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【書籍化】秋津皇国興亡記  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第十五章 戦野の皇国編

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282 朝敵とされた者たち

 一色家本領・尾治国那古野城に結城景秀が使者として訪れたのは、すでに一色家が西国諸侯に対して檄文を発し、皇都に向けて兵を挙げるべく準備を進めている最中のことであった。


「結城景秀が使者としてやって来ただと?」


 報告を受けた一色公直は、怪訝そうな表情を隠そうともしなかった。

 結城景秀は結城家先代当主・景忠との兄弟仲が悪く、さらには景紀とも対立関係にあったから、これまで伊丹・一色両家との接近を強めてきた人物であった。

 現在も、新当主の権力が安定していないだろう結城家内に混乱を起こすべく、公直は兵を興すにあたって景秀を利用しようと考えている。

 しかし、皇都内乱において結城景秀は終始、曖昧な態度を取り続けていた。

 景秀が旗幟を鮮明にしなかったことで河越への政治的・軍事的圧力が不十分となり、それが結果として結城家における主君押込、結城景紀の領軍掌握という事態を招いたのだという思いは、今も公直の胸の内にある。そして、それ故に皇都内乱で敗北を喫し、本領へと落ち延びることになった屈辱を、この一色家当主は忘れていない。

 その意味では、結城景紀という敵を抱えている現状、“敵の敵は味方”の理論でいけば結城景秀は利用価値のある人物ではあったが、少なくとも積極的に信用しようと思う相手ではなかった。

 そのような人物が、自身の居城にやってきたのである。

 公直としても、怪訝にならざるを得なかった。


「まさか、結城家から追放されてここまで落ち延びてきたわけではあるまいな?」


 だから最初、彼は使者という名目を信じなかった。


「いえ、実際に結城景紀・有馬貞朋・斯波兼経三公の花押入りの書状を携えております」


 報告してきた家臣がそう言う。


「あの三人の花押入り、か……」


 そこで公直は、少し思案する顔になった。

 もともと、彼も皇国全土を巻き込む内戦にはそこまで積極的ではない。あくまでも強硬姿勢を貫きつつ、皇都陣営の妥協を引き出そうとしているという目的の方が強かった。

 特に公直が期待していたのは、こうした対立の激化と内戦の危機を憂えた皇主による優諚が下ることであった。

 しかし伊丹・一色両家を朝敵とする追討の宣旨が下ってしまった以上、公直の目論見は大きく崩れることになった。

 主家が朝敵と断じられたことによる家臣団の動揺を抑えつつ、挙兵の準備を進めなければならないのだ。

 現状、結城家を中心とする皇都を占拠する勢力が皇主の大権を私議していると公直は主張し続けており、彼と同じように攘夷思想を持つ急進派・攘夷派に属する家臣たちも、皇主の周囲にいる佞臣・奸臣の讒言によって主家が陥れられたと憤慨する姿勢を見せている。

 家臣団内に多少の動揺はありつつも、公直は十分に彼らを統制しているといえた。

 問題は、領軍の下士卒や檄文を発した西国諸侯たちの反応であった。

 領軍の士気の低下や、西国諸侯の日和見的対応など、公直が懸念しなければならない問題は多かった。

 そのため、西国諸侯たちからの反発を受けることを承知の上で、公直は強硬手段に打って出ていた。

 一色家を朝敵とする追討令が下った直後、彼は西国の中小諸侯たちの子女を人質として捕えるように命令を発したのである。

 これは、皇都で景紀が兵学寮や学士院、女子学士院の生徒たちに、本領への帰国を許していたこととも関係がある。いよいよ国内情勢が不穏となってきたことから、皇都で結城家によって人質とされることを恐れた一部の生徒たちが、急いで本領に戻り実家の庇護を受けようとしていたのである。

 彼らの多くは西国に帰る最中、東海道本線などで一色家領を通過することになる。

 そこで公直は列車の運行を止めさせ、帰国しようとする西国諸侯の子女たちを捕えさせたのであった。

 さらには、城下の高等学校、高等女学校、師範学校、あるいは大学などで一色家領に留学していた西国諸侯の子女たちも、一斉に捕えられていた。

 一色家は六家であったため、領内に高等教育機関を充実させていたのである。そして、一色家やその家臣団の子女との交流を持っておきたいと考えた中小諸侯たちが、子女を一色家領に留学させていたのである。

 それが、仇となった形であった。

 現在、那古野城には十代前半から十代後半の少年少女を中心に、三十名近い中小諸侯の子女たちが人質として滞在していた。もちろん、流石に牢に入れるような真似はせず、本丸御殿に住まわせ丁重に扱ってはいたが、所詮は人質であることには変わりない。

 こうした公直の強硬措置に老臣・大野為尚などは、これではたとえ皇都勢力を打倒出来たとしても西国諸侯との間に遺恨を残す結果となると諫言を行っていたが、公直は聞き入れなかった。

 こうした主君の姿勢に影響されたのか、皇都勢力に対して強硬な姿勢をとる家臣団の中には、大野為尚を軟弱な老いぼれと激しく攻撃する者すら現れるほどであった。

 一色家を朝敵とする追討令は、主君・公直と同じく攘夷思想を抱き、皇都内乱での敗北を屈辱と捉える急進派家臣団を、より尖鋭化させていたといえよう。

 もちろん公直としても、大野為尚の言うように西国諸侯の子女を人質として捕えることの弊害は理解していた。だから彼は一方で、西国諸侯に対して皇都勢力を打倒した暁には関東や東北に新たな封土を与え、あるいは結城家が利権を持つ南洋植民地・南泰平洋植民地の分割を約束していた。

 つまりは、人質を取りつつも西国諸侯に対して戦勝後の恩賞を約束していたわけである。

 こうした硬軟織り交ぜた姿勢で、公直は西国諸侯たちを自陣営に取り込もうとしていたのであった。

 そうしたところに現れたのが、結城景秀だったのである。


「よかろう、ひとまず会うとしよう」


 結局、公直はそう判断したのであった。






 表御殿接見の間で、一色公直と結城景秀の会見は行われることになった。


「それで、何用であるか? 景秀殿」


 上段の間から、公直はそう問いかけた。

 景秀は、下段の間に座っている。その表情からは、公直から見下ろされる下段の間に座らされたことへの不満が見えた。

 とはいえ、公直にとってこの対応は当然であった。彼は景秀の利用価値を認めつつも、少なくとも尊重する気はなかったのである。

 要するに、皇都内乱で曖昧な態度をとり続けたことへの当て付けであった。


「一色殿、私は此度、皇主陛下の憂いを晴らすために参った次第である」


「……」


 景秀は公直を“公”と呼ばず、“殿”と呼んだ。そのことに、公直はかすかに不快な思いを抱く。つまり、朝敵として追討される立場となり爵位や位階などをすべて剥奪された現在の公直の立場を、この結城家の人間は肯定しているわけである。

 これもまた下段の間に座らされたことへの当て付けか、と公直は思う。


「こちらは、結城景紀および有馬貞朋公、斯波兼経公よりの書状である」


 景秀が取り出した書状を、会見の場に同席している一色家家臣が公直に取り次ぐ。


「ふん」


 小さく鼻を鳴らして、公直はその書状を広げた。


「畏れ多くも皇主陛下におかせられましては、一色家および伊丹家を朝敵とする勅旨を下し賜れましたが、なお内戦を憂えておいでであらせられる」


 書状を読み進める公直に対し、景秀はたたみ掛けるように言う。


「そこで私は陛下のご意思に()い奉るべく、こうして使者として参った次第だ」


「……つまり、私や伊丹家に対し結城家の軍門に降れ、と?」


 書状を読み終えて、公直は剣呑な声を出す。

 三名の花押が入った書状には、確かに皇主が六家同士が直接対決する内戦となれば多くの民が犠牲となり、国土も荒廃することになるであろうことを憂えていることが書かれていた。

 しかし、その上であの三人は伊丹・一色両家に対し、改めて伏罪恭順を要求してきたのである。

 当然、朝敵とする勅旨が下されたこともあり、書状には伏罪恭順にあたっての厳しい条件が連ねられていた。

 当主であった公直は当主の地位を退き、隠居。以後、一切の政務に関わることを禁じるという、事実上の幽閉を求めてきており、領地についても尾治国以外の没収、新当主については妻子を人質として皇都に置くことなどを条件としていた。

 一方、家臣団については主家が伏罪恭順の意思を示す限りにおいて、主要な者以外の処罰は求めないという趣旨のことも書かれていた。

 要するに、領論を伏罪恭順か徹底抗戦かで分裂させる意図が見え透いた書状であった。


「それはこの私に、奸賊どもに降れと言っているに等しい」


 結城閥系新政権の正統性をそもそも認めていない公直は、朝敵とされたからといって今さら皇都に対して恭順する意思を持ち合わせていない。

 皇国全土を巻き込む内戦を起こすことに対して未だ葛藤はあったが、かくなる上は武力によって決着を付けるしかないとも思っている。

 皇都内乱で敗れたとはいっても、領軍は依然として健在であった。だからこそ、公直は自らが結城景紀に敗北したという現実を受け止めることを拒絶していたのである。


「公直殿。あくまで、陛下に対してと考えれば良いではないか」


 そんな公直に対して、それが説得になっていると本気で考えているのか、景秀は続ける。


「内戦を回避出来れば、陛下も公直殿の皇室への忠誠を改めてお認めになることだろう。それに、貴殿を説得出来れば陛下にご憂慮を取り除いたことで、私の結城家内における権威も上がる。我が甥、結城景紀は正当な手段で当主になった人間ではない。我らが皇室への忠誠を示すことで、あ奴を当主の座から引きずり下ろすことも可能となろう」


「それはつまり、貴様が結城家内での権威を上げるために、私に屈辱に甘んじろと言っているようなものではないか」


 公直は不愉快げに、景秀の発言を切り捨てる。

 結局、この男には攘夷や尊皇といった大義はなく、ただ結城家内での自らの地位に恋々としているだけなのだろう。そう考え、公直はますます景秀を信用出来ない人物であると判断した。

 とはいえ、結城景秀に利用価値があるのも事実であるから、このまま首を刎ねて結城景紀の元に送り返すのも惜しかった。


「私は私自身の決意と力によって、結城景紀に対する雪辱を果たす。貴殿の下らん策に応じる必要は感じぬ」


「しかし、公直殿……」


「景秀殿」公直は、何かを言いかけた景秀を遮って続ける。「君側の奸を討つという我が意志は変わらぬ。結城景紀が結城家の正統な当主ではないというのなら、貴殿も私に呼応して兵を興す覚悟をすべきであろう。貴殿の嫡男・景保殿は第十四師団におり、家臣団の青年将校たちから支持を得ているというではないか?」


「それはそうだが……」


 景秀の返答は、歯切れが悪かった。彼としては、結城景紀が新当主となったことを疎ましく思う一方、かといって朝敵と断じられた者たちと手を組んで景紀の軍を挟撃することには躊躇しているのだろう。

 朝敵と手を結んでしまえば自身も皇主から不興を買ってしまうかもしれず、さらに景紀以上に当主の地位に就くことへの正統性が疑われることになる。

 景秀にとっては、公直が自身の説得によって伏罪恭順の意思を示してくれることが一番よかったのだ。

 やはり、結城家を攪乱するための利用価値はあるが、積極的に味方に引き入れようと公直が思うような相手ではなかった。


「景秀殿、貴殿が今すべきは先のような意味のない説得を私に聞かせるのではなく、結城家内の反景紀勢力をまとめ上げることであろう」


 公直は、景秀にそう迫る。

 目の前の男がどこまで公直の思惑通りに動くかは判らなかったが、少なくともその存在は結城家を不安定化させる要因にはなり得た。だからこそ、公直は景秀に対し結城家内の反景紀勢力を糾合することを求めたのである。

 結城家、特に景紀に対する攪乱工作は、いくらでもやる価値があるのだ。

 公直は皇都に残留する一色家の忍たちにすでにいくつかの命令を下してあるが、彼らによる外部からの工作だけでなく、結城家内部からの攪乱も景紀に対する打撃になるだろう。


「故に貴殿は、今からでも急な病に罹ったとして結城家領に戻られるがよかろう」


 これ以上の問答は必要ないと示す一方的な口調で、公直はそう告げるのだった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 一方、一色家と同じように朝敵とされた伊丹家は、当主・正信の死亡とその後の寛信、時信、村信らの間で発生した御家騒動による混乱から、未だ立ち直れていなかった。

 次期当主であった寛信を追放した正信の弟・時信と寛信の弟・村信が家中を統制するためにまず行ったことは、穏健派の粛清であった。

 正信は国内の攘夷派から盟主のように見られていた人物ではあったが、だからといって伊丹家の家臣すべてが彼の唱える攘夷論に賛同しているわけではなかった。

 当主・正信の影響もあって対外硬派が多い家臣団の中にも、穏健な主張を唱える者たちはいたのである。

 また、皇都内乱の報を受けて、寛信に対して速やかに皇主に対する伏罪恭順の意を示すべきと具申した家臣もいた。

 石阪湾に第二艦隊が集結し、伊丹家に対する示威行動を行っていたことも、こうした意見を後押しした。第二艦隊の存在は、伊丹家に対する皇主の怒りの表れであると捉える家臣も多かったのである。

 しかし、一方でやはり皇都陣営に対して強硬論を唱える者、寛信に対して父・正信の敵討ちのために兵を挙げることを迫る家臣団もいた。

 こうした領論の分裂の中で、時信と村信は寛信の追放に及んだわけである。

 もっとも、二人は当初、寛信を捕えて幽閉するつもりであった。しかし、寛信の身辺警護などに就いていた忍たちが主君を逃がそうと奮闘したため、時信と村信は寛信を捕えることに失敗してしまったのである。

 結果として追放という形になってしまったのは二人にとって失態ではあったが、ひとまず伊丹家を掌握するという目的は果たせていた。

 伊丹時信、村信の二人は正信の唱えていた攘夷論に共感しており、さらに時信にとっては兄であり、村信にとっては父である正信の敵討ちに消極的な寛信に対して憤りを抱いてもいた。

 彼らは伊丹家の実権を握ると即座に一色公直と連帯する姿勢を鮮明にし、さらに皇都の結城家や隣接する有馬・斯波両家と対決するために兵を挙げる準備を進めていた。

 その一環として、領論の統一と家中の統制の維持のために、家臣団内の穏健派の粛清に乗り出していたのである。

 正信が重用していた側近や重臣たちは彼と同じように皇都で討ち取られていたから、時信と村信は急ぎ家臣団を再編する必要に迫られていたことも、そうした粛清が行われた要因であった。

 結果として、国許(くにもと)で要職についていた家臣六名が家中を混乱させたとして切腹に追い込まれ、寛信の側近と見做されていた者三名が結城家への内通の罪で斬首された。

寛信が皇都へと逃れたことで、その側近たちは最初から結城家に通じていたという罪を着せられたのである。同時にこれは、他の家臣団に寛信および結城家への敵愾心を煽るという目的もあった。

 そしてもちろん、切腹や斬首を言い渡されなかった者たちも、穏健派と見做されたり、あるいは積極的に正信の敵討ちを唱えなかったという理由で、処断されていった。

 こうした粛清が家中にさらなる混乱を引き起こし、朝敵として追討令が出されながらも伊丹家は一色家ほどには兵を挙げる準備が整わないまま、討伐軍との対峙に臨む事態に陥りつつあった。

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『秋津皇国興亡記』第1巻
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