317 西国の戦況
一色公直による人質の処刑は家臣団の統制を維持するという目的が強かったものの、中小諸侯に対する牽制という側面もあったため、景紀の元に人質処刑の情報が届くよりも先に、彼ら諸侯たちはその情報を入手していた。
人質処刑に際し、公直は人質たち全員に実家への書状を書くように命じ、自分たちがこのような境遇に置かれているのはすべて奸賊・結城景紀に原因があるのだということを彼らの実家に訴えさせたのである。
これにより人質処刑の責任が結城景紀にあるのだということを諸侯に印象付けるとともに、彼らの一色家側への恭順ないし協力を促すことを公直は目指した。
一色家があえて人質処刑を結城家に対し喧伝しなかったのは、中小諸侯たちに対する寝返り工作を結城家の側に気取られたくなかったからである。一色家の側が中小諸侯たちに対する工作を開始すれば、当然に結城家の側はそれを妨害しようとするだろう。
もちろん、結城景紀は人質を処刑した一色家の非道を諸侯に訴えようともするに違いない。
そのような情報工作が行われる前に、公直は諸侯に対し景紀の責任を訴える必要があったのである。
当然ながら、人質の中には一色家に脅迫されて書状を書くことに抵抗する者たちもいた。しかし、実家への書状を書かねば人質全体に連帯責任を負わせると一色家の側が圧力をかけたことで、抵抗していた少年や少女たちも他の人質を守るために結城景紀を糺弾する書状を書かねばならなかった。
人質の中には、兄弟姉妹で一色家に捕えられた者たちもいたのである。
これらの書状は結城家領軍が那古野城下に迫る中で、急ぎ各諸侯たちの元に送られた。すでに一色家領軍は東海道各所で敗北を重ねており、那古野城包囲は避けられないと見られていたからである。
書状を託された使者たちは結城家領軍による包囲網が完成する前に、城下を脱していた。
人質処刑によって中小諸侯が一色家の元に馳せ参じることになれば、那古野城を包囲する結城家領軍の背後を突くことが出来る。また、東海道や中山道の諸侯たちが一色家の側に寝返れば、結城家領軍は補給路を遮断されて一色家領内で孤立することになる。
そうなれば、少なくとも結城家領軍の下士卒たちは動揺するだろう。
そこに、一色家が戦況を覆す機会が生まれる。
公直や家臣団の中で人質処刑を声高に叫ぶ者たちは、少なくともそのように確信していた。
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一色家による人質処刑は、景紀たちのいる東国地方だけでなく、西国地方にも波紋を広げていた。
むしろ人質となっている少年少女たちの多くが一色家領以西の地域出身者であったことから、景紀よりも早くその報せを受けた西国諸侯たちも多かった。
西国諸侯の中は皇都に息子や娘たちを置いておけば結城家によって人質とされかねないことを懸念して彼らを本領へと呼び戻そうと考えていた者たちも多かったが、その判断が逆に仇となった形であった。
皇都内乱当時、皇都に滞在していた諸侯や公家は兵学寮や学士院、女子学士院に通う自らの子女たちが蹶起部隊によって実質的に人質とされたことで伊丹・一色陣営への協力を余儀なくされており、そうしたことを伝え聞いていた他の諸侯たちは彼らの二の舞を防ごうとしたのだが、結果として同じように自らの子女を人質に取られる事態となってしまったのである。
ただし、これら諸侯たちにとっては、子女を本領に帰還させることはかなり難しい決断であった。
西国地方は地域的に伊丹・一色両家と繋がりのある中小諸侯が多く、子女たちを皇都に留めておけば、かえって伊丹・一色両家の猜疑を招きかねなかったのである。
結城家が諸侯の子女たちを人質にとらずとも、諸侯たちが自ら子女を結城家に差し出したかのように伊丹・一色両家に受け取られる危険性があったからだ。
伊丹・一色両家と領地を接している諸侯ほど、両家からの軍事的・経済的な制裁を受けることを恐れなければならない立場にあったのである。
結局のところ、中小諸侯にとってみれば皇都内乱に勝利したとはいえ結城景紀はまだ若く、一方の伊丹・一色両家には追討令が発せられている側であったから、御家存続のためにも情勢を見極めずに旗幟を鮮明にすることが難しかったのである。
中小諸侯たちにとってみれば、御家を取るのか自らの子女をとるのかという、究極的な二者択一を迫られていたといえよう。皇都に留学させた子女たちは嫡男や正妻との間の娘など、諸侯の子女たちの中でも地位の高い者が多く、御家存続のためとはいえ容易に切り捨てることが出来ない少年少女たちだったのである。
しかし、一色家が東海道上で結城家領軍に敗北を重ね、伊丹家も当主・正信が皇都内乱で討ち取られたことで家中の混乱を収めきれずにいる情勢となれば、自ずとどちらの陣営に付くべきなのかは明らかであった。
そうした中で西国の中小諸侯たちは、官軍である有馬・斯波両家の領軍と賊軍となった伊丹家の領軍と対峙せねばならなかったのである。
「これは要するに、景紀殿が未だ侮られているという証左だろうな」
商都・石阪にある西部鎮台司令部庁舎で、斯波兼経は呟いた。
「未だ二十歳に達していないとはいえ、景紀殿は景忠公が病に伏せっている間、あの広大な領地を大過なく収め、家臣団を統制していた。兵学寮卒業後の実戦経験も、あの歳の将家次期当主としては豊富な方だ。そして皇都内乱に勝利している。むしろ子女たちを皇都に留めていた方が、安全であったろうに」
執務机につきながら、兼経は億劫そうに嘆息した。
彼は先ほどまで、一色家に子女を人質に取られた畿内地方の諸侯たちからの会見を受け入れていた。彼らは結城・有馬・斯波三家に対して恭順を申し出るとともに、一色家に人質として捕えられている子女の件について結城景紀と協議する場を設けて欲しいと兼経に懇請してきたのである。
「まったく、私ではなく景紀殿のところに直接向かえばよかろうに」
あるいは自分も、六家当主として中小諸侯たちから侮られているのかもしれないと、兼経は思った。
恭順の申し出をあえて皇都内乱の勝者である景紀に申し出るのではなく、自分に申し出てくるということは、この斯波兼経ならば苛烈な処断をされることはないと中小諸侯たちは考えているのかもしれない。
少なくとも、これまで旗幟を鮮明にしていなかったことで、中小諸侯たちは結城・有馬・斯波三家から何かしらの咎めを受けると彼らが思っていてもおかしくはないだろう。
「二十歳にならぬ結城家当主、父親の傀儡と見なされている有馬家当主、そして芸術狂いと見なされているこの私、か。確かに、伊丹・一色両家に追討令が下されていようと、我らに即座に恭順する決断が出来なかったのも頷けはするが」
兼経はそう自嘲しつつ、立ち上がると執務室の窓から外を見下ろした。
司令部の窓から見える商都・石阪の街並みには、戦禍の跡は見えない。本来は伊丹家が代々鎮台司令官を務めていたこの地は、今や斯波家領軍の勢力圏下にあった。
伊丹家は、石阪の街をほとんど無血で斯波家に明け渡していたのである。
もっとも、それは伊丹家が意図した結果ではないだろうと兼経は思う。
要するに伊丹家は石阪湾を遊弋する海軍の圧力と、家中の混乱ゆえにこの商都を手放さざるを得なかったのである。
有馬・斯波両家が挙兵の準備を整えるまでの間、石阪湾の艦隊は十分に伊丹家に対する抑止力として機能していた。この艦隊の存在がなければ、伊丹・一色両家は石阪の街に兵を入れ、商人たちから強制的に物資や資金を徴発したことだろう。
だが、艦隊とそこに乗る海軍陸戦隊の存在があったために、伊丹・一色両家は石阪の商人たちに手出しが出来なかったし、また商人たちも両家に対して非協力的な態度に出ることが出来た。
伊丹・一色両家としては、海軍と不用意に戦火を交えたくなかったのだ。追討令が発せられ、結城・有馬・斯波の三家と対峙しなければならない情勢下で、海軍とまで敵対関係になるわけにはいかなかった。
少なくともこの内戦を六家の内紛という形に留め、海軍には中立を保っていてもらいたいというのが、伊丹・一色両家の本音だろう。
だから石阪の商人たちが沖合の海軍に救援を求めるような、武力を用いた強制的な徴発が出来なかったのである。
さらにここに伊丹家家中の混乱が加わり、伊丹家は石阪の地で斯波家を迎え撃つ準備を整えることに失敗していた。
皇都内乱で当主・正信が討ち取られ、次期当主であった寛信が追放されるという御家騒動が発生した伊丹家は、未だ家臣団の統制を回復出来ずにいたのである。
寛信を追放した正信の弟・時信と寛信の弟・村信は、伊丹家の実権を完全に掌握したとは言い難い。
伊丹家家中には正信の影響を受けて攘夷を唱える対外硬派も多いが、穏健派も一定数おり、さらには皇都での不祥事を受けて速やかに皇主に対して伏罪恭順の意を示すべきと主張する者たちもいた。
これまでは正信の強力な政治的指導力と求心力によってまとまっていた家臣団は、正信の死亡と御家騒動によって完全に分裂してしまったのである。さらに皇都内乱で正信と共に重臣・側近勢力も軒並み討ち取られていたから、余計に混乱に拍車がかかる事態となった。
時信・村信とその一派は伊丹家の実権の完全掌握と反対派の排除のために家中の粛清に乗り出さざるを得なくなり、その結果、一色家とは対照的に追討令が発せられながらも挙兵の準備がまったく整わぬままに有馬・斯波両家の領軍と対峙せざるを得ない事態となっていたのである。
そして、伊丹家が代々鎮台司令官を務めている西部鎮台であるが、この鎮台が置かれている石阪は戦国時代より戦国大名、そして将家の影響が及びにくい地であった。
かつては強大な寺院勢力が戦国大名に対して抵抗を行い、また南蛮貿易や鉄砲生産で富を得た商人たちによる自治も行われていたのが、石阪という地なのである。
そのため、六家体制が成立しても石阪の地はどの六家の領地にもならず、早い段階で中央政府直轄の石阪府となっていた。
しかし、六家としてはそうした商都・石阪の地の独立性は国家を統制する上で見過ごせるものではなく、そのために西国方面を管轄する鎮台である西部鎮台をこの地に置き、伊丹家が代々鎮台司令官として石阪の街に睨みを利かせてきたのである(もちろん、伊丹家としても豪商たちと懇意になることで経済的利益を得るという利点もあったが)。
しかし、伊丹家の御家騒動によってこれまで西部鎮台司令官を務めていた伊丹時信は自家の実権を掌握すべく本領へと帰還し、追討令が発せられた時点で鎮台司令官が不在という事態が生じてしまった。
その後も時信は甥の村信とともに家中の混乱の収拾と反対派の粛清に忙殺されることになり、石阪の地に戻って鎮台の指揮を執る機会を永遠に失ってしまったのである。
このため鎮台司令部と共に石阪に司令部を置く第四師団では、石阪やその周辺地域出身者で編成された歩兵第八連隊がまず伊丹家から離反する動きを見せ、鎮台司令官不在でこの動きに対応出来なかった伊丹家は伊丹家領出身者で編成された歩兵第十連隊などを本領に撤退させる命令を下さざるを得ない事態に陥った。
伊丹家が石阪からの撤退に際して街を焼き払うなどの焦土作戦を実施しなかったのも、歩兵第八連隊との戦闘に陥り、その間隙を斯波家領軍に突かれることを恐れたからだろう。
結果として蓬州から船で本州に上陸した斯波家領軍は、石阪湾の台場も含めて石阪の地にほとんど無傷で進駐することに成功したのである。
ただし、石阪の地にあった兵器庫や弾薬庫などに収められていた武器弾薬は、その多くが伊丹家によって持ち去られていた。石阪の歩兵第八連隊も、伊丹家と戦闘となって街が戦火に包まれることを恐れて彼らによる武器弾薬の運び出しを傍観するに留めたという。
もちろん、伊丹家によって鎮台の機密書類も多くが焼却処分されていた。
それを、兼経は責めるつもりはなかった。
石阪の地を戦禍に巻き込むことなく伊丹家から奪取出来ただけで、十分な成果であると考えていた。
商都・石阪を手中に収めたことによって、斯波家は海と陸、双方から伊丹家領に対して攻勢をかけられる態勢が整ったのである。
一方、伊丹家領の西側では、同じように南嶺の有馬家領軍が本州への上陸を果たしたという。
これによって伊丹家領は、斯波家領軍と有馬家領軍によって東西から封鎖される事態となったのである。
そしてこの期に及んで、伊丹家家中では混乱が続いているという。
兼経は有馬貞朋公と協議の末、領軍を直接伊丹家領に侵攻させることはせず、国境を封鎖させるに留めていた。これは、同じく本州に上陸した有馬家領軍も同様である。
二人は、ここで有馬・斯波両家が領軍を侵攻させれば、かえって御家の危機だとして混乱している伊丹家が一致団結して抵抗する可能性が高いと考えていたのである。
東西から国境を封鎖して伊丹家領を孤立させつつ、伊丹家家中の穏健派や恭順を説く者たちに密使を送って懐柔、家中の混乱をさらに助長させて最終的に時信・村信一派が恭順を申し出ざるを得ない状況に追い込もうというのが、兼経と貞朋の目論見であった。
これにより戦禍によって伊丹家領が荒廃することを防ぎ、内戦による国力や軍事力の低下も最小限に押え込もうとしたのである。
結城家領軍は一色家の居城である那古野城に迫っているというから、一色家を降すことが出来れば伊丹家も恭順を申し出ざるを得ないだろう。仮に伊丹家一家となってもなお抵抗の姿勢を見せるようならば、その際は一色家征討から合流した結城家領軍も加えて、総攻撃を仕掛けるしかない。
もちろん、斯波家家臣団の中には武功を求めて伊丹家領への直接侵攻を主張する者もいる。このままでは結城家一家だけが大きな戦功を挙げることになり、内戦後の政治的発言力の低下に繋がると懸念しているからだ。
しかし兼経は、ここで斯波家領軍が大きな損害を負うことこそが内戦後の発言力低下に繋がると諭し、そうした意見を押え込んだ。
一色家との戦闘を繰り広げている結城家領軍はこの内戦でそれなりの損害を負うはずであり、将来のルーシー帝国やヴィンランド合衆国との対峙を考えれば、無傷の領軍を持つ家の発言力こそが物を言うというのが、その理屈であった。結城家が領軍の再編に忙殺される事態となれば、なおさらである。
もちろん、兼経はそうまでして内戦後の政治的発言力にこだわろうとは思っていない。面倒な政治や外交を景紀が担ってくれるのならば、自分は年長者としてそれを補佐しつつ、趣味に打ち込む方がよほど有意義だとすら考えている。
しかし、家臣団全員が自分のように芸術や文化に人生を捧げることを喜びとはしていない。
だからこそ、そうした理屈付けで家臣団を統制する必要があったのである。ままならぬものであった。
「こうして考えてみると、景紀殿と宵姫殿は実に上手く結城家の実権を掌握したものだな」
皇都内乱の発端となった長尾憲隆公爆殺事件によって未だ後継者問題に決着がつかない長尾家、皇都内乱で当主・正信を討ち取られ御家存続の危機であるにもかかわらず内紛を続ける伊丹家。
しかし皇都内乱という動乱の最中に主君押込を実行した結城家のみは、早々に家中の混乱を収め、皇都内乱に勝利し、そしてこの内戦で主導的立場に立ちつつある。
特に主君押込を決断し、本領の家臣団の統制に成功した宵姫。
未だ十七歳の姫君ながら、末恐ろしいとしか言い様がない。
「そのような家と敵対するなど、愚の骨頂。下手にこの内戦で戦功を挙げて、あの二人に目を付けられてしまうのも困りもの」
兼経は、むしろ歌うようにそううそぶくのだった。




