326 結城家の呪術師姉弟
十二月ともなれば、那古野周辺の気温は夜には五度前後にまで下がる。
結城家領軍の下士卒たちは防寒用の外套に身を包みながら、着剣した小銃を手に歩哨に立っていた。前線における歩哨ということもあり、二人一組で行う複哨の体制である。
那古野城北側では、構築中の砲兵陣地を一色家による夜襲から守るため結城家領軍第二師団が特に厳重に哨戒線を敷いていた。
領軍内部で回覧されている戦訓特報では、東海道を巡る戦闘で一色家領軍は呪術兵に自爆攻撃を行わせていたという。そのような決死隊が夜襲をかけてくれば、構築中の砲兵陣地が破壊されるだけでなく、砲兵部隊そのものが大きな損害を受けることになるだろう。
第二師団は自軍陣地周辺に鉄条網を張り巡らしつつ、那古野城総攻撃に備えて城に向けた並行壕の掘削を急いでいた。しかし、もともと低湿地帯であった場所を田畑として開墾した場所である関係上、塹壕の底に水が溜まりやすく、その上に簀の子を敷くなど並行壕の掘削には困難が伴っていた。
当然、塹壕内の環境は将兵たちにとって快適なものではない。
しかし、それでも北側以外の方面から那古野城攻撃を行った際は市街戦となり、損害が加速度的に増加することが予想されたから、領軍内の作戦計画が変更されることはなかった。
ただ、深刻な士気の低下は発生していない。東海道を巡る攻防を制し、那古野城の包囲を完了したことで、領軍兵卒たちは一色家に対する勝利を確信しつつあったのである。
もちろん、こうした感情は慢心と油断に繋がりかねないため、領軍兵卒たちが戦況を楽観視しているのも一長一短であった。
とはいえ、歩哨に出ている兵士たちは流石に自らの任務を疎かにするようなことはしていない。
一色家守備隊が潰走したことで牢人集団が逃亡した結果、周辺地域で匪賊化した牢人が出没するようになったとの報告が寄せられていたからである。彼らは食べ物を求めて周辺の農家などを襲い、中には領軍の宿営地に忍び込んで食糧を盗み出そうとした者まで存在するという。
そうした匪賊化浪士たちは発見され次第、結城家領軍によって射殺されている。周辺の農民たちも結城家領軍に村長などの代表者を向かわせて治安維持を要請する一方、彼ら自身も猟銃や農具などで牢人に対して自衛しているとのことであった。
十二月四日の夜も、結城家領軍では歩哨を立て周辺の警戒に当たっていた。
夜もだいぶ更け、気温が一段と低下してくる中、那古野城北側で立哨に当たっている歩哨の一人が、那古野城の方から黒い影が近付いてくるのに気付いた。
「誰何!」
歩哨の兵士は即座に正体不明の人影に対して銃を向ける。
皇国陸軍の教範では、三度問いかけても反応がなかった場合は対象を敵と見なし射殺ないし銃剣による刺突、もしくは捕縛を行うことになっていた。
歩哨を任されている兵士たちにとっても、緊張の瞬間である。
相手が敵兵であるのか、牢人であるのか、それとも城下から逃げ出してきた避難民なのか、夜間では判別が難しい。
「誰何!」
二度目の問いかけにも黒い影は答えず、結城家領軍の兵士たちに近付いてくる。
二人の歩哨は相手が黒装束をまとってこちらに奇襲を仕掛けようとした敵兵ではないかと一瞬思ったが、それにしては発見されておきながら慌てる様子が見えない。
緊張の中に、困惑が混じる。
「誰何!」
そして、三度目の問いかけ。
ここに至って初めて、兵士たちはその影が本当に黒い人型の影法師であることに気付いた。敵の妖術か何かかもしれない。
即座に一人が発砲し、もう一人が伝令のために駆けていく。
だが、確かに銃弾が命中した手応えを感じながらも、黒い影は何事もなかったかのように接近を続けてくる。
「っ―――……!」
その場に残った兵士は即座に銃剣を構え、影に刺突を繰り出そうと腰を低くした。
その刹那のことであった。
突然、上空から真っ白い小鳥が急降下してきたかと思うと、黒い影の腹を突き破ったのである。腹に大穴の開いた人型の影は、風に吹かれる砂のようになって消えていった。
その鳥もまた、影と同じように本物の鳥でないことに兵士は気付いた。鳥の形に切られた、ただの紙片。
呪術といえば呪術通信の様子程度しか見たことのない兵士にとっては、呆けるような一瞬の出来事であった。
しかし、怪異じみた出来事はこれだけでは終わらなかった。
消滅した黒い影の後方には、同じような人型の影が何体も続いていたのである。
その兵士が咄嗟に上空を見上げれば、先ほどと同じ白い鳥型の紙片が何羽も舞っていた。それらが降下してきて、再び接近を続ける黒い影の周囲に取り付いた。
影たちは腕を振り、紙の鳥を追い払おうとしつつ前進を続けている。
もはや自らの理解の及ばぬ光景に、兵士は銃剣を構えたまま固まっているしかなかった。
「伝令ー!」
と、後方から組を作っていたのとは別の兵士が駆けてきた。
「中隊本部より伝令ー! 歩哨は全員、陣地まで下がられたーし!」
「歩哨は全員、陣地まで下がるの件、承知ー!」
歩哨の兵士は、反射的に伝令を承知する旨の叫びを返した。日頃の訓練の賜物であった。
伝令はそのまま、隣の地区で歩哨を行っている兵士の元へと駆けていった。
目の前では、黒い影の周囲を白い鳥が乱舞してその歩みを妨げようとしている。これはもはや、自分のような一兵卒の手に負えるような現象ではない。
歩哨の兵士は伝令の伝えてきた命令の通り、急ぎ自らの後方にある陣地の方へと駆け出していった。
だから彼は、この怪異じみた光景を最後まで見届けることが出来なかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「……」
頬を撫でる夜気は、冴え冴えと地上を照らす月のように冷え切っていた。
冬花は、景紀が領軍本営を置いている東山の台地、その一番高い場所に生えている木の頂に立っていた。後頭部の高い位置で一つに括った長い白髪が、風になびいている。
赤い瞳が、宵闇をじっと見据えていた。
「……鉄之介、聞こえてる?」
『ああ、聞こえている』
冬花は、呪符を用いた呪術通信で弟を呼び出す。
「包囲網の北側で動きがあったわ。黒い人型の式が、陣地に押し寄せてきている。こっちも式を飛ばして迎え撃っているから、あなたは本営の方の警戒を怠らないで」
『判った。了解だ』
そこで一度、冬花は通信を切った。そして再び、赤い瞳を彼方へと向ける。
直接、見えるわけではないが、霊力の気配で敵の式の動きは把握出来る。冬花は袖から新たな鳥型の式を放った。
右手で刀印を作り、無数の式を操る。夜の中を、真っ白な鳥が飛び立っていく。式を向けるのは、那古野城包囲網の北側である。
第二師団が砲兵陣地を構築しているあたりに、黒い人型の式が無数に群がろうとしているのだ。皇都内乱の際、八束いさなが操っていたという護法童子だろう。不足する兵力の代わりに、式を用いて夜襲を仕掛けようというのだろうか?
だとしても、あれだけ大量の式を次から次へと繰り出せば、一色家の術者もそれなりに霊力を消耗するはずだ。
一色家に仕える高位術者は、八束いさなという童女の姿をした女術者一人のはず。
結城家領軍の砲兵陣地をまずは式で蹂躙し、那古野城が砲撃される危険を取り除く。しかる後に、景紀のいる本営を襲おうという肚なのだろうか?
だが、霊力を消耗した状態で襲撃を仕掛けるだろうか?
判らない。
冬花は顔をわずかに険しくする。
あるいは、そう思わせることが八束いさなの狙いなのかもしれない。鉄之介にこの場所の霊的警戒を怠らないように伝えたのも、それが理由だ。
北側の砲兵陣地を襲っている式はあくまで陽動で、本命は景紀のいる結城家領軍本営。
一色家の忍集団の動向も十分に掴めていない現状、術者と忍たちが連携して襲撃を仕掛けてくることも警戒しなくてはならない。
一色家に捕らえられていた人質は解放され、結城・一色両家の間の停戦もすでに失効している。そしてその日の夜に、一色家は仕掛けてきたのだ。
恐らく、今夜が自分たちにとっての山場となるだろう。
冬花には、そんな確信があった。
一方の鉄之介は、台地の上に築かれた結城家領軍の陣地を見回っていた。
この台地の周囲に姉と共に張り巡らせた結界に綻びがないか、確認しているのである。
もともと、景紀が本営を置いている東山と呼ばれる台地は、那古野の領民たちの遊覧地であった。地元の名所図会などにも掲載されている場所で、春になれば花見に訪れる領民たちで溢れかえる場所であった。
そのため、木々が鬱蒼と茂っているということはなく、台地には適度に道が整備され、開けた場所などもあちこちに存在していた。
そうした場所に領軍将兵は塹壕を掘り、鉄条網を設置し、多銃身砲などを据え付けて景紀の本営の守備についていたのである。
北翼を担う第二師団に呪術的な夜襲が敢行されたとの報せを受け、将兵たちは当直の者以外も叩き起こされ、それぞれの配置についている。
本営の守備についている将兵たちは、先の対斉戦役で独混第一旅団として景紀と共に戦った者たちが多い。そうした将兵たちにとって、呪術的な攻撃といえば瘴気を流し込まれることであった。
独混第一旅団は斉軍の瘴気による直接的な被害には遭っていないが、それでも瘴気を吸い込んで苦しむ友軍将兵の姿は目撃している。だからか、鉄之介の目から見て彼らの顔には緊張感が滲んでいた。
昼間までは、彼らの間には楽観的な雰囲気が漂っていた。一色家の居城を完全な包囲下に置き、後は砲兵陣地の設置完了を以て総攻撃に移るだけだったからである。
今は、それが霧散していた。
結界の確認のために陣地内を行き来する鉄之介に、どこか期待するような視線を向ける者たちもいる。
「……」
そうした視線に、鉄之介自身は少し気圧されるような気分を覚えていた。
確かに自分は、皇都内乱で景紀の危機を救い、東海道を巡る戦いでも爆裂術式などを放って結城家領軍の勝利に貢献したという自負はある。しかし、これほど多くの将兵から注目を浴びるというのは、未だ十六の少年にとっては肩に重いものがのし掛かってくるような感覚であった。
景紀や宵姫は、こんな視線に晒されながら今までやってきたのだろうか?
ふと鉄之介の脳裏に、そんな思いが浮かんだ。特に彼は、宵姫が主君押込を行い、並み居る家臣団の前で伊丹・一色陣営との対決を宣言した瞬間に居合わせている。
齢十七の少女がそれだけの重責を背負い、覚悟を決めているのを間近で目にしていながら、この程度の視線に尻込みしているようでは、八重に笑われてしまうかもしれない。
自分は彼女に呪符を託され、彼女の分まで戦うように言われたのだ。
鉄之介は、懐に収めた八重の呪符を服の上からそっと撫でる。姉が北側の陣地を守るべく数多の式を操っている今、本営が呪術的な襲撃を受けた場合に結界を維持するのは自分の役目なのだ。
「……」
鉄之介は、油断なく結界の外の気配に感覚を研ぎ澄ませる。
先の皇都内乱で鉄之介は一色家の術者である八束いさなと直接、対峙したものの、彼女は自分と八重が駆け付けた直後に形勢の不利を悟って逃走している。だから、あの童女の姿をした女術者を自分と八重が退けたとは思っていない。
八束いさなのことを知る宮内省御霊部長の浦部伊任からも情報を得、そして実際に彼女と術や刃を交えた姉や景紀、貴通から話を聞けば聞くほど、油断のならない相手であると実感する。
今回だって、相手が最初に呪術を用いて襲撃を仕掛けたのは、第二師団の拠る北側の陣地だ。北側の陣地への護法童子を用いた襲撃は陽動なのか、それとも最初から景紀の首ではなく結城家領軍の砲兵部隊の撃滅を狙っていたのか、判断がつかない。
そして、北側の陣地が呪術的な襲撃を受けたということは、南側の騎兵第一旅団を中心とする部隊の陣地についても呪術的な警戒が必要だろう。
これでは到底、領軍本営の呪的防御に専念出来る状況ではない。
完全に相手術者に主導権を握られてしまっている。
「くそっ……」
鉄之介は小さく悪態をついた。
こちらは姉と自分の二人だというのに、八束いさなという一人の術者に翻弄されている気分であった。
人魚の肉を喰らって戦国の世から生きているという術者に比べれば、自分たちはまだまだ若輩者に過ぎないことを思い知らされた。
そうして歯噛みしながら呪術的な警戒を続けていた鉄之介は、不意に新たな霊的気配を察知した。
どこか、覚えのある気配だった。
鉄之介は反射的に刀印を結び、身構える。
刹那、“それ”は出現した。
おびただしい数の、“魑魅魍魎”。
それらが本営に張った結界に向けて、奔流のように迫ってきた。
皇都内乱で、宮殿東溜に八束いさなが召喚した百鬼夜行絵巻の妖怪たちだ。あのとき使われた巻物はそのまま打ち捨てられていたから、また別の絵巻だろう。
そして、それだけでは終わらなかった。
結界に襲いかかってきたのは、霊力を注がれて実体を得た墨で描かれた妖怪たちだけではなかったのだ。黒い魑魅魍魎の中に、白い蝶や鳥が混じっている。
こちらは、紙に霊力を込めた式だろう。
姉の操るものではない。霊力の波長が、明らかに別の術者のものだった。
恐らくその霊力の主は、八束いさな。
「なんて奴だ……」
思わず、鉄之介は呻いた。
絵巻物に描かれた百鬼夜行を実体化させただけでなく、大量の式も操っているのだ。そして、包囲網北側の結城家領軍を襲撃した護法童子も八束いさなの仕業だろう。
いったい、どれだけの霊力を注ぎ込んだのだろうか。
自分も姉も、妖狐の血を引く家系のために霊力量にはそれなりに自信があるが、これだけ大規模な術式を展開すれば消耗は避けられない。
『鉄之介!』
鉄之介が息を吸い込んで百鬼夜行を祓うための呪文を詠唱しようとしたそのとき、姉の冬花の警告の叫びが届いた。
『構えなさい!』
緊迫した姉の声を聞いた刹那、ぞわりと全身が総毛立つような感覚が鉄之介を襲った。
来る……!
直感的にそう思ったときには、すでに体は動いていた。両手で素早く呪符を抜くと、それを空へと向かって投げつけたのである。
十枚の呪符が空中に貼り付くように展開したその瞬間、妖狐の血を引く姉弟の構築した結界に強大な爆裂術式が叩き付けられたのである。
夜の暗闇を裂く閃光と共に、耳を聾するほどの轟音が辺り一帯に響き渡った。




