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【書籍化】秋津皇国興亡記  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第五章 擾乱の半島編

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85 最後の日誌

 結城宵は、もともと無表情の顔をさらに能面のようなものにしていた。


「……」


 目の前では、夫たる結城景紀の命令によって、許しがたい蛮行が行われていた。


「機密文書は全部庭に集めろ! 今夜中にすべて焼却処分するんだ!」


 若林曹長を始めとする数人の下士官たちの指示で、軍事視察団の兵士や使節団の随員、倭館の館員たちが、書庫から無造作に書物を取り出しては外に放り出している。

 機密文書だけを焼却するよう命じているが、このような切迫した状況で文書の取捨選択を行っている余裕はない。目に付いた文書は片っ端から庭に積み上げられ、複写資料も含めた倭館数百年の歴史を物語る貴重な書物が焼き尽くされようとしている。


「……」


 だが、宵にはそれを止める権利はない。そして、彼女の冷徹な部分が、これを必要な行為だと判断していた。感情的な反発はあるが、景紀を恨むほどではない。

 宵自身も、状況の緊迫化を感じ取っていた。

 むしろ、無理を言ってここまで付いてきた身である。我が儘など言える立場ではない。

 縁側に立ち尽くしてその様子を見ていた宵であるが、不意に耐えられないものを感じて、その場を後にした。

 渡り廊下を越えて向かったのは、東館の館長室だった。

 西館もそうだが、東館の様子も様変わりしていた。倭館防衛のために資材となりそうな戸板や畳、卓子などが運び出され、寒々しい印象を宵に与えていた。

 扉を叩いて館長室に入ると、深見館長は室内の整理をしていた。


「……これは、宵姫様。いかがいたしました?」


 いささか疲労の色が見える声である。

 彼は数時間前、数百年の歴史を持つ倭館に自ら終止符を打つ通信を送ったのだ。すなわち、情勢の逼迫に伴う領事官職務規則に基づく海軍部隊の派遣要請である。

 情勢が落ち着けば再び戻ってくる可能性もあるだろうが、恐らく無人となった倭館は略奪や焼き討ちなどの憂き目に遭っているだろう。

 一度、倭館の歴史が終わることは最早避けられないのだ。


「……ここにある文書も、燃やしてしまうのですね」


「ええ、外交交渉に関わる機密情報が記載された文書が多いですから、陽鮮側の手に渡すわけにはいきません」


 館長室にある文書は、日常の執務で必要となる資料や記録などの文書類である。もちろん、それらには陽鮮側に知られたくない機密情報なども書いてあるので、処分しなければならない。


「姫様は、ここ数日、よく資料をお読みになっておりましたからね。やはり、何かしら感じるものがおありで?」


「ええ、感傷であるとは判っていますが」


 宵は書棚に平積みにされている和綴じの冊子を見た。


「しかし、やむを得ません」


 深い深い溜息を、館長は吐き出す。


「自分が両国の先人たちが築き上げてきたものに終止符を打たねばならないのは、忸怩たる思いがありますが」


「深見館長殿」


 すると、若林曹長が部屋に現れた。開け放たれた扉の向こうには、数名の兵士が待機している。


「お部屋の整理のお手伝いに参りました」


「ああ、すまんが頼む」


 張りのない声で、館長は頷いた。


「はっ、失礼いたします」若林曹長は腰を折った。「総員、かかれ!」


 掛け声と共に兵士たちが部屋に入ってくる。彼らが部屋に備えられている書棚に手を付ける寸前、宵は自分の体で影になった位置の冊子を素早く取り出し、着物の中に隠した。


「それでは、私は皆様の邪魔をせぬように下がっています」


 彼女は何食わぬ顔でそう言い、兵士たちが手荒い手付きで書棚に収められた文書を引き出していくのを感情のない瞳で一瞥すると、館長室を後にした。

 着物の中に隠した冊子は、皇暦八三五(嘉応十六)年度七月の館守日記。

 つまりは、最後の館守日記であった。


  ◇◇◇


 館内で人の動きが活発になる中、貞英は金光護を伴って指揮所にいる景紀たちの下を訪れていた。


「随分と物々しい雰囲気になってしまいましたな」


 溜息をつきたそうな調子で、金は言った。


「そちらの政府……まあ正確には京畿監営ですが……が我が館を護衛する余力がないと認めてしまった以上、当然の措置でしょう」一方、景紀は平然と事実を突きつけた。「斥邪討倭を唱えている連中に無防備で接しようと思うほど、俺は状況を楽天的に見ようとは思っていませんので」


「やはり武力衝突は起こると考えているのですな」


 金は弱り切った顔で景紀を見た。


「少なくとも、俺たちはその前提で動いています。本国でも、倭館にいる邦人保護のために動き出していることでしょう」


「我が国と貴国との戦争に発展する可能性について、貴殿の存念を伺いたい」


「俺はただの現場指揮官です。六家の嫡男といえど、この場ではそれ以上でもそれ以下でもありませんよ。そして、軍人の役割とは国土の防衛と国民の生命・財産の保護です。俺はその基本的な軍人の理念に従って行動しようとしているに過ぎません」


「つまり、王世子殿下がこの倭館に手を掛けようとした瞬間に、我が陽鮮王国は貴国の敵となるわけですな?」


「有り体に申し上げれば。それとも、王世子殿下はそのことを理解していないとでも?」


「恐らくは、理解しているのでしょう」顔を苦しげに歪ませて、金は続ける。「理解した上で、攘夷は可能だと考えているに違いありません。我々は二度、洋夷の侵略を退けたのですから」


「つまり、皇国がフランク共和国やヴィンランド合衆国と同じ轍を踏むと考えられているわけですか、王世子殿下は」


「……」


 金は答えなかった。彼にとって、王世子・李欽は王族として敬うべき存在だ。例え簒奪者だとしても、安易な批判は口に出来ない。


「それで、貴殿と殿下はそれを確認されるためにいらしたのですか? そして、王世子殿下にそれを伝えようとでも?」


「いえ、私が王世子殿下をお諫めすることは、現状では不可能でしょう」金は諦観を滲ませながら首を振った。「城門は未だ閉ざされ、城内に暴徒と化した群衆が集まっている以上、無事に王宮に辿り着けるとは思えません」


「では、何を?」


「貴殿に、頼みたいことがあるのだである」


 答えたのは、貞英であった。


「もしこの場に人々が押し寄せたとしても、彼らを撃たないで欲しいのである」


 深刻そうな面持ちで、十二歳の公主は言う。


「無論、俺たちも好んで陽鮮と事を構えたいわけではありません。あくまで、自衛の範囲内で行動を起こすまでです」


 景紀は、公主の言葉にあえて噛み合わない答えを返した。

 恐らく、真面目に相手にされていないと思ったのだろう。貞英はきゅっと唇を噛みしめた。


『……例え暴徒であっても、彼らは我ら陽鮮の民じゃ。王族として、見捨てるわけにはいかぬ』


 公主の陽鮮語を、金光護が訳す。


「俺たちにとっては、自分たちの生命・財産を脅かそうとするならば敵です」


『彼らは、妾の民でもあるのじゃ! 妾は彼らが殺されるのを、ただ見ているわけにはいかんのじゃ!』


 悲痛な声で、貞英は景紀に訴えた。


「ならば、まずは自国民の統制をとるべきでしょうな」溜息をつきたそうな調子で、景紀は言った。「両国間の衝突を引き起こそうとしているのは、斥邪討倭などと唱えているそちらなのですから」


「……」


 貞英は拳を握り込んで、黙ってしまった。


『……兄上は恐らく、妾の言葉など聞くまいよ。兄上は、我が軍の力を信じ切っておるのじゃから』


 やるせない視線を床に向けながら、貞英は呟く。そして、のろのろと顔を上げた。


『なあ、結城景紀よ。もしこの場に民や兵が押し寄せたならば、まずは妾に説得させてくれぬか?』


 その言葉を理解出来た金は、驚きの表情を浮かべた。


『姫様、それはあまりにも危険です。お考え直しを』


 その場で即座に平伏し、金は懇願する。


『妾の考えは変わらぬ。早く、今の妾の言葉をこの者たちに伝えるのじゃ』


『……』


 金はなおも数秒間、公主の顔を見ていたが、到底、折れそうにないことに気付かざるを得なかった。貞英の言葉を秋津語に訳し、景紀たちに伝える。


「……」


「……」


「……」


 貞英の言葉を聞いて、景紀、貴通、冬花はしばし押し黙った。


「……貴通」


「はい。公主殿下の身が危険に晒される可能性が高いですが、自衛行動に対する政治的正統性は保障されるかと」


 景紀からの短い言葉に、貴通は自らの意見で応じた。

 公主が説得出来ればそれに越したことはないが、恐らくは無理だろうと景紀も貴通も思っている。一揆や打ち壊しが発生している自国の歴史を知る彼らにとって、一度、熱気に冒された群衆は簡単に動きを止めることは出来ないと理解しているのだ。

 公主が国民から絶大な支持を得ているようならばまた話は別だろうが、そうでないならば公主一人の言葉で民衆が留まるということはないだろう。

 しかし、それでも“王族ですら制御出来ない暴徒”であるならば、倭館側が自衛行動を取ったとしても後々、問題となる可能性は小さいだろう。これが秋津皇国側だけの判断であれば、後々、陽鮮王国から虐殺だの何だのと批難される危険性がある。しかし、その陽鮮の王族が静止しようとしたという事実があれば、責任の一端を陽鮮側に押し付けることが出来る。

 景紀も貴通も、共にそういう結論に達していた。


「……いいでしょう。殿下は陽鮮の王族であらせられます。王族としての義務を果たしたいというのであれば、俺たち秋津人にそれを止める権利はありません」


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 事実上、王宮の権力を掌握した王世子・李欽とその祖父である太上王・康祖であるが、彼らは主観的には王位の簒奪をしたわけではなかった。あくまでも、国王に代わって政務を行うという体を取っていたのである。

 やはり、王位を簒奪したとなると、その政治的正統性が問われることになってしまう。それを避けるための措置であった。

 攘夷派の間では康祖の復位を望む声もあり、実際にそうした計画を立てていた者たちもいたが、当の康祖自身は実はそこまで復位に前向きではなかった。もちろん、息子の仁宗の行っている開化政策には不満を抱いていたが、最愛の王后を亡くした時点で康祖は政治に主導的に関わろうという気を無くしていた。

 だからこそ、仁宗国王の排除には手を貸したが、自らの復位は拒否し、孫であり王世子である李欽に宮廷を掌握させたのである。康祖自身は、あくまでも李欽政権に対する相談役としての地位があれば十分だと考えていた。

 そうして現国王・仁宗を王宮の一室に軟禁した王世子・李欽たちであるが、権力を掌握した直後から難題に直面していた。

 それは、貧民に対する救恤米や兵士に対する俸禄米の不足、悪化したままの財政、質の悪い貨幣によって上昇したままの物価、などであった。それら仁宗時代の政治問題を、李欽政権はそのまま引き継いだ形となってしまったのである。

 もともと、今回の軍乱は排外意識の高まりよりも、そうした解決しない政治・経済問題のしわ寄せが民衆に寄っていたために発生したものであった。攘夷論に傾倒した末端の兵士が倭人の正使を斬り付けたことは、兵卒と庶民の暴発を引き起こした単なる切っ掛けの一つに過ぎない。

 つまり、兵卒への俸禄米の支給と貧民への救恤米の支給、そして財政の健全化と物価の安定化を行わなければ、集まった兵卒や庶民の怒りの矛先は、容易に李欽政権に向かってしまうだろう。

 だが、米は役人が不正を行う以前から慢性的に不足気味であった。

 陽鮮の人々にとっては不幸なことに、勢道政治時代から陽鮮では断続的に疫病の発生、農作物の不作、それに伴う社会不安からの反乱が頻発しており、税収入は不安定化していた。勢道政治に終止符を打った康祖が税制改革を行った結果、それまで税を免除されていた特権階級などからも税を徴収出来るようになったが、疫病による農村人口の減少や気候の変化に伴う米の収穫減に伴う税収の低下は如何ともし難かったのである。

 物価に関しても、景徳宮を再建するための資金調達などにより悪貨を発行した結果、上昇したのであるが、これに関しても即座に改善することは難しかった。

 東アジア経済圏は、数百年にわたって銀本位制が採られてきたが、その銀の主な供給地は秋津皇国であった。豊かな銀山を多く持つ秋津皇国の発行する銀貨は質が高く、陽鮮や斉でも流通していた。というよりも、銀貨が取引のための貨幣ではなく交易品そのものとして扱われていたというのが正しい。そのため皇国は銀の国外流出を防ぐために、交易専用の銀貨を新たに発行するなどの手段を取って銀の流出を押さえ込んだ。

 一方、陽鮮では皇国ほどに銀の錬成技術が進んでおらず、結果として悪貨の流通も相俟って皇国の銀貨が陽鮮国内で流通し出すという状況にまで陥っていた。

 つまり、自国政府の発行する通貨を、国民が信用しなくなってしまったということである。

 これは、財政を立て直す上でも大問題であった。

 攘夷政策を取れば、それで民心が安定するというような単純な状況ではなかったのである。






 そして、李欽政権にとっても情勢の悪化は続いていた。


「失礼いたします! 先ほど、城内にこのような紙がばら撒かれました!」


 王宮の執務室に、一人の役人が駆け込んでいた。


「何事だ、騒々しい」


 李欽は少し苛立った声を出した。


「殿下、これをご覧下さい」


 切迫した声と共に、その役人は握っていた紙を差し出した。


「ふむ」


 受け取った紙の質は、陽鮮で流通しているものではない。紙質は滑らかで、国内では見られないものだ(つまりは、洋紙である)。そしてそこには、紫に近い色の墨で文字が書かれていた。


「……何なのだ、これは!」


 その文字を読んで、王世子たる青年は怒りの声を上げた。

 書かれていたのは、王位を簒奪したと自分を批難する内容のものであった。王位の簒奪を禽獣にも劣る行為であると、陽鮮の道徳観念に基づいて短く簡潔にまとめられている。どこか詩的な印象も受ける、洗練された文章であった。


「いったい誰がこのような掛書(陽鮮において政治批判などが書かれた落書きのこと)を……!」


 手震わせながら、李欽は紙を凝視する。そして見覚えのある名が書かれているのに気付く。


「……これは、貞英か! あの愚妹めが、まんまと倭奴どもに取り込まれおって……!」


 つまりは、これは倭奴どもの謀略である。連中としては、攘夷派よりも開化派が政権を握っていた方が都合がよいと考えて、このような手段に打って出たのであろう。

 陽鮮の人々は、陽鮮ほど礼儀を重んずる人々はなく、韃靼(北方騎馬民族)より剽悍な人々はなく、倭奴ほどを狡猾な人々はいないという人種観を抱いている。

 故に李欽は、この伝単をその狡猾な倭奴による謀略だと考えたのである。


「あの時、暗行御史たちが二人を始末していれば、このようなことにならなかったものを……」


 政権を奪取するに当たり、こうした事態を恐れていたからこそ、李欽派は倭館に刺客を放っていたのである(当初は貞英らが倭館に滞在する予定はなかったため、饗宴の儀の席での毒殺に見せかけた呪殺にする予定であった)。しかし、刺客は撃退され、生き残った貞英は明確に自分にとっての政治的障害となってしまった。

 そのことに、李欽は歯噛みする。


「直ちにこの掛書を回収するのだ。所持していた者はそれだけで厳罰に処すと告知せよ。それと、倭奴の手先が城内に忍び込んでいる可能性がある。至急捜査し、連中の間諜を捕らえよ」


「はっ」


 役人は一礼し、すでに暗くなった王宮の回廊を駆けていった。


「くっ……。倭奴どもの謀略を防ぐには、掛書を撒いた者を捕らえるだけでは不十分だ」


 未だ自分の権力基盤が盤石なものでないと、李欽は自覚している。その基盤を固めるべき米は不足し、財政難や物価上昇も即座に改めることは出来ない。

 このままでは、蜂起軍民の不満は容易く自分たち新政権に向かってしまう。

 さらには、斥邪討倭を唱えて政権を奪取した自分たちである。斥邪討倭を実行しなければ、国内の攘夷派すら自分たちを見限るだろう。

 もともと、攘夷派といえど一枚岩ではないのだ。政権が分裂するだけならばまだしも、少しでも対外的に軟弱な姿勢をとれば自分たちが過激派に裏切り者として殺害されかねない。

 そうした危うい均衡の上に、李欽政権は成立していたのである。


「文を重んずる我らが、武を誇る倭奴に習うのは癪に障るが、この際、やむを得ん」


 低く、李欽は呟いた。


「倭館を、攻めるしかない」


 それを以て、「斥邪討倭」を唱える自身の決意を全土に知らしめ、倭奴を滅ぼした武威によって権力基盤を強化する。

 そして、連中は交易の代金として蔵に米と銀を収蔵しているはずだ。倭館を攻め落とせば、それも手に入る。

 帯城倭館、元峯倭館、東萊倭館。

 そのすべてを攻め落とすべく、伝教を発することに、若き王世子は決めた。






 帯城軍乱はこのようにして、その矛先を倭館へと向けることとなったのである。

 これが、数年にわたって続くことになる動乱の時代の幕開けとなることを、当事者たちのほとんどは自覚していなかった。

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『秋津皇国興亡記』第1巻
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