、兄上であったらと、少しだけそう思うのじゃ」
そう言って、貞英は決定的に決別してしまった兄・李欽を思って寂しそうな表情を浮かべた。
兄と同じくらいの年齢のこの少年は、少なくとも自分を女だと蔑ろにすることなく、こちらの意思を尊重してくれた。それが、未熟な子供の我が儘に付き合う程度の感情であったとしても、貞英としては嬉しかったのだ。
「そなたが軍人としての義務を果たそうとするように、妾も今度こそ公主としての務めを果たしたい」
「これは、俺が身近な人間に言った言葉なんですが、あんまり何もかも背負い込まない方がいいですよ、公主殿下」悲壮な覚悟すら見える貞英に、景紀は言った。「どんなに地位のある人間だって、人間である以上、出来ることは限られているんですから」
「出来ることは限られている、か……」
噛みしめるように、貞英は景紀の言葉を繰り返した。
「その言葉、覚えておこう」
顔を上げて、陽鮮の公主は景紀を見た。覚悟を決めた、少女の顔であった。
「では、行ってくるのじゃ」
「ええ、どうかご無事で」
「それは、そなたらにこそ必要な言葉であろうな」
その遣り取りを最後に、二人はそれぞれの向かうべき場所へと向かった。
やがて倭館の庭から二騎の翼龍が暁の空へと飛び立っていった。




