332 伊丹家の混沌
結城家と一色家が互いに攻防を繰り広げていた那古野の地と違い、西国の地では実際の戦闘は行われないままに時が過ぎていた。
しかし、その状況は戦力が拮抗しているが故に発生した膠着状態ではなかった。
この状況は、追討軍である有馬・斯波両家の両軍が伊丹家領の国境を封鎖するという作戦をとり、かつ伊丹家の側に封鎖を突破して中部地方の一色家との連絡線を確保するだけの兵力がなかったために発生したものであるといえた。
伊丹時信・村信一派が引き起こした御家騒動は、那古野城が包囲され一色家が危機的状況に陥っている十二月に至っても収束する気配を見せていなかったのである。
「伯父上、なぜ領内の者どもは御家存亡の危機に毅然として立ち向かおうとしないのですか!?」
伊丹家本領・武庫国の首府・媛丘にある居城で、村信は憤りと焦燥を露わにしていた。
「すでに斯波の軍は石阪の街を占拠し、有馬の領軍も国境にまで迫っております。かくの如き状況にあるにもかかわらず、領内の商人どもは我らへの資金や糧食、その他物資の供出をあれこれ理由を付けて遅延させ、動員をかけた後備役・予備役の領民どもの集合も遅れている。周辺の諸侯たちも我らの元に馳せ参じる気配がない。このままでは、有馬や斯波の軍を撃退するどころではありませんぞ!」
「判っておる!」
甥の言葉に、時信は苛立たしげに応じる。
「兄上は真にこの国の将来を憂え、皇主陛下への忠義を忘れたことのない方だった。それが逆賊の汚名を着せられ、伊丹家そのものが追討令を受けるなど、あってはならんことだ! 今、私の側近たちが領内を回り、各地の家臣や領民、商人どもに奮起を促しておる。領軍には私の愚息どもも加わっておる。今しばらく、辛抱するのだ」
時信は、甥の村信よりもむしろ自分に言い聞かせるようにそう言った。
西部鎮台司令官の地位にありながら石阪の街を明け渡さざるを得なかったことへの無念が、そこには滲んでいる。
次期当主と見なされていた正信嫡男・寛信を追放した後、伊丹家の実権を速やかに掌握出来ていれば、時信は石阪の地で西部鎮台司令官として斯波家領軍を迎え撃つための指揮をとることが出来ていただろう。しかし、時信・村信が共謀しての実権掌握は未だ果たされておらず、結果として時信は媛丘の地を離れることが出来なくなってしまっていた。
この間に司令官不在となった西部鎮台では、石阪やその周辺地域から徴兵された者たちで編成されている歩兵第八連隊が伊丹家から離反する動きを見せ、時信は石阪の地で斯波家領軍を迎え撃つという作戦そのものを諦めざるを得なかった。
辛うじて伊丹家領出身者で編成されている部隊は伊丹家領へと撤収させることに成功し、斯波家領軍によって抑留され、武装解除させられるという事態は免れている。石阪から撤収する際、鎮台の兵器庫や弾薬庫から武器弾薬を伊丹家領内に運び込むことが出来たのも大きい。
しかし、戦術的に見れば兵士や装備を大きく損なうことなく領内への撤収に成功させたといえるが、戦略的に見れば商都・石阪を伊丹家がむざむざと手放したという失態に過ぎない。
そして、その失態は政治的に見ても伊丹家、何よりも時信・村信一派の権威を失墜させるだけの結果となっていた。
かつては西国一帯を統べ、周辺諸侯に威令を及ぼしていた伊丹家も、追討令や御家騒動、時信・村信一派の失態が重なったことで家臣団や領民、周辺諸侯への統制力・求心力を失いつつあったのだ。
しかし、時信も村信もそれを認めることは出来なかった。
伊丹正信と同じ攘夷思想に共鳴する彼らにとって、自らの滅亡は国家の衰亡と同義だと考えていたからである。
結城家や有馬家、斯波家といった者たちに、西洋列強の脅威に対抗するだけの気概があるとは到底思えなかった。
結城家の景紀はようやく二十歳になろうかという若年当主(しかも主君押込によって当主の座に就いている)であり、有馬貞朋は父・頼朋の操り人形でしかない傀儡当主、斯波家当主の兼経に至っては芸術にうつつを抜かしているだけの無能。
攘夷の気概を持つ伊丹家と一色家が国政を主導してこそ、皇国は西洋列強の脅威を退けられるのだ。
「私は、兄上の下で西部鎮台司令官を長く務めてきた。傀儡当主の有馬貞朋や芸術狂いの斯波兼経のような者が率いる軍に、我が伊丹家領軍が敗れる道理はない。連中も、それが判っておるから国境を越えることを躊躇しておるのだろう」
時信は、自身と村信を勇気付けるようにそう言った。
実際問題、国境を挟んだ睨み合いの状況が長く続けば、追討軍側の士気も下がってくるだろう。特に、これからは冬がどんどん厳しくなってくる季節だ。
また、内戦の長期化も、皇国は西洋列強に付け入る隙を与えかねない事態となる。流石にその程度のことは、結城・有馬・斯波の三家も判っているだろう。
だとすれば、三家の側から和議を申し出てくるかもしれない。
そこに、伊丹・一色陣営にとって状況を打開する好機が生まれる。少なくとも、連中も伊丹・一色両家を取り潰すような強硬なことは出来ないだろう。
内戦後も、伊丹・一色両家が一定の政治的発言力を維持出来るはずだ。
そして、列強の脅威が増大すれば増大するほど、攘夷を唱えていた伊丹・一色両家への待望論が民の間から沸き起こることになるだろう。
かつて民権運動の結果、衆民院が開設されたように、近年では民の動きも政治的に無視出来なくなりつつある。
もちろん、時信も六家の人間である。平民風情が政治に参画することを自らの権利だと主張することに苦々しい思いを禁じ得ないでもないが、これまで兄・正信の攘夷論が武士階級だけでなくそうした平民にも支えられてきたこともまた事実であった。
まだ、自分たちの側から和議を申し入れなければならないほど追い詰められているわけではない。
時信は、そのように考えて自らの苛立ちと焦燥を収めようとした。
「しかし、領内には依然として、父上の志を継がんとする我らの正統性を疑う者たちもおります。ここはむしろ、伯父上の側近だけでなく、私自身も領内各地を回った方がよいのでは?」
一方の村信は、収まらぬ焦燥からそう伯父に提案した。自らも何かしらの行動をしなければ、焦燥から来る不安を鎮められそうになかったのだ。
「本来であれば、兄上の子であるお前に領内の説得に当たってもらうのが一番良いのだろうが、現状ではそうも言っていられぬ」
だが時信は、甥の提案を退けた。
「家中の混乱が収まっていない現状、お前がこの媛丘城を出れば私との関係が悪化したと喧伝し出す不届き者が現れかねん。事実、忍たちの報告によれば有馬や斯波の者どもが領内に入り込み、一部の家臣や商人どもへの調略を行っている徴候があるという。もしそのような者が逆心を起こせば、お前の首を手土産に有馬や斯波の元に駆け込まないとも限らん」
結局のところ、時信・村信一派の正統性を伊丹家内でも認めない者たちがいることが、御家騒動に収拾が付けられない要因の一つであった。
寛信を追放した直後に時信・村信は家中の全権を掌握すべく、寛信の側近や穏健派家臣の粛清に乗り出したが、伊丹家領全土でそれを徹底出来たわけではない。
領国の知事となっている伊丹家分家の当主など、時信が媛丘城への登城を命じても急な病であるとして応じない者たちが複数、存在していたからだ。
これが単純な御家騒動であれば、混乱はここまで拡大しなかっただろう。寛信が追放されて時信・村信一派が伊丹家居城である媛丘城を掌握した段階で、分家や家臣団の多くは二人に従ったはずだ。
何よりも、寛信と違い時信・村信は正信の攘夷思想を引き継ごうとする者である。
むしろ平時であれば、伊丹家の後継者争いは正信の攘夷路線を継承しようとする者たちに有利に働いたことだろう。実際、嫡男・寛信は家臣団から後継者として期待を寄せられていた人物とは言い難かった。
時信・村信一派が寛信の追放に成功したのも(当初の計画では幽閉するつもりであったが)、家臣団内に未だ正信の唱えていた攘夷を支持する者たちが多かったからである。
しかし一方で、伊丹家が朝敵として追討される事態に陥ったことで、正信から疎まれていた嫡男・寛信を伊丹家の正統な次期当主として支持する者たちが出現することとなった。
正信が皇都で討たれたことで、正信路線との断絶・決別を示すのに寛信は新当主として適任であったからだ。
そうすることで皇主に対し伊丹家の伏罪恭順の姿勢を示すことが出来るというのが、一部家臣らの主張であった。
こうした者たちを中心に皇都内乱後、寛信に対して速やかに皇主への伏罪恭順の意を示すよう進言する動きが広がった。
石阪湾に海軍の第二艦隊が集結して伊丹家に対する示威行動に出たことも、こうした者たちの主張を後押ししていた。
しかし、時信・村信一派が寛信の追放に及び、伊丹家中枢の実権を掌握すると、そうした者たちは次々と粛清されていった。家臣団内の穏健派も同様に処断されるか伊丹家中枢から退けられるかして、少なくとも時信・村信の周辺は正信の攘夷論を継承しようとする者たちで固めることに成功していた。
ただし、伊丹家領全土に時信・村信一派の影響力を及ぼすには至らず、結果として領内各地で攘夷論を唱えて時信・村信一派を支持する者、日和見を決め込む者、時信・村信を伊丹家の正統な後継者として認めない者などが入り乱れることとなった。
これは家臣団だけでなく領内の豪商たちも同様で、むしろ彼らは皇都陣営との対決姿勢を示す時信・村信一派に対し家臣団以上に非協力的な態度を明確にしていた。
様々な口実を設けて、時信・村信らによる資金の提供や物資の供出といった要請を断り続けていたのである。特に、商都・石阪の蔵が斯波家によって接収されてしまったからというのが、多くの商人たちが挙げている理由であった。
手元に資金も物資もなければ確かに供出は出来ないであろうが、それがどこまで本当のことなのかは極めて疑わしい。
まず間違いなく、石阪の蔵が接収云々というのは商人たちが時信・村信一派へ資金や物資の提供を渋るための口実であろう。
ここにも、時信・村信一派の権力基盤が極めて不安定なものであったことの影響が現れていた。
「村信よ、お前はあの兄上の子なのだ。そのような焦りを、家臣団に見せるが如き醜態を晒すでない」
時信は、そう言って村信を宥める。
「石阪を手放さざるを得なかったとはいえ、有馬・斯波の軍はまだ我が領を侵しておらぬ。一色公直公の依る那古野城も、まだ健在だ」
時信は、兄が目を掛けていた六家当主である一色公直の奮戦に期待を寄せていた。
一色家領軍は東海道で結城家領軍に大敗したとの報せもあったが、それは結城・有馬・斯波三家による悪質な宣伝工作の一環であろうと考えている。
結城景紀は所詮、二十歳になろうとする若年の将に過ぎない。敗走を装った一色公直の巧みな作戦によって一色家領奥深くに誘い込まれたことを、勝利と誤認しているだけであろう。
ここで一色家領軍が東海道上で伸びきった結城家領軍の補給路を遮断し、そして城下における決戦で結城景紀の軍を打ち破れば、戦況は一挙に伊丹・一色陣営の側に有利となる。
伊丹家領内で旗幟を鮮明にしていない者たちも、遠からず時信・村信一派に従うようになるだろう。
そして、主君押込によって当主の座についた結城景紀の敗北は、彼自身の権威の低下に繋がり、結城家内の御家騒動へと発展する可能性を秘めている。結城家内には、景秀・景保父子といった反景紀勢力が存在するのだ。
まず間違いなく、結城家は三家連合から脱落せざるを得ない。
そして結城家領軍を破れば、一色家領軍は一気に反攻に転じることだろう。
東海道を上り、皇都を奪還して皇主を佞臣・奸臣の魔手からお救い申し上げる。そうすれば、伊丹・一色両家に着せられた逆賊の汚名もそそぐことが出来る。
この内戦は未だ流動的な部分が多分にあり、十分に戦況を覆すことは可能であると、時信は見込んでいた。
そう考えて、彼自身も焦燥や不安から解放されようとした直後のことであった。
突如として遠雷のような砲声が、媛丘城の本丸御殿にまで轟いてきたのである。
「……領軍の砲兵部隊が演習をするとは聞いておりませんが?」
村信が怪訝そうに首を傾げた。
そこに、一人の家臣が飛び込んでくる。
「失礼いたします! 沖合にて、海軍が砲撃演習を行っている模様です!」
「何!?」
時信は、驚愕に目を見開いた。
石阪湾に海軍の第二艦隊が遊弋していたはずであるが、その艦隊が媛丘沖に現れたということか?
「艦隊が陸戦隊を上陸させる兆しはあるか!? あるいは、有馬家や斯波家の領軍を乗せた輸送船団は確認出来るか!?」
そして時信が懸念したのは、追討軍が直接、媛丘に上陸することであった。
国境を封鎖する有馬家と斯波家の領軍の存在は伊丹家領軍の兵力を国境周辺に拘束するためであり、本命は媛丘への上陸作戦である可能性も大いに考えられたからである。
石阪湾で示威行為を行った海軍であるが、六家相克の内戦にそこまで直接的に関与することについてこれまで時信は懐疑的であった。海軍は依然として内戦に対し一定の中立を保ってくれるものと考えていたからである。
結城・有馬・斯波三家の領軍に加え、海軍の兵力も加われば戦況は伊丹家にとって極めて危機的な状況になりかねない。
当然ながら、伊丹家に皇国海軍に対抗出来るような軍船など存在しない。御用商人が海賊対策に武装商船を保有してはいるが、その程度である。
「現在、舟艇を降ろしている様子もなく、輸送船団の存在は確認出来ておりません。今すぐに上陸を敢行することはないかと思われます」
家臣はそう報告したものの、声には切迫した感情が滲んでいた。
今は上陸の徴候が見られずとも、今後、輸送船団が媛丘沖に続々と到着するかもしれないのだ。
「即座に、港や城下の防備を固めよ! 必要とあれば、城下の住民も徴用して構わん!」
時信は、素早く命令を下した。
「それと、城下の民どもがこの砲声を聞いて動揺するかもしれん! 警察や憲兵を使い、流言飛語は徹底的に取り締れ! 悪質な者は、即座に引っ捕らえて磔とせよ!」
時信が恐れたのは、城下町の住民たちが恐慌状態に陥ることであった。依然として家中の混乱を収められずにいる時信・村信一派にとって、伊丹家居城・媛丘城の城下町で騒擾事件が発生することは自らの権威をさらに低下させかねなかったのである。
「村信」
「はい、伯父上」
時信は甥の名を呼んだ。
「お前は領軍と共に城下に向かい、防衛の指揮を執れ。前当主・伊丹正信の子が陣頭に立つとなれば、兵も民も奮い立とう」
「承知いたしました」
村信は緊迫した面持ちで頷くと、報告に来た家臣と共に駆け出した。
「……伊丹家本領への直接侵攻で一挙に決着を付けるつもりか? だが、媛丘が落ちたところで我らは屈さぬぞ」
伊丹家領は、この媛丘のある武庫国だけではない。媛丘を放棄し、領内各地を転戦しつつ追討軍の消耗を狙う。
そうした作戦も、時信は視野に入れざるを得ないと覚悟を決めていた。
この日、媛丘沖に出現した艦隊は、砲声を轟かせるだけ轟かせると、そのまま西方へと去っていった。
これまで石阪湾にあった第二艦隊が、補給と乗員の休養のため泊地へと帰投する途上で、媛丘沖でついでとばかりに示威行為を行っただけというのが、事の真相であった。
しかし、伊丹家に与えた影響は絶大であった。
媛丘の城下町では、追討軍が上陸した、追放された寛信が帰還したなどの流言飛語が飛び交い、戦禍を恐れた住民の一部が大八車に家財を乗せて城下から脱出しようとするなど、混乱が広がったのである。
これは、時信・村信一派にとってさらなる政治的打撃となった。
これにより時信・村信一派による伊丹家の全権掌握への道はさらに遠ざかり、伊丹家は依然として混乱状態に陥ったまま追討軍と対峙し続けることを余儀なくされたのである。




