54 英雄願望
一方その頃、貴通は不安そうに、そして少しそわそわとして、結城家屋敷の執務室の応接椅子に座っていた。
彼女にとって、自分という存在はいつも不安定なものであった。
愛妾の子であり、女でありながら男と偽り、そして庇護してくれる者もいない。
兵学寮の入学試験で首席を取れば、まだ何か道が開けるのではないかと、幼い頃の自分は淡い幻想を抱いていた。だから、必死に入学試験を頑張った。
しかし、それは叶わなかった。
結城景紀とかいう、六家の少年が自分よりも良い成績で入学してしまったからだ。
兵学寮の寮では首席と次席であるために、その少年と同室になってしまった。
最初から、貴通は景紀が妬ましかった。
正室の子で、男子で、六家の次期当主。そして兵学寮首席。
このまま努力を怠らなければ、彼の将来は約束されている。
それに対して、自分はどうだろうか?
例え卒業時に彼から首席の座を奪えたとしても、それで自分に未来はあるのか?
ならば、努力することにどれだけの意味があるというのか?
それでも、幼心に家から放逐されて野垂れ死ぬか、ひっそりと殺されることだけは嫌だと思っていた。
だから、この妬ましい同室の少年とは仲良くしておこうと思ったのだ。六家の嫡男と懇意になっておけば、父から軽々しく捨てられることはないだろうと、子供ながらに保身に走ったのだ。
表面上は親しげにしながら、内心では景紀に対する鬱屈とした思いを抱いていた。
だが、しばらくして、それは景紀も同じだと気付いた。
幼い頃から家の人間たちの顔色を伺いながら生きてきた貴通は、景紀が自分の振る舞いに合わせているだけだと気付いたのだ。
彼は一切、こちらに心を開いていなかった。こちらの演技に、騙されてくれなかったのだ。結城家嫡男として蝶よ花よと育てられた、単に頭が良いだけの少年ではなかったのである。
だけれども、貴通は自分からこの演技を打ち切ることはしなかった。
この少年と仲違いすれば、兵学寮在学中、保身をする術がなくなってしまう。だから互いが表面的な友達付き合いをしているだけだと判っていても、貴通はそれを止めるわけにはいかなかったのだ。
そして、最初にその演技に耐えられなくなったのは、景紀の方だった。
あれは、寮の部屋で一緒に過ごすようになってから十日ほど過ぎた頃だったろうか。
『お前、いい加減、その胡散臭い笑顔止めたらどうだ?』
苛立った声で、景紀はそう告げてきたのだ。
一日の課業が終わり、寮の自室に帰った後のことだった。就寝時間前、勉強机の椅子の背もたれに片腕を乗せて振り返りながら、景紀は二段になった寝台の上にいた自分を見ていた。
『お前、本当は俺のこと嫌いだろ?』
『君だって、僕のことを信用出来ない同期生だと思っているのでしょう?』
貴通の方も妬み嫉みを抱いている人間に親しげに接するのは、限界だった。女であることを隠しつつ、嫉妬の感情も隠さなければならないとなれば、十歳の少女の心が耐えきれなくなるのは時間の問題だったのだろう。
『俺が殴りつけても、そのヘラヘラした笑顔で友達ごっこを続けそうな人間を、信用しろっての?』
『僕だって、好きで友達ごっこを続けているわけじゃないですよ』景紀に対する自分の声は、ひどく刺々しかった。『良いですよね、結城家の次期ご当主様は。何の悩みもなく、兵学寮の五年間を過ごせて。そして将来はお父上の後を継いで公爵様ですか。ああ、本当に妬ましいですよ』
『それがお前の本音、ってわけか?』
『ええ、そうですよ』どこか自棄っぱちに、自分は言った。『僕は君が羨ましい、妬ましい。結城家の嫡男であることが、正室の子であることが、兵学寮首席であることが、全部全部全部! 妬ましくて妬ましくて堪らないんですよ!』
『はっ、ついに本性現わしやがったな』鼻で嗤って、景紀はそう言ったのだ。『最初から、そう言ってりゃあ良かったんだよ。善良で礼儀正しい優等生ぶってないでな』
『あなたに、僕の何が判るっていうんですか!?』
『知るかよ。今までずっと自分を偽ってきた奴の本心なんてな。だがまあ、今の話を聞く限りじゃあ、さしずめ愛妾の子ってことで冷遇されてきたってところ……』
みなまで言わせる前に、貴通は寝台の二段目から飛び降りて景紀に殴りかかっていた。
『黙れよ、僕のことなんて何も知らない癖して……!』
景紀は避けなかった。そのまま殴られて、椅子ごとひっくり返る。貴通はそんな同期生に馬乗りになって、何度も何度も殴りつけた。景紀はまったく抵抗しなかった。しかし、十歳の少女の腕力は中途半端で、景紀の鼻が潰れることも歯が折れることもなかった。
だぶん、先に精神的にも体力的にも耐えられなくなったのは、貴通の方だった。
『……何で、殴り返さないんですか? 僕を、馬鹿にしているんですか?』
貴通に馬乗りになられたまま、景紀は小さく溜息をついた。
『……んな、泣きそうな餓鬼みたいな顔した奴、殴り返せるわけないだろ』
怒りも敵意もなく、景紀は貴通に静かにそう告げてきた。貴通はその時まで、自分がどんな表情でこの同期生を殴りつけているのか、自覚していなかった。
『ほら、息切れ起こしたなら、とっととどけ』
そう言って景紀は貴通をぐいと押しのけて、片膝を立てた姿勢で床に座り込んだ。
『正直、お前の馬鹿丁寧な態度にはいい加減、うんざりしていたんだよ。兵学寮に入りゃあ、俺に取り入ろうとしてくる奴が出てくるだろうとは思っていたが、まさか試験で次席をとった奴がそんなことをしてくるなんて思っちゃいなかった』
『僕だって、好きで君に取り入ろうとしているわけじゃないですよ』
涙混じりの拗ねた声で、貴通は反論した。
『“取り入ろう”って発想からして卑屈なんだよ』景紀の方は、呆れと苛立ちが混じった声だった。『試験で次席とったなら、実力で俺に張り合えよ。正直、今のお前を見ていると、俺が首席を取ったことが馬鹿らしくなる』
『所詮、僕なんて愛妾の子ですから……。誰かに取り入ることでしか、自分の居場所を見つけられない卑しい人間なんですよ……』
『あのなあ、俺は自分の出自に負い目を感じているような奴が嫌いなんだよ。んなもの、実力で周りを黙らせればいいだろうが』
あとになって判ったことなのだが、この時、景紀は自分と彼のシキガミである少女を重ねていたらしい。
白髪赤眼に生まれた、妖狐の血の混じった少女。
自分の卑屈に生きる態度が、かつてのシキガミの少女の姿に重なって、景紀は苛立ちを覚えていたのだろう。
『俺に取り入りたいなら、そんな小手先の演技じゃなくて、実力でどうにかするんだな』
その時言われた言葉は、今でも貴通の胸に残っている。
この同期生に認められる存在になる。それはもしかしたら、父に唯々諾々と従い、ただ保身に走っていた自分が、純粋に目指したいと思った、最初の目標であったかもしれない。
今はもう少し、違った目標を持っているのだが……。
◇◇◇
落ち着かない気分で景紀の帰りを待っていた貴通は、部屋の扉の把手が回される音に思わずびくりとしてしまった。
「戻ったぞ」
入ってきたのは、景紀であった。その背後に冬花の姿が見えたが、部屋に入ってくることはなかった。恐らく、貴通に気を利かせてくれたのだろう。
男装の少女は応接椅子から立ち上がった。
「どうでしたか?」
おずおずと、貴通は問うた。
「いや、問題なさそうだ。お前の父親は、結城家と対立してでもお前の身柄を取り戻そうとするほどの気概はないみたいだ」
「そう、ですか……」
歯切れ悪く、貴通は頷く。両手を腹の辺りで組んで、ぎゅっと握りしめた。
「これで、僕も結城家の一員、景くんの幕下ってことですね」
「ああ、そうだな」
それが自分の望んだことであるというのに、いざとなると心に空虚なものが生まれてくる。思わず、貴通は俯いてしまった。
「……何なんでしょうね。ようやく、僕の望みが叶ったっていうのに、ちょっとだけ寂しい感じがします。結局、あの人にとって僕は簡単に捨てられる存在だったんだなぁ、って」
「……」
景紀は何も言わなかった。通敏は、この少女を簡単に捨てたわけではない。むしろ、家を繁栄させるための道具として、ある程度の執着を見せていた。しかし、それを貴通に告げたところで、大した意味はない。
彼女の父親が、結局、彼女自身を見ていなかったことには違いがないのだから。
「そんなこと、とっくの昔に判っていたことだったのに……」
俯いたまま、貴通はこん、ともたれ掛かるように自分の額を景紀の胸に押し付けた。
「父からは捨てられて、本当の母の顔も知らない……。何なんでしょうね、僕って……」
「……」
景紀は少し躊躇ってから、そっと自らに額を押し付けている少女の背に腕を回した。
「……こんなこと、宵姫様や冬花さんに悪いですよ」
弱り切った声で、貴通は抗議の声を上げた。
「僕は、女の子なんですから……」
そうは言っても、貴通は抵抗しなかった。むしろ、強ばっていた体を弛緩させて景紀の腕に身を任せている。
「俺じゃあ足りないとでも言うのか?」どこか強引な口調で、景紀が言った。「俺はお前を認めている。友人としても、軍人としても。お前は、俺にとって初めて対等な関係だと思えた友達なんだぞ」
「……」
「なあ、満」
「……ずるいですよ、その名で呼ぶのは」
母の顔を知らない貴通だが、一つだけ、自分自身について知っていることがある。「満子」という、本当の名だ。
父親から知らされたわけではない。
景紀に女であることが露見してしまったあと、女としての体の成長に伴って精神的に不安定になってしまった自分を見かねて、彼が調べ上げてきてくれたのだ。
通敏の娘は死んだことになっているが、それでも戸籍に名は残っている。
それを景紀は六家としての権力や伝手を使って調べてきてくれたのだ。
本当に、こんな自分には勿体ないくらいの人だ。
「……ねぇ、景くん」
ぽつりと、景紀の腕に収まったまま貴通は言う。
「何だ?」
「きっと、僕は何者にもなれないんです。貴通にも、満子にもなりきれない。それでも、僕は“穂積貴通”として君の幕下に加わりたいと思っているんです。何故だか、判りますか?」
それは答えを求めるというよりも、ただ相手を焦らすような問いかけだった。
「あなたは、僕と違って何者にもなれるからです。僕と違って、歴史の主人公になることが出来る。だから僕は、あなたという存在を側で支えていたい。あなたが歴史の主人公になれれば、僕が存在していることにも意味が生まれると思えるから」
「随分と勝手な願望だな」
「失望しましたか?」
どこかからかうように、貴通は問う。
「いや、そうでもないさ」ふっと小さく景紀は笑った。「お前は、俺の友達だからな」
お互い、兵学寮の五年間で相手のことは判っている。それぞれの心にある歪さを、理解していた。
「ふふっ、“友達”だったら、こんなことはしちゃ駄目ですよ。僕、勘違いしそうになっちゃいますから」
スッと、顔を赤らめながらどこか名残惜しそうに、貴通は景紀の腕から抜け出した。最後まで、彼女は景紀の背に腕を回すことはなかった。
「僕は、軍記物に出てくる自らの運命を自らの力で切り拓く英雄というものに憧れています。それは、僕が決してなれないものですから」
少し寂しげな笑みを、貴通は唇の端に浮かべた。
「でも、英雄に付き従う軍師になることは出来ます」
「それが、お前のいう“何者かになる”ってことだろ?」
「いいえ、違いますよ」ふるふると、貴通は首を振った。「軍師とは、仕える将がいてこそ存在価値が得られるもの。軍師一人では、存在価値なんてないんですよ。でも、それが今の僕の目標なんです」
兵学寮でこの少年と喧嘩をしてしまったあの日から、自分はどれくらい成長出来たのだろうか。そう、貴通は自問する。
六家の次期当主に取り入って保身を果たすというのが、最初の目的だった。
あるいは、今、自分が抱いている目標も、それと大差がないのかもしれない。でも、そこには明確な自分の意志が存在している。
だから少女は、自分の意志で選んだ目標を少年に告げた。
「僕は、あなたの軍師になりたいんです。だから景くん、あなたが、僕の存在価値を決めて下さいね」
そうして貴通は、はにかむような少女の笑みを浮かべるのだった。
貴通の本名「満子」は、秋月型駆逐艦の未完成艦「満月」より。
冬花(冬月、花月)、宵(宵月)、満子(満月)と、景紀の側にいるヒロイン陣は秋月型由来の名前で統一しています。
ただ、冬月と対をなす涼月(天一号作戦で大和を守ろうと奮戦した秋月型の片割れ)は、次世代のためにとっておくつもりです。




