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【書籍化】秋津皇国興亡記  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第四章 半島の暗雲編

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61 陽鮮王国の王宮にて

 中央大陸から秋津皇国の西部に向けて張り出した半島には、初代国王・太宗以来、四五〇年近い歴史を(けみ)してきた王朝が存在する。

 陽鮮王国。

 この半島の統一王朝は、朝貢冊封体制から成り立つ東アジアの国際秩序に則ることで、王権を維持してきた。

 だが、太宗の建国以来、常に王朝が安定していたというわけではない。

 むしろ、激変する東アジア情勢の中で、王朝は常に難しい舵取りを迫られてきたといえるだろう。

 約二〇〇年前、大陸の中華帝国が綏王朝から斉王朝に取って代わられる動乱の時代、後に斉王朝を建てることになる北方の騎馬民族の侵入を、半島は何度も受けた。

 さらに同時期は秋津皇国が海外進出を始めていた時期とも重なり、陽鮮王国は北方と南方に存在する強大な勢力からの圧迫を受けることになったのである。唯一の幸いは、秋津皇国が騎馬民族の南下によって勢力の空白地帯となった沿海州や氷州の獲得を目指していたため、秋津皇国の兵が半島に侵入してこなかったことであろうか(氷州は森林資源の他、毛皮の中でも最高級とされ権力者間の贈答品にも使われる黒貂が捕れるので、半島よりも領地として魅力的だったのだろう)。

 綏王朝が滅亡し、騎馬民族が斉王朝を建てると大陸の動乱はようやく収まったのであるが、それはまた陽鮮王国に新たな課題を突きつけることにも繋がった。

 そもそも、古代から連綿と続く東アジアの国際秩序である朝貢冊封体制は、「華夷秩序」という思想から成り立つものであった。

 華夷秩序とは、世界、そして文明の中心である中華が周辺地域に対して「徳」を及ぼし、その感化が人々に及ぶ度合いによって形成される属人的秩序である。

 そのため、中華帝国を築く王朝は「華」でなければならないのであるが、それが騎馬民族である「夷」に取って代わられてしまったことは、陽鮮王国にとって大きな思想的・政治的衝撃であった。

 この騎馬民族による中華帝国征服、王朝交代は、「華夷変態」と呼ばれる。中華の綏が夷狄である斉に(すがた)を変えた、という意味である。

 華夷秩序による朝貢冊封体制をあくまでも交易のための一手段に過ぎないと考えていた秋津皇国と違い、中華思想によって成り立つ国際秩序を外交関係の基礎に置いていた陽鮮王国によって「華夷変態」は王朝の根幹を揺るがしかねないものであった。

 それまでの陽鮮王国の外交関係は、綏朝を宗主国として自国を藩属とする宗藩関係であった。そして、そうであるが故に陽鮮にとって、「華夷」の別にはことさら敏感であった。

 そのため、中華である綏朝に対しては陽鮮は東夷であるものの、中華を慕って中華たらんと努める自らを東方礼儀の国、東華、小華と称していた。彼らの観点から見れば、秋津人や北方騎馬民族などの周辺異民族はすべて夷狄、野蛮な存在でしかなかったのである。

 しかし、いかに陽鮮王国が隣接国を夷狄と断じていても、その隣接国も綏朝にとっての藩属である以上、陽鮮王国自らが隣接国と宗藩関係を結ぶわけにはいかなかった。そのため、陽鮮王国と周辺民族との関係は「交隣関係」と呼ばれ、その関係は表向き対等なものであったが、陽鮮王国の内心はあくまでも周辺諸民族を夷狄、野蛮と蔑視する姿勢に変わりはなかったのである。

 そうした外交姿勢であったため、新たに成立した斉王朝は何度も陽鮮王国に対して討伐の軍を差し向け、それによってようやく陽鮮王国を服属させたのであった。

 このような過程を経て結ばれた斉朝と陽鮮の事大関係は、それまで綏朝と陽鮮の間にあった宗藩関係の形式をとっていたものの、「宗属関係」と呼ばれて歴史学上は区別されている。

 北方騎馬民族の南下によって始まった動乱の時代は、陽鮮が斉王朝に従属するまで四〇年あまりに渡って続いたのである。

 なおこの間、大陸北部に進出した秋津皇国と斉朝との間にも軍事衝突が発生したが、両国は大陸北部に流れる大河・玄龍江や山脈など自然の地形を互いの境界線とする条約を結び、停戦していた。未だ建国途上であった斉にとって、秋津皇国は南方の海と北方の凍土に勢力を伸しつつあった侮りがたい勢力であったのである。

 これによって大斉帝国、陽鮮王国、秋津皇国の間には宗属関係、交隣関係による一定の安定した時代が訪れ、以後、東アジア情勢に限って見れば、国家間の戦乱は収まったといえた。

 しかし、そうした宗属関係、交隣関係が円滑に継続していくためには三国の政治的安定を常に必要としており、皇暦八〇〇年代に入ると斉朝、陽鮮王国国内の混乱や西洋列強の東洋進出などによって徐々に東アジア国際秩序は揺らぎ始めるのである。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 陽鮮王国の王都は、半島中央部の帯城に置かれている。

 王宮である景徳宮は、まさしく半島の政治的中心といえよう。

 そんな王宮にある国王の執務室から、むすっとした顔の少女が出てきた。まとっている唐衣(タンイ)は公主(中華圏での皇女、王女の呼び名)であることを示す緑に染められ、王族のみが許される()で刺繍がなされている(ちなみに、同じ女性でも王宮に勤める女官たちは無地の服を着、刺繍で装飾することは許されていない)。

 十代前半といった背格好の公主は、不機嫌な表情のまま王宮の回廊を歩いていく。


「……ふん、貞英。お前、また父上のところに秋津国への留学願いを言いにいったのか?」


 と、公主は回廊で一人の青年と出くわした。彼は、呆れと蔑みの混じった視線で公主を見下ろしてくる。


「兄上……」


 それに怯むことなく、険しい視線で貞英と呼ばれた公主は青年を見上げた。

 彼女の前に現れたのは、現陽鮮国王・仁宗の長男であり王世子(「世子」とは、皇帝に服従する諸侯の跡継ぎのこと。「王世子」は事実上の王太子)でもある()(ウム)であった。


「あのような蛮族の国に学ぶことなどあるものか。あまつさえ、夷狄の分際で“皇国”などと自称する礼儀を弁えぬ者どもの国だぞ」


 華夷秩序の世界観においては、“皇”の字を用いることが出来るのは中華帝国の皇帝ただ一人であり、東方蛮族が自らを皇国と称し、その王を皇主などと僭称することは、陽鮮王国の伝統的価値観からして許しがたいことであった。


「兄上こそ判っておらぬ」


 十代前半の少女にしてはいささか堅苦しくも感じる格式張った口調で、貞英は反論する。


「今のこの王国に必要なのは、新しき時代に対応出来る制度と技術じゃ。それを持っておるのは、秋津国のみなのじゃぞ」


「父上もお前も、何故あのような夷狄の国に感化されるのか。本来であれば、倭人どもは我ら陽鮮の者たちが教化してやらねばならん存在なのだぞ」


 華夷変態によって本来の中華帝国が消滅してしまった以上、自分たちこそが正当な中華を受け継ぐ者だとの意識が、陽鮮王国の者たちの中には存在している。

 この兄も、王世子でありながらそうした人間の一人なのだ。貞英は諦観とともにそう思わざるを得なかった。


「父上は判っておられるのだ。このままでは、この国は遅かれ早かれ、西洋の夷狄どもに敗れた斉の二の舞になると」


「何を馬鹿なことを言っている」叱り付けるように、李欽は言う。「我が王国は、太上王陛下の下で二度、夷狄を打ち払ったではないか」


 実は陽鮮王国はこれまでに二度、西洋列強による艦隊の襲撃を受けていた。

 斉がアルビオン連合王国に敗れたアヘン戦争の後、西洋の十字教を脅威と見なした先代国王・康祖は大規模な宗教弾圧を実施、西洋人宣教師も含めた約一万人を処刑した。

 この報復措置として、まずフランク共和国の艦隊が来襲したが、沿岸砲台がこれを撃退。

 さらに通商を求めてやって来たヴィンランド合衆国の武装商船を撃沈、乗員全員を殺害すると、今度は合衆国艦隊が来寇したが、これも撃退している。

 「洋擾」と呼ばれるこれら二つの戦闘は、陽鮮の人々にとって攘夷への自信を深めるに十分なものであった。だが、逆にいえばこの成功体験が陽鮮王国から改革の可能性を摘んでしまったともいえる。

 康祖の時代はこのように攘夷路線のまま進んでいった。

 それが変わり始めたのが、康祖が最愛の王后を亡くしてその菩提を弔うためとして息子の李伷に譲位し、李伷が仁宗として即位してからであった。

 新たな国王は父親と同じく西洋列強を警戒しつつも、この国が外交関係も含めた根本的な改革を必要としていることを自覚していたのだ。

 そのため貞英の父でもある仁宗は即位以来、近代化のための改革に着手していたのである。しかしそれは旧守派勢力の反発を呼び、退位して太上王となった康祖を復位させる動きなどもあって、陽鮮王国は政治的混乱に陥ることになってしまったのである。


「そのような勝利など、西洋人や秋津人どもが今まで以上に技術を発展させれば容易く覆されるであろう。一度や二度の勝利に満足して、ただ漫然と過ごしているわけにはいかんのじゃ」


「だが、父上はお前の留学を許可しなかったのだろう?」


「……」


 李欽の痛い指摘に、貞英は悔しそうに黙り込んでしまった。


「ふん、お前は少し出しゃばりすぎだ。女が政に口出しをすれば、王朝の混乱は必至。父上もそれが判っているからこそ、お前の留学を許さんのだろうよ」


 吐き捨てるようにそう言って、王世子の兄は貞英の横を通り過ぎようとする。


「精々、降嫁先で可愛がってもらえるよう、歌や踊りに勤しむことだな」


 去り際にそのような言葉を残して、李欽は去っていった。


「……」


 貞英は唇を噛みしめて、兄の消えた方を睨み付ける。


「……華夷秩序など、最早幻想に過ぎぬ」ぽつりと、公主たる少女は呟く。「そんなものに縋って王国を維持出来るとは、妾は思わぬ」


 王世子である兄は祖父の影響を受けた攘夷と華夷秩序の信奉者。より西洋列強の進出が強まるであろう、将来の国際情勢に対応出来るだけの柔軟な思考が出来るとは思えない。

 父の行おうとしている改革は、このままでは何れ頓挫するだろう。父王たる仁宗は旧守派の反発を抑えるため、まず産業・通商面の近代化を優先的に行おうとしており、真の意味で王国の近代化に必要な制度面に関しては一向に導入が進んでいない。

 だから今も王国では古代的な科挙が続き、政治・軍事の実務は両班(ヤンバン)が担っている。

 産業と制度の不均衡が続けば、その矛盾によっていずれ王国そのものが破綻しかねない。

 未だ何の思想にも染まっていない弟の第二王子・()()は五歳とまだ幼く、秋津皇国に留学することは出来ない。

 だからこそ、自分が秋津皇国へと留学して王国の役に立ちたいと思っているのに、父はそれを許してくれない。隣国の島国には、女子のための学校まで設けられているらしいというのに。

 父は開化派の筆頭であるが、どこかでまだ旧来的な思想が抜けきっていないのだろう。

 いや、兄の言う通り、自分が女人としておかしな考えを持っているのか。

 判らない。

 今の王国で自分が出来ることが何なのか、判らない。

 この王国がどのような道を進めばいいのか、判らない。

 陽鮮公主・李貞英は、暗澹たる気持ちを抱きながら王宮の回廊の先へと消えていった。

 今話より、拙作「秋津皇国興亡記」第四章を開始いたします。

 また宜しくお願いいたします。


 今章は史実の十九世紀後半の東アジア国際政治史を参考にして描いていくつもりです。

 必然的に大清帝国や朝鮮王国をモデルとする国家を登場させることになりますが、決して特定の国家や人々を不当に貶める目的ではないことを、予めお断りしておきます。

 そもそも、周辺を強大な勢力に囲まれ、さらには役人の不正や外戚が専横を振るうなどの内憂外患の相次ぐ十九世紀の半島情勢を物語的に見れば、ここから名君や名将が登場して一発逆転、強国への道を歩んでいくという美味しい題材でもあります。小説を書く者として、そういう題材に惹かれもします。

 もっとも、史実では我らが大日本帝国がそうした可能性を摘んでしまったわけではありますが。


 そして、一方の明治維新も、昭和二十年の敗戦に繋がる結果をもたらした改革だとして、批判的な意見も耳にします。筆者としては“十五年戦争論”と同じく、あまりにも、当時、無数に存在していた選択肢、可能性を無視した歴史観だと思っていますが、可能性は無数であっても結果は一つで、その一つの結果の積み重ねが歴史を構成しているわけです。

 そうした意味では、歴史の可能性を探るというのは、中々に難しい作業です。


 本章は、十九世紀東アジア情勢を題材に物語を進めていきます。

 もちろん、ただ史実をなぞる展開では異世界ファンタジー戦記を目指す筆者の目標に沿いませんので、ある程度、筆者の想像・妄想も交え、史実の事件よりも規模を大きくしたりする物語展開を目指します。

 しかし、それでも十九世紀後半の日朝関係、日清関係における日本外交を帝国主義的・侵略主義的なものと捉える方がいらっしゃいましたらば、恐らくは本章は非常に不快な印象を与えることになるかと思います。その点は、予めお断りしておきます。


 そうした懸念すべき点も含めて、ご意見・ご感想いただければ幸いに存じます。

 またどうぞ、宜しくお願いいたします。


第四章を執筆するにあたって新たに参考にした文献

  近世・近代朝鮮史に関する参考資料

上野隆生「幕末・維新期の朝鮮政策と対馬藩」(『年報 近代日本研究7 日本外交の危機認識』山川出版社、一九八五年)

海野福寿『韓国併合』(岩波書店、一九九五年)

姜在彦『朝鮮近代史』(平凡社、一九八六年)

崔文衡(齊藤勇夫訳)『韓国をめぐる列強の角逐』(彩流社、二〇〇八年)

酒井裕美『開港期朝鮮の戦略外交』(大阪大学出版会、二〇一六年)

田代和生『倭館』(文藝春秋、二〇〇二年)

田保橋潔『近代日鮮関係の研究』上下(朝鮮総督府中枢院、一九四〇年)

趙景達『近代朝鮮と日本』(岩波書店、二〇一二年)

月脚達彦『朝鮮開化思想とナショナリズム』(東京大学出版会、二〇〇九年)

水野俊平『庶民たちの朝鮮王朝』(角川学芸出版、二〇一三年)

森万佑子「朝鮮政府の明治初期外交への姿勢転化」(『東アジア近代史』第二三号、二〇一九年)

李穂枝『朝鮮の対日外交戦略』(法政大学出版局、二〇一六年)


  十九世紀後半東アジア国際政治史に関する参考資料

上田信『中国の歴史9 海と帝国』(講談社、二〇二一年)

大澤博明「日本の東アジア秩序構想と清・朝宗属関係」(『東アジア近代史』第二〇号、二〇一六年)

岡本隆司『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会、二〇〇九年)

岡本隆司『中国の誕生 東アジアの近代外交と国家形成』(名古屋大学出版会、二〇一七年)

岡本隆司『シリーズ中国の歴史⑤ 「中国」の形成』(岩波書店、二〇二〇年)

岡本隆司・川島真編『中国近代外交の胎動』(東京大学出版会、二〇〇九年)

菊池秀明『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国』(講談社、二〇二一年)

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『秋津皇国興亡記』第1巻
― 新着の感想 ―
[一言] これが過去朝鮮のリアル... 両班達の態度だったんだろなぁ...
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