331 シキガミ主従の反撃
「ええ、それじゃあ行くわよ」
主君の言葉に、冬花は溌剌として応じた。すでに息は落ち着いている。
シキガミの少女は軋む結界の中で、両手で不動明王を表わす根本印を結んだ。そして、息を吸うと流れるように呪文を唱える。
「ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタ・タラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバ・ビキンナン・ウンタラタ・カンマン!」
唱えたのは、不動明王の火界咒。
不動明王の真言の中でも最も強力な、魔軍を焼き尽くすとされる呪文である。
ぶわりと猛烈な勢いで炎が出現し、毘沙門天の随軍護法の真言による霊圧を押し戻していく。
息を整えないまま不完全に詠唱された呪文は、いくら強力であっても術式に綻びが生じる。冬花の火界咒は、随軍護法の霊圧を呑み込むように火焔を広げていく。
そしてついには、毘沙門天の随軍護法そのものを焼き尽くすかのごとく、その霊的圧力を完全に消滅させてしまった。
「景紀!」
「おう!」
その瞬間、冬花の声と共に景紀は地を蹴っていた。刀身に彼女の狐火をまとう“雪椿”を、八束いさな目がけて振う。
青白い炎が、ぶわりと刃の軌跡の形に放たれる。
「ちっ!」
童女の姿をした女術者は、舌打ち一つして跳躍。刃となって飛来した狐火を空中で身をよじって躱す。
それを、冬花が追った。
全身に霊力を巡らせた彼女は、鋭く尻尾を振って景紀の頭上を飛び越える。
そして空中で体を回転させると、八束いさなの脳天を目がけて踵落としを喰らわせた。
シキガミの少女の足裏に伝わる衝撃。
八束いさなは、両腕を交差させてそこに結界をまとわせることで腕が折られるのを防いでいた。だが、空中では冬花の踵落としの衝撃を殺しきれない。
その小さな体躯が吹き飛んだ。
「臨兵闘者皆陣列在前!」
そこに、冬花はさらに九字をたたみ掛ける。八束いさなの体が、木の幹に叩き付けられた。
だが、直後に彼女の狐耳がぴくりと動く。瞬時の判断で鋭く伸ばした爪が、自らのうなじを刈ろうとした鍵手甲を防いだ。
「同じ手が、通じるとでも?」
自らの至近距離に現れた八束いさなに向けて、冬花は冷ややかに言い放った。
「確かに、な」
八束いさなは特に悔しがる素振りも見せず、さっと後ろへと跳んだ。
冬花が踵落としを喰らわせた瞬間までは、確かに八束いさな本人だった。だが、九字を受けたのは、その身代わりの式だったのだろう。一瞬の間に自らと瓜二つな身代わりの式と入れ替わり、隠形術で冬花の首を刈ろうとしたのだ。
「小娘、やはりお前の存在は厄介だ。お前が生きている限り、結城景紀への加護は続く。お前を、先に始末すべきだな」
そう言って、童女の姿をした術者は袖から二枚の人型の紙を放った。直後、それは元の紙の大きさを超えて実体化する。
黒い体躯に、目だけがぽっかりと白く空いた、身長二メートルはある護法童子だった。
「二対一は流石の私も骨が折れるが、二体三ならばどうだ?」
実体化した直後に、二体の護法童子は景紀へ向けて駆け出していた。
「景紀!」
「こっちはいい!」
冬花は咄嗟に主君の方へと駆け出そうとするが、その景紀は自らのシキガミを制止する。
「お前はその術者を何とかしろ! そうすればこの二体も消滅するだろ!?」
景紀は狐火をまとった“雪椿”を振い、自らに掴みかかろうとした護法童子の腕を切り落とす。そして、もう一体の護法童子が伸ばしてきた腕をするりと躱した。
だが、護法童子の切り落とされた腕は、すぐに再生する。
「やはり、まだまだ未熟だな」
「っ―――!?」
そして、冬花の意識が一瞬でも景紀の方に逸れた隙を、八束いさなは見逃さなかった。呪術で強化した脚で瞬時に距離を詰め、その鍵手甲を冬花の心臓に突き入れようとしたのである。
冬花は、鋭く伸ばした爪でそれを受け止めた。
二人の術者の視線が、至近距離で交わる。
「私もここまでの大盤振る舞いはだいぶ久しぶりでね。数十年ぶり、いや、百年ぶり以上かな?」
八束いさなの口調は、悪戯を告白するようなものだった。
互いに身体強化の術を使い、相手を押し切ろうと力を込めていく。
「つまり、小娘。流石の私も、いささか消耗が激しいということだ」
「……」
冬花は赤い瞳で、至近にある相手の瞳を無言で見据える。八束いさなの瞳に映るのは、挑発。
景紀は今、この術者の動かす護法童子二体と対決している。いかに阿尾舎法を使っているとはいえ、冬花の主君は常人でしかない。
景紀を守るためには、術者である八束いさな自身を降して護法童子を消滅させるのが一番である。
だからこの童女の姿をした術者は、冬花が決着を急ごうとするあまり短慮に出るよう仕向けるために、自分が消耗していると言って挑発しているのだ。
言霊による応酬もまた、呪術師同士の攻防の一つ。
「……安く見られたものね」
だが冬花は、安易な挑発に乗るつもりはなかった。ひゅんと片足を振り上げて、八束いさなの顎を蹴り抜こうとする。それを避けるために、一色家の術者は大きく後ろに跳んだ。
その一瞬で、冬花は袖から二枚の鳥型の紙片を放つ。彼女の霊力を受けた紙片は、羽ばたきながら景紀の方へと飛んでいく。
「私が、あなたとの決着を急ぐあまり主君を守ることを疎かにするとでも?」
自律式の鳥型の式二羽は、景紀を援護してくれるだろう。自身が駆け付けたいという思いはあるが、八束いさな本人を相手取れるのは自分しかいないのだ。
冬花は、正面から八束いさなと対峙する。
「ほう、いいのか? 自律式とはいえ、主君のために自らの霊力を割いても」
「あの程度なら、あなたの相手をするのに不自由しないわ」
「一度は私に敗れた身だというのに、全力で私に立ち向かうことを捨てるか」
「一度勝ったからって、余裕ぶらない方がいいわよ」
二人の術者は、剣呑な視線を交わし合う。
冬花は、全身に霊力を駆け巡らせながら八束いさなの出方をうかがう。相手がこちらの短慮を誘っている以上、自分から仕掛けるのは悪手だと考えたからだ。
それに、自分を挑発してくるということは、向こうも決着を急ぎたいということの裏返しだろう。台地の中腹で足止めを喰らっているだろう鉄之介がこちらに合流すれば、形勢は一気に自分たちの側に有利になる。
赤い瞳が、油断なく童女の姿をした術者を見据えていた。
「……慎重になり過ぎるのも、つまらんな」
と、八束いさなはにっと笑って一枚の呪符を取り出した。
「……」
その呪符の正体を即座に看破した冬花は、瞬時に刀印を結ぶ。あれは、除霊符だ。
「ノウマク・サンマンダー・バザラダン・センダー・マカロシャーダー・ソワタヤ・ウンタラター・カンマン!」
八束いさなが唱えたのは、不動明王の慈救咒。
除霊符とこの真言を組み合わせることによって、狐憑きなどを調伏することが出来る。妖狐の血を引く冬花にとっては、効果的な呪文の一つだろう。
だが、シキガミの少女自身もそれくらいは判っている。
「臨兵闘者皆陣列在前!」
すでに結んでいていた刀印で、瞬時に九字を切る。そして、それだけに留まらなかった。
「大!」
九字を切った勢いのまま、冬花は空中に大の字を書く。
九字に一字を加え、その効果を高める十字法であった。少女の体から、峻烈な霊力がほとばしる。
直後、八束いさなの放った除霊の術が冬花の十字によって弾かれた。
九字に「大」を加えた場合、その効果は怨敵からの守護。十字に込められた冬花の霊力が、除霊術に込められた相手の霊力を上回ったのだ。
相手の術を破った冬花は自身の周りに多数の狐火を出現させ、それを遠慮なく八束いさなへとぶつける。
「水剋火、急々如律令!」
一色家の術者は即座に呪符を抜き、それを発動した。陰陽五行思想では、水は火に剋つとされる。
相克する二つの霊力が激突し、直後に爆発した。
その煙の中を、地を蹴った冬花が突き抜ける。八束いさなとの距離を瞬時に詰め、鋭く伸ばした爪を振った。
そして、一方の八束いさなも冬花が自らの懐に飛び込んでくることを読んでいたのだろう。先ほどと同じ除霊符を瞬時に抜くと、冬花の額目がけて呪符を持った手を伸す。今度は、直接その体に除霊符を貼り付けようという肚か。
互いに、守りを捨てて相手を降すことを選んだのだ。
刹那の間に、二人の影が交差した。
一方の景紀は、八束いさなが実体化させた二体の護法童子を相手にしていた。
自身の身長を超える体躯の護法童子は、手で景紀を叩き潰そうとし、脚で景紀を蹴り飛ばそうとする。
それを景紀は狐火をまとわせた“雪椿”で受け止め、あるいは左右に跳んで躱す。ときには、護法童子の足や腕を“雪椿”で斬り飛ばした。
だが、百鬼夜行絵巻の魑魅魍魎と同じく、景紀に切り落とされた護法童子の腕や足は即座に再生してしまう。恐らく、術者と霊的に繋がっているために、術者からの霊力供給を断たない限りは永遠に再生し続けるだろう。
だから景紀は、冬花に八束いさなを降すように命じたのだ。
少なくとも、自分がこの二体の護法童子を相手にしている限り、冬花は八束いさなと一対一の対決に集中出来る。
阿尾舎法を使い、二対一の戦いに持ち込むという景紀の当初の目論見を外された格好であるが、自分が完全に足手まといになって冬花が一対三の戦いを強いられるよりはいい。
少なくとも景紀の役割は、この二体の護法童子相手に生き残ることだ。どうせ再生する相手を、無理に倒そうとする必要もない。
むしろ、再生する特徴を逆に利用して、何度も腕や足の再生を強いることで術者の霊的消耗を早めることが出来るかもしれない。
景紀はそう考えつつ、二体の護法童子との対決を続けていた。
常人のままであれば、すでに二体の護法童子によって景紀は押し潰されていただろう。しかし、阿尾舎法で冬花の霊力をまとっている今、彼は護法童子の繰り出す拳や蹴りを危なげなく躱し、そして時にはその霊刀で腕や足を切り落とすことが出来ていた。
いつも以上に、体が軽い。
冬花が援護に回してくれた二羽の鳥型の式も、護法童子の周囲を飛び回って景紀を支援してくれている。二体の護法童子が連携して景紀が狙うのを、冬花の式は巧みな牽制で防いでいた。
やがて、二体の護法童子の方もこのままでは埒が明かないと判断したのかもしれない。
突然、二体の黒い護法童子は姿を変えた。
その黒い体躯がどろりと溶けるように崩れたかと思うと、格子状に姿を変化させたのである。二体の護法童子が合体し、半球形の檻を作った。
景紀と二羽の式が、その中に閉じ込められる。
「ぐっ……!」
その瞬間、景紀の全身にずしりとした圧力がかかった。檻の中の霊的圧力を強め、身動きを封じようというのだろう。
「……ちっ、そう来るかよ」
景紀は足に力を入れて、その圧力に抵抗する。向こうの術者も、二対一の戦いを強いられるのは何としても避けたいのだろう。
「臨兵闘者皆陣列在前、大!」
直後、檻の向こう側で、冬花の裂帛の詠唱が響き渡った。
不意に、阿尾舎法をまとう景紀の体に瑞々しい霊力が流れ込んでくるのを感じた。景紀がはっとして、己のシキガミの方を見る。
シキガミの少女は凜として狐耳を伸ばし 猛々しく尻尾を立て、峻烈な霊力をほとばしらせていた。
その背には、主君のために戦うという揺るぎない決意が見て取れた。
妖狐の血を引く彼女本来の姿は、景紀の目に雄々しく映る。
「ったく、主君の俺が檻に捕らわれてるなんて無様は見せられねぇな」
シキガミの少女の勇ましい姿を見て、景紀は不敵に笑った。
そして、二体の護法童子を無理に倒す必要はないと考えていた少し前の己を恥じた。
「おい、この檻、ぶち抜くぞ。合せろ」
景紀は“雪椿”のまとう狐火をさらに燃え盛らせながら、二羽の式に言った。自分が操っているわけではないが、何となく自分の指示に従ってくれるだろうという確信があった。
これも、阿尾舎法の効果だろう。
景紀は青白い狐火をまとう“雪椿”を、正眼に構えた。そしてすぅっと息を吸った次の瞬間、地面を蹴る。
全身の力を腕から手へと集中させるように“雪椿”を前へと突き出す。
それに合せるように、刀身がまとう狐火の切っ先に二羽の式が合流。
直後、景紀の繰り出した突きが黒い格子に激突した。
刀身に狐火を灯し、全身に冬花から託された霊力をまとい、渾身の力を込めて一色家の術者の作った檻を突き破ろうとする。
二つの霊力が相克し、景紀の眼前で火花が散った。
均衡は、一瞬だった。
“雪椿”の刺突を受けた黒い格子が弾けるように霧散し、景紀は突きを繰り出した勢いのまま檻の外へと突き抜ける。
それは、冬花が八束いさなへと狐火を叩き付けるのと同時だった。
檻を脱した景紀が何かを言う間もなく、シキガミの少女が爆発の煙の中へと地を蹴る。
「―――っ」
景紀は息苦しい緊張とともに彼女の背を見送ることしか出来なかった。
そして刹那の後に視界が晴れ、二人の術者の一瞬の攻防の結果が明らかとなる。
互いに交差した二人の術者は、相手の方に振り向いた姿で未だ立っていた。
その視線は、なおもぶつかり合う。
だが、その均衡は直後に崩れた。
冬花が、よろめくように片膝をついたのだ。勇ましく立っていた尻尾が、力を失って地面に垂れる。
「……ったく、これでもまた意識を失わないか」
だが、そう呟いた一方の八束いさなも無事ではなかった。肩口のあたりから大量に出血し、右腕はだらりと垂れ下がっていた。腕を伝った血が、地面にしたたり落ちている。
彼女は無事な左手で呪符を引き抜くと、それを己の右肩に貼った。
「……っ」
冬花は刀を支えにして、膝を震わせながらも何とか立ち上がる。
今、八束いさなが貼ったのは治癒の術式を込めた呪符だった。交差する瞬間に、童女の姿をした術者はかすかに冬花の爪の軌道から体を反らしたのだ。
だからその首を刎ねることは叶わず、回復の隙を与えることになってしまった。
だが一方で、妖狐の血を引く冬花の霊力を完全に封じようとした八束いさなの目論見も外れている。
冬花もまた、交差の瞬間に己の体に狐火をまとわせることで、かなりの力技で除霊符の効果を打ち破っていたのだ。
しかし、狐火で除霊符そのものを燃やしてしまおうという強引な手法であるため、除霊符にかなりの霊力を吸われてしまった。
そして、八束いさなの首を刎ねられなかった以上、ここでいつまでも膝をついたままでいることは出来なかった。
「まだ立ち上がろうとするか」
八束いさなは、治癒の術式で己の傷を回復させながら言う。彼女自身も、荒い息をついていた。
「そのざまでは、私を殺したとしても貴様自身が耐え切れんだろうに」
呪術師は、相手を牽制するために己の体に呪詛を仕込んでいる者が多い。自らが殺された時に発動し、相手を道連れにするような、己の生命を対価とする呪詛。
高位術者であればあるほど、その呪詛は強力なものとなる。
だから、皇都内乱で伊丹・一色陣営に捕らえられた冬花は殺されることだけはなかったし、穂積貴通の身にも冬花がそうした効果を持つ呪詛を刻んだ。
それだけ、呪術師にとって相手術者を殺した際に身に受ける呪詛は警戒すべきものなのだ。
除霊符を打ち破ったものの、相応に霊力を吸われてしまった冬花が、八束いさなを殺した時に発動するだろう呪詛を身に受けて、どこまで無事でいられるかは判らない。
だけれども、冬花にとってそんなことはどうでもよかった。
「私は、仕えるべき主君を守れればそれで構わないわ」
シキガミの少女にとっては、それがすべてなのだ。
まだ立ち上がれる。霊力は消耗したが、傷は負っていない。
これなら、相手の傷が回復する前に決着を付けられる。冬花は残る霊力を全身に巡らせた。
「……小娘が、いっぱしに吠える」
そう八束いさなが言って吐き捨てた直後、台地の頂に乾いた銃声が響き渡った。彼女の背後で、呪術の檻を破った景紀が拳銃を構えていた。
その銃口から、硝煙がたなびいている。
銃弾を受けた八束いさなの体がよろめき、足がたたらを踏んだ。
「今度は、お前に俺のシキガミをやらせはしねぇよ」
「結城、景紀」
ぎろりと彼女は首を回して景紀を睨み付けた。
「……まったく、私も焼きが回ったか」
景紀の存在をいっとき失念していたことを自嘲するように、八束いさなは呟いた。その口から、血が零れる。
「だが、この程度で私を討てると思ってもらっては困る!」
八束いさなは健在な左手を景紀に向けてかざすと、それを握り込んだ。
「縮!」
途端、周囲の空間が圧縮されたような圧迫感が景紀を襲う。だが、その呪術的な圧力に、景紀は膝を屈しなかった。
狐火を宿したままの“雪椿”を、横に薙ぐ。空間が歪むような圧力が一瞬で消滅し、同時に駆け出した冬花が八束いさなに迫った。
駆ける勢いのまま、冬花は再び鋭く伸ばした爪を振う。
「ぬるいわ! 私が片腕を切り落とされても、主君を守って落ち延びさせたことを忘れたか!」
だが、八束いさなは真上へと跳躍。落下の勢いのまま左手の鍵手甲を振い、激突する冬花の爪と火花を散らし合う。
そこに景紀が“雪椿”を振うが、これも八束いさなは跳躍して回避。空中で一回転しながら、景紀たちと距離を取って着地する。
だが右腕の傷は未だ癒えぬようで、血塗れで垂れ下がったままだった。今の激しい動きで銃創も開いたのか、彼女はぺっと血を吐き捨てた。
実際、着地の際に八束いさなは少しよろけていた。
明らかに、体の回復能力や治癒の術が間に合っていない様子である。
「すまん、冬花。遅くなった」
「いいえ、大丈夫よ」
再び並び合ったシキガミの主従は、手負いの術者相手に油断なく対峙する。
ふと、冬花は己の霊力がかすかに回復していることに気付いた。景紀と、一度男女としても深く繋がり合ったことで呪術的な契約関係がさらに強化されたからか、彼が近くにいるだけで己の中に満ちていくものを感じる。
霊的にも、精神的にも。
陰陽の調和が、こうした効果をもたらしてくれているのかもしれない。
シキガミの少女は、小さく笑みを浮かべた。
「冬花、まだいけるか?」
主君からの、信頼の籠った問いかけ。
「ええ、まだ闘えるわ!」
冬花は応ずるように狐耳をぴんと伸ばし、再び尻尾を鋭く立ち上がらせた。
「ノウマク・サンマンダ・ボダナン・インドラヤ・ソワカ!」
唱えたのは、雷神としての一面も持つ、帝釈天に必勝をこいねがう真言。
シキガミの少女の体から、雷光のような激しい霊力がほとばしる。
対する八束いさなは、素早く呪符を投げて結界を展開した。稲妻のごとき霊力が結界に激突し、火花を散らす。
そこに、地を蹴った景紀が“雪椿”を振った。
「らぁっ!」
「ちぃっ……!」
刀身に狐火をまとう“雪椿”が振り抜かれて結界に激突し、結界の向こう側で八束いさなが舌打ちとともに顔をしかめる。
帝釈天の真言と霊刀の斬撃。
その霊的な圧力に耐えられず、呪術で編まれた障壁にひびが入った。
刹那、硝子の砕け散るような感覚とともに結界が破られる。景紀は、一歩踏み込んで八束いさなへと“雪椿”を伸ばす。
「―――っ!」
だがその瞬間、景紀は霊的な直感で危機を感じた。咄嗟の判断で、体をひねる。
彼の首筋をかすめるように、鍵手甲を付けた八束いさなの右手が伸びてきた。景紀はさっと後ろへと跳ぶ。
「やってくれたな、てめぇ」
自分が誘い込まれた口惜しさに、景紀は吐き捨てた。冬花の爪によって肩口から抉られて垂れ下がるだけだった右腕を、八束いさなは動かしたのだ。
「ふん、筋肉が断たれようが、私は呪術師だぞ? 己の腕を式のように呪術で操ることなど造作もない」
だが、そういやらしく嗤う八束いさなではあったが、額には脂汗が浮かんでた。肉体的に動かせなくなった腕に式を操る術式をまとわせて動かせるようにしたらしいが、それでも相当な激痛が走っているのだろう。
景紀を討つという、ただそのためだけに彼女は動いている。
その執念は、冬花と同じように将家に仕える術者だからこそか。
ここに来てさらに厄介なものを感じ、景紀も冬花も八束いさなの次の挙動を警戒するようにそれぞれ刀と印を構えたまま相手を見据える。
その瞬間のことであった。
「む?」
突如として、八束いさなを取り囲むように雷の柱が生じたのだ。激しい音を立てて、幾本もの雷光が縦に延びる。
「ったく、俺だって結城家に仕える術者なんだ。二度もてめぇに虚仮にされてたまるかよ」
台地の頂上に新たに現れたのは、鉄之介だった。
彼は八束いさなの頭上に数枚の呪符を展開させ、そこから生じる雷霆が檻となって彼女を閉じ込めていた。
「おい、俺と八重で維持している結界だ。とっとと決着を付けろ、景紀、姉上」
鉄之介が放った呪符は、出征前に八重から託されたものだった。それを、八束いさなの行動を封じるために惜しげもなく使っていた。
「これは不覚」
だが、それでも八束いさなに狼狽の様子はなかった。
「東方、阿迦陀、西方、須多光、南方、刹帝魯、北方、蘇陀摩抳!」
彼女は即座に、雷除けの呪文を唱える。
「ふんっ!」
鉄之介は、それに対抗するようにさらに己の霊力を込めた。両者の霊力が、互いの術式を打ち破ろうと相克する。
「オン・キリクシュチリビキリ・タダノウウン・サラバシャトロシャヤ・サタンバヤサタンバヤ・ソハタソハタソワカ!」
そこに、大独股印を結んだ冬花の詠唱が重ねられる。大威徳明王の、怨敵調伏法であった。
雷の檻に、さらなる霊的圧力が加わった。
「景紀!」
「おう!」
冬花の叫びに、景紀は地を蹴った。
霊刀“雪椿”の刀身に宿る狐火の勢いが、さらに強くなる。やがてその炎は、シキガミの主たる少年の全身を包み込んだ。
だが、熱さは感じない。
シキガミの少女が自分に託してくれた力が、漲るように感じられるだけだ。
「貴様!」
雷霆の檻に捕らえられている八束いさなは、身動きができなかった。
景紀はそのまま、彼女の体へと刀身を突き立てた。
「ぐぅぅぅぅぅっ……!」
それでも、一色家の術者は諦めなかった。自らの霊力を即席の呪詛に変え、景紀に叩き付ける。
雷霆、狐火、そして呪詛の三つが相克して凄まじい音と共に霊力の火花が散った。景紀の視界が、白く染まっていく。
「らぁぁぁぁぁっ!」
それでも、シキガミの主はさらに一歩踏み込み、刀身を深く八束いさなの体に沈めていく。
「がぁぁぁぁぁっ……!」
「おぉぉぉぉぉっ―――!」
両者の裂帛の叫びが、火花の散る音に加わった。
霊力の相克によって生じた光が、台地の頂上全体を覆い尽くしていく。
そして、刹那の後にそれは弾けた。
激しい爆音と共に、衝撃が生まれる。それは、頂の外側へと向けて拡散していった。
やがて、視界が晴れる。
月下の中に立っていたのは、景紀だった。
童女の姿をした術者は、衝撃波に吹き飛ばされたらしく、少し離れた場所で倒れていた。だが、辛うじて意識はあるようで、口元からこぽりと血を吐き出した。
「……なるほど。妖狐の血、阿尾舎法、男女の和合による陰陽の調和……」
どこかうわごとのように、それでも瞳だけははっきりと景紀や冬花に焦点を当て、八束いさなは呟いていた。
「呪術の奥深さを、私もまだ理解し切れていなかったということか……」
それは、無念さよりもむしろ新たな発見を喜ぶような響きすら感じられる言葉であった。
そして、その呟きを最後に一色家の術者は瞼を閉じた。景紀たちの目にも、その体が力を失っていくのが判る。
しかし、絶命したわけではない。あくまで、肉体的・霊的な消耗が激しく意識を失っているだけのようだった。
とはいえ、決着が付いたことは確かだった。
「……」
一色家の術者の姿を一瞥して、景紀は“雪椿”を鞘へと収める。
「鉄之介、助かった。お前はいつも、良い時に駆け付けてくれるな」
にっと結城家当主たる少年はシキガミの弟に笑いかけた。どこか、悪友に向けるような悪戯っぽい笑みだった。
「そりゃあ、いつも遅れて現れる俺への嫌味かよ」
鉄之介も、そう憎まれ口を叩くが、どこかまんざらでもなさそうであった。
皇都内乱の宮城における戦いでも、今回の戦いでも、彼は絶妙な頃合いで駆け付けて決定的な役割を果たしてくれている。
景紀はそのまま倒れている八束いさなに背を向けて、冬花の元へと歩き出した。
「冬花も、よくやってくれた」
「景紀も、お疲れ様」
狐耳と尻尾を露わにしている少女は、景紀に向けてそっと微笑んだ。互いに笑みを交わし、労い合う。
と、不意に冬花の体が傾いだ。
「とっ……」
それを抱き留めようとした景紀も、踏ん張りがきかずに一緒になって地面にへたり込む。
「……流石に、ちょっと消耗が激しいみたい」
「ああ、俺もだ」
シキガミの主従は互いに苦笑し合い、肩を寄せ合って地面に腰を下ろしたまま動けずにいた。
冬花は霊力を消耗し過ぎ、景紀もまた阿尾舎法が解けると同時に肉体にかけ過ぎた負荷の反動が来たのだった。
だが、二人ともその疲労には不思議な充足感があった。
恐らく、本当の意味でシキガミの主従として共に戦うことが出来たからだろう。阿尾舎法を使い、二人が霊的に繋がり合って戦い、勝利した。
そのことを、景紀も冬花も相手の温もりを感じながらそのことを噛みしめ合っていた。
「ったく、珍しく姉上より先に俺に声かけたと思ったら、もうこれかよ」
そんな姉と主君の様子を、鉄之介は離れた場所から見ていた。
もっとも、口に出た言葉は不本意そのものであったが、表情にはしょうがないという諦めと呆れの籠った苦笑が浮かんでいた。
あの二人は、鉄之介が物心ついた頃からああなのだ。
今少しの間、邪魔しないでおいてやるべきだろう。
「ったく……」
鉄之介はもう一度毒づくと、空を見上げた。
高く昇っていた月も、もうだいぶ傾いている。夜明けが、近付いていた。




