271 男装少女の決意と恋慕
穂積貴通にとって、本当の意味で自分と景紀との関係が始まったのは“あの日”だろうと思っている。
後から考えれば、兆候はいくつかあった。
兵学寮第二学年に進み、徐々に胸が膨らんできて衣服とこすれて痛みを発するようになっていた、あの時期。貴通は数日の間、小さな体の不調に悩まされた。頭痛や軽い腹部の痛みなど、寝込むほどではないが何となく体がだるく感じられる日々が続いていた。
兵学寮の校医にも診てもらったが、特に異常は見つけられなかった(女であることを隠すための呪術的なお守りを身に付いていたのだから、当然だろう)。
そうしてやってきたのは、“あの日”だった。
まだ起床時間にもならない明け方、貴通は下腹部に鈍い痛みと違和感を覚えて目を覚ました。
怪訝に思った彼女は、窓から窓帷越しにかすかに差し込んでいる明かりを頼りにして、寝台の上で己の寝巻の裾をまくり上げてみた。
「うわぁっ!?」
同室の相手が二段寝台の下で寝ているのも忘れて、貴通は思わず叫んでしまった。彼女にとってそうせざるを得ないほどの衝撃的な事態が、己の身に起こっていたからだ。
「―――おい、何かあったか!?」
尋常ならざる貴通の声に、同室の相手―――結城景紀が飛び起きてしまったらしい。ここ一年以上の寮生活で俊敏となった寝起きの動作のままに、二段寝台の梯子に手をかけて上の段に顔を出してきた。
「なっ、何でもありません!」
思わず布団で自身の体を隠しつつ、貴通は後ずさって答えた。景紀は、怪訝そうな表情のまま貴通の寝台を覗き込んでくる。
「油虫(後世で言うゴキブリのこと)でも出たのか?」
「何でもありませんから!」
貴通は衝動的に襲ってきた危機感のままに、寝台に持ち込んでいた教本を引っ掴んで思い切り景紀に投げつけてしまった。
「んがっ!?」
それなりの厚みを持っていた教本が景紀の鼻面を直撃し、少年の姿が鼻血と共に寝台の淵から消えていった。
「お前ら、また喧嘩でもしたのか?」
その日の朝、寮の食堂で同期生たちから貴通と景紀は呆れた目で見られていた。
兵学寮入学当初に貴通が景紀を殴りつけた事件はすでに同期生の間では知れ渡っていたし、一年目と違って友人という意識は生まれていたにせよ、数年後と違ってまだそこまで景紀との親密さは生まれていなかった。
同室ということもありかえって喧嘩をしてしまうこともあったから、同期生たちから見れば自分たちの仲は喧嘩友達といったところだったろうと、貴通は思っている。
もっとも、その喧嘩のお陰で少なくとも同期生の間で貴通を“公家の軟弱者”と誹る声は少なくなっていたから、善し悪しではあったが。
その景紀は、鼻に血のついた脱脂綿を突っ込んでいた。頬には、教官から朝一で受けたびんたの後がはっきりと残っている(同じものは貴通の頬にもあったが)。
要するに、今朝の一件は教官たちによって同期生同士の喧嘩として処理されたということである。
貴通としてはひとまず安堵する一方、今後のことを考えると憂鬱であった。
貴通にも、男女の体の成長に関する知識はある。
というよりも、将家も公家も家の存続と繁栄のためには欠かせない知識であるため、貴通も穂積家の教育掛からそうした知識については、ある程度、伝授されていた(もちろん、教育掛は貴通を男子だと思っていたため、男子向けの内容ではあったが)。だから、女として体が成長していく最中に起こる変化も、貴通は知識として知ってはいた。
だけれども、それはもっとずっと先の話であるとも思っていたし、体が女として成長し始めていてもどこかで自分自身の体の変化から目を逸らしていた部分もあった。
少なくとも、当時の貴通は己の体の変化と正面から向き合えるだけの環境にいなかったのだ。
兵学寮でも、体が男として成長していく時期の男子たちを集めた場所であるため、教官や校医たちもそうした点には気を配っていたが、当然ながら男子と偽っている貴通の体の変化を気にする大人はいなかった。
胸が膨らみ始めていても、そして今朝、初めての月のものが現れたことも、誰にも相談出来なかったのだ。
自分を“男子”として兵学寮に送り込んだ父・通敏の目論見とは違い、女子であると認識させない呪具(お守り)だけでは、もうどうにもならないところまで来始めてしまっている。
その危機感が、ぐるぐると貴通の中で渦巻き始めていた。
貴通の感じていた腹部の痛みについては、結局のところ、彼女が己の正体を明かさなかったため、前日の食堂で出された食事に何か悪いものが入っていたのではないかという教官や校医たちの結論に落ち着かざるを得なかった。
この時代、食品衛生の技術が進歩していなかったため、人々が腹を下すことは特に珍しい現象ではなかった(最悪の場合、食あたりで亡くなる人間もいたが)。だから、貴通の症状に運が悪かったと多少の同情を示す者がいても、それ以上、深く詮索しようとする人間はいなかった。
たった一人、同室のあの少年を除いて。
一日の課業を終え、夜の自習時間(実質的な自由時間。真面目に自室で復習や予習をする者もいれば、寮の談話室で将棋などに興じる生徒たちもいる)になった。
貴通は、この時間になるのが怖かった。
今朝は景紀に対して、随分と理不尽なことをしてしまったという自覚はある。だから景紀の方から、今朝の件について追及されるかもしれないことが、怖かったのだ。
しかし、寮に住んでいる以上、貴通に逃げ場はなかった。
「……お前、隠し事抱えてんならもうちょっと気付かれないように振る舞えよ」
貴通がとにかく景紀から話しかけられないようにと机で予習に集中しているように見せかけていると、景紀が溜息交じりに問うてきたのだ。
先ほどから彼は、自分の寝台に腰掛けてじっとこちらの背中を見つめていた。
「今のお前の態度、『自分には隠し事があるけれど、それを追及されるのが怖いです』って丸わかりだぞ?」
「―――っ」
頁をめくろうとした貴通の手が、みっともなく震えてしまう。
「俺が無遠慮で無神経なこと言ってるのは承知の上だが、そんな態度でこれからもずっと同じ部屋で過ごすってなると、俺だけじゃなくお前も持たないぞ?」
景紀の口調は貴通を追及するようでいながら、かすかに案ずるような響きが混じっていた。
「……来年」
「ん?」
景紀からの追及を受けて、最初に貴通が発したのはそんな言葉だった。
「来年も、僕と同室でいてくれますか? 再来年も、その次の年も、卒業するまでずっと」
縋るような口調で、そう言った。自分でも何を口走っているのか、このときの貴通は判らなかった。
ただ、幼少期から誰一人味方のいない家で育ち、そして今また一人で秘密を抱えて過ごさなければならないという重圧で、心が軋みを上げていたのかもしれない。
そう考えると、穂積家では父と母(実母ではなく父の正室・時子)が貴通の正体を知っていたから、ある意味で楽な部分はあったのかもしれない。しかし兵学寮では、自分の性別は自分一人で隠し通さねばならなかった。
貴通の中で、秘密を隠し通さなければならないという思いと、もう楽になってしまいたいという思いが、複雑に絡み合っていた。あるいは、誰か一人でいいから自分に寄り添ってくれる人が欲しかったのかもしれない。
十一、二歳の少女にとって、もう心も体も限界だったのだ。
だから、入学以来、喧嘩をしつつも同じ部屋で共に過ごしてきたこの同期生に、助けを求めたかったのかもしれない。
「ああ、判ったよ」
貴通があまり聞いたことのない柔らかい声が、すぐ後ろから聞こえてきた。そして、自分の頭をあやすようにぽんぽんと撫でる手。
妙に慣れた手付きだなと思ったが、そういえば彼は葛葉冬花という“妹”がいたのだったか、と思い出した。
「来年も再来年も、その次の年も、卒業するまでずっと首席でいてやるから、お前も次席を維持出来るようにしておけよ」
秘密を抱え込む自分に寄り添ってくれると言う景紀の言葉に、貴通の涙腺が緩みそうになる。
「……僕が首席で、景紀が次席でもいいんですよ?」
だから貴通は、ちょっとした意趣返しのつもりでそう言い返した。この頃はまだ、景紀のことを「景くん」と呼んではいなかった。
「言ってろ」
景紀が、そう言って笑う。先ほどまで部屋の中に漂っていた緊張感が、それでなくなった。
「話、聞かせてくれるんだな?」
強要するような声ではない、そっと促すような景紀の言葉に、貴通は小さく頷いた。
その日、貴通は消灯時間になるまで、景紀に自らの生い立ちを語った。
景紀の寝台に二人揃って腰掛けながら、心の中に溜まっていた澱を吐き出すように、何もかも語ってしまった。
自身の秘密を明かしてしまったことへの後悔よりも、不思議な解放感の方が強かった。
景紀を秘密の共有者に出来たことで、貴通の兵学寮での生活もそこそこ安心出来るものになった。
膨らんできた胸を押さえるために景紀がどこからかさらし木綿を調達してきてくれたり(初めの頃は自分一人では上手く巻けずに、いつも景紀に手伝ってもらっていた)、月の障りがあった際には偽りの喧嘩をして鼻血を出して誤魔化したり(当然、担当教官からは二人揃ってびんたを喰らったりした)、時には女として医者に診てもらうことの出来ない貴通に代わって、休日の外出で景紀が密かに皇都の医者に相談しに行ったりもしてくれた。
皇都には将家や公家、そしてその家臣団がおり、彼らの中には妾との間に隠し子をもうけけた者もいる。そうした者たち相手に秘密厳守で相談や診察を請け負う医者も、皇都にはいたのである(もちろん景紀自身も、貴通を某諸侯の隠し子として、それを心配する異母兄という設定で正体を隠して相談しに行っていたらしい)。
景紀が六家としての権力を上手く使って、貴通の本当の名前である“満子”の名が書かれた戸籍の写しを宮内省宗秩寮などを経由して入手してくれたこともあった。
赤子のころに死亡したことにされていた、自分自身ですら知らなかった己の名前を、その日貴通は何度も指でなぞった記憶がある。
時には、ままならない自分の体と、それでも男として生きていかねばならない境遇の間で感情を持て余し、景紀に当たり散らしてしまったこともある。それでも景紀は、そんな自分を受け止めてくれた。
女として体が成長していく時期の心身の不安定さを、そうして貴通は景紀とともに乗り越えていったのだ。
だから貴通は、決めていた。
もしこの先、景紀がその立場故にのし掛かる重圧に押し潰されそうになったならば、今度は自分が彼を受け止めてみせよう、と。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
傾き始めた陽が差し込んでいる茶室の中に響いていたのは、衣擦れの音と荒い呼吸音だけだった。
そのどちらも、畳の上に組み敷かれた貴通が発しているものだった。
「……」
彼女の体に覆い被さっている景紀は、ただただ苛立たしそうな表情を兵学寮での五年間を共に過ごした少女に向けていた。
景紀が組み敷いた少女の身にまとっている衣服は、すでに哀れなものになっていた。
着物とシャツは前を完全にはだけさせられ、ただ腕が通っているだけの状態で畳の上に広がっている。胸を締め付けていたさらしも無残に解かれて、緩く体に巻き付いているだけとなっていた。
剥き出しになった小ぶりな膨らみには、赤くなった痕がいくつも残っている。
乱れた袴は下半身を緩く覆うだけになっており、女性でありながら締めている褌がそこから覗いていた。
景紀から与えられる刺激に頬は紅潮し、唇は荒い息を吐き出し、くねらせた体がさらに衣を乱れさせる。
あるいは一糸まとわぬ姿の方がまだましなのではないかと思えるほど、その姿は凜々しい男装の少女の姿とはかけ離れていた。
その暴力的で背徳的な行為で貴通を蹂躙しながらも、景紀はまだ最後の一線は越えていなかった。
八つ当たりそのものの感情をぶつけながらも、彼の中に芽生えた嗜虐心はまるで満たされていなかった。男としてこの同期生を弄んで、それですっきりするという確信がまるでなかったのだ。
あるいはもっと素直に、貴通に縋り付いてしまえば良かったのかもしれない。
それが出来なかったからこそ、景紀はこうした行動に及んでしまった。後悔や罪悪感といったものからくる、自己嫌悪。
「……何で、抵抗しない?」
その言葉は、自分の行為の責任を貴通に転嫁しようとする思いから出たのかもしれない。
景紀の頭のどこかで、貴通の方から逃げ出して欲しいという思いがあったのも確かなのだ。貴通の態度に苛立ちながらも、最初からずっと自分はこの同期生に甘えていたのだろう。
「だって」
景紀にずっとされるがままになっていた少女は、だというのに慈しみに満ちた視線で見返してきた。
「そんな、泣きそうな表情の景くんを、払いのけられるわけなんてないじゃないですか」
「―――っ」
その言葉に、景紀は顔を歪めてしまう。
貴通の台詞は、かつて兵学寮に入学した直後、彼女が景紀を散々に殴りつけてきた後に自分が言ったものと同じだったからだ。
「僕は言いましたよね? 辛いことも、悲しいことも、苛立つことも、僕が全部受け止めます、と」
その言葉に、景紀の眉間にますます皺が寄る。あるいはそれを見かねたのか、貴通が少し自虐的な表情を見せた。
「僕は、狡い女なんです。海城では女として景くんを慰めれば裏切りになってしまうと言っておきながら、やっぱり僕はそうやってあなたを慰めてみたいんです」
「満……」
景紀は、思わず彼女の本当の名を口にする。
貴通がそっと両手を伸ばしてきて、景紀の頭を自らの剥き出しの胸にいざなった。
「だから、これは僕の我が儘でもあるんです」
片手で景紀の頭を抱え、もう片方の手を背中に回しながら、貴通が優しく囁いた。
自分を抱きしめてくる貴通の体は、ひどく温かく感じられた。
「っぁ……」
悲嘆とも、哀惜とも、後悔とも、どの感情によるものか判らない小さな嗚咽が景紀の口から漏れた。
景紀もまた、堪えきれずに少女の柔らかな肢体に腕を回した。
背中に回された貴通の手が、景紀の背を優しく叩いた。幼子をあやすように、何度も、何度も、叩いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
いつしか、傾いていた陽は茜色になりつつあった。
「……みっともないところを見せたな」
互いに体を起こした後で、景紀はばつの悪い思いをしていた。未だ貴通は衣服を着直せておらず、体の前面が露わになったままであった。
そのかえって艶めかしい姿に、景紀は自分が彼女にしてしまった行為を思い出さざるを得なかった。
最後まで一線を越えることはなかったものの、服を暴き、その体に八つ当たりめいた感情をぶつけ、さらには胸に抱かれて男として格好の悪いところを見せてしまった。
貴通に対する申し訳なさと気恥ずかしさが、今の景紀を支配していた。
「ふふっ、でも少しはすっきりしたでしょう?」
だというのに、貴通はそれを何でもないことのように受け止めていた。それどころか、景紀の内心を見透かすような笑みを浮かべている。
確かに貴通の言う通り、彼女の胸に抱かれて行き場のなかった感情を受け止めてもらったことで、だいぶ気が楽になったような感覚があった。
「……ああ」
認めるのは何となく抵抗があったが、あそこまでしてもらって今さら見栄を張るわけにもいかなかった。ただし、貴通から視線を逸らしてはしまったが。
そんな景紀に、たたみ掛けるように貴通が言う。
「またお辛くなったら、いつでも言って下さいね?」
「お前なぁ……」
からかわれているのか本気なのか、抗議の声を景紀が上げようとしたところで、不意に貴通の両手に頬を挟まれた。
そしてそのまま、彼女の方を向かされる。
その唇に、柔らかな感覚が重なった。
目の前には、視界いっぱいに貴通の顔があった。
そっと、少女の唇の感触が離れていく。
「良い機会ですから、僕の気持ちもはっきりと伝えておこうと思いまして」
「満……」
確かに、これまで景紀は貴通から思慕の念があることを伝えられてはいた。しかし、将と軍師としての関係を重んじて、貴通は今までここまで踏み込んだ行為に及んだことはなかった。
「“貴通”として、これからも景くんを支えていきます。でも、“満子”としてあなたを慕うことを許して下さい」
切なげに瞳を揺らしながら、貴通はそう言う。
彼女にとっても、兵学寮で出逢って以来、九年にも及ぶ関係を男女のそれに変えてしまうことには、怯えと躊躇いがあるのかもしれない。
「許すも何もないだろ? お前は、“満子”なんだから」
貴通という偽りの名で呼びつつも、景紀はこの同期生が満子であったことを忘れたことはない。偽りだらけの少女が持つ、数少ない“本物”だったからだ。
途端、満子が堪えきれなかったかのように景紀にしがみついてきた。それを、景紀は受け止める。
「“満子”を受け入れて下さって、ありがとうございます」
その声は、かすかに震えていた。“満子”は景紀に必要とされておらず、軍師としての“貴通”だけが必要とされているのではないかという怯えが、もしかしたら彼女の中にあったのかもしれない。
「これからも、僕をお側に置いて下さいね、景くん」
景紀の腕の中で顔を上げた満子は、はにかむように笑った。
“穂積満子”という少女が本当の意味で生をうけたのは、あるいはこの日だったのかもしれない。
茜色に染まっていく茶室の中で、二人は心の中の空虚な部分を埋め合うように、その影を重ね合わせていた。




