240 当主廃立
宵は一睡もしないまま、日付が皇暦八三六年十月十八日から十九日へと変わるのを見届けた。
自室に掛けられた時計から、文机の上に視線を移す。
そこには、鮮やかな蒔絵に彩られた硯箱があった。昨年の夏、出征する直前の景紀から託された、二重底になっている硯箱である。
冬花の施した幻術によって、他の者にはこの硯箱が二重底になっていることは判らないようになっている。そして、一つ目の底に隠された二つ目の底に収められているのは、一冊の冊子であった。
そこに書かれているのは、冬花が妖狐としての聴力などを使って集めた、主要な家臣たちの情報。要するに、家臣個々人の弱みとなりそうな情報が冊子には書き連ねられているのだ。
別に、景紀は恐怖で家臣団を統制しようとは思っていない。しかし、彼は冬花以外の家臣からの忠誠を、無条件に信じられるほど無邪気な性格をしていないのだ。
それは、自分が景紀と初めて出逢ったあの婚儀の日の夜、景紀自身から聞かされたことだ。
その気持ちを、宵は痛いほどに理解出来た。
景紀自身が周囲から虐げられていたわけではないが、彼は周囲から蔑まれ、虐げられる冬花をすぐ側で見ていた。
そして宵自身もまた、故郷・鷹前の城で本来であれば家臣であるはずの者たちから虐げられて育ってきた。
だから自分も景紀も、家臣であるはずの者たちからの忠誠を無条件で信じることが出来ないのだ。
その意味では、自分と景紀はよく似ていた。
景紀はこの冊子に書かれている情報を得るために後ろめたさは感じていなかったであろうし、自分も景紀から託されたこの冊子を用いることに躊躇いはない。
もちろん、弱みを握るだけで他者を思い通りに操れるとは自分も思っていないし、景紀も思っていないだろう。
だから景紀は、家臣団の前では有能な次期当主の姿を演じようとする。
家臣との関わりを避けたいがために当主を継ぐ前から隠居願望を口にしている彼の姿を知っている宵からすれば滑稽ではあったが、景紀の示す次期当主としての能力は家臣団から一定の求心力を得るまでに至っていた。
少なくとも、景忠公の命を公然と無視したとしても、景紀は自身の直率する領軍将兵を掌握し続けることが出来るであろうし、領軍将兵が集団で景紀の下から離反することはないだろう。宵はそう確信していた。
それに、鉄之介にも言ったように、振り上げた拳を叩き付ける相手が必要だ。領軍将兵の中にも、このままでは収まりが付かない者たちがいることだろう。
一方で自分はどうかといえば、対斉戦役で景紀不在中、景忠公とその側近、そして重臣たちの間で調整役となっていたという自負がある。家臣団内の南進論者たちからも、支持を受けている。
ただし、宵自身はあくまで結城家に嫁いできた身であり、結城家家臣団にとって純粋に忠誠を向ける相手とはいえない。家臣団が宵の立場を尊重するのは、あくまでも自分が次期当主の正室であるからだ。
後継となる男子を産んでいればまた違ったのだろうが、今はまだ結城家における宵の立場を明確に保証するのは景紀の正室であるということだけなのだ。
その自分が、これから結城家の全権を掌握しようとしている。
そのためには、自分がこれから起こす行動に、家臣団の多くが納得することが必要なのだ。
かつて結城家筆頭家老・益永忠胤は自分に対して、家臣団の利益とならない限り家臣が積極的に動くことはないと言ってきたことがある。実際宵自身も、景紀に嫁いだ当初の自分は故郷の経済振興にばかり意識が向きすぎており、結城家次期当主正室として家臣団に利益を示すことが出来ていなかったと反省している。
そう、次こそは上手くやると、自分はあの時に決意したのだ。
その意味では、自分や景紀とは逆に、景忠公は結城家家臣団の忠誠心を過信しすぎているように宵からは見えた。
伊丹・一色陣営との、屈服に近い形での和睦。
それを、当主の決断だからと家臣団が従順に従うと信じているのだろうか。冬花の景紀に対する忠義を信じ切れずにいるというのに、自身に対する家臣団の忠誠は疑わないという矛盾。
少なくとも、宵は納得していない。鉄之介も、景忠公への反逆を畏れ多いと思いながらも、やはり納得していない。
「つくづく、私は“父親”を陥れる運命にあるようですね」
冊子を再び硯箱の底に隠しつつ、宵はそう呟いた。
景紀に嫁いだ時には、自分はただ夫となる少年の機嫌を損ねないように上手く取り入って、故郷の民たちに利益をもたらそうということしか考えていなかった。それが今や、結城家そのものの実権を手中に収めようとしているとは、たった二年で随分な変化だと思う。
かつて諦観だけで生きていた自分が、たった一人の少年との出逢いでここまで変わるとは思ってもみなかった。
「景紀様。今回の件は景紀様に対しても不義理となってしまうかもしれませんが、どうかお許し下さい」
宵はそっと硯箱の表面をなぞった。
景紀自身も景忠公の政治的姿勢には不満を覚えているようだが、それでも景忠公が彼にとって実の父親であることには変わりがない。
その実父を、正室である自分が失脚させるのだ。景紀に複雑な思いを抱かせてしまうことは、必至だろう。
だが、だからといって、景忠公から結城家の実権を簒奪するという宵の決意は揺るがない。
彼女は静かに、自室を出た。
景忠公からは、自身の命令に服さない景紀を宵に説得して欲しいと言われている。表御殿にある当主の執務室では恐らく、景忠公や側用人・里見善光と共に、呪術通信のために葛葉英市郎が控えていることだろう。
「鉄之介殿」
廊下の柱に、一羽の紙の蝶がとまっていた。鉄之介が作った、式であった。
「よろしいですね?」
尋ねながらも、宵の口調は命令するようであった。
『……ああ、判った』
呪術通信用の術式が組み込まれた蝶の式から、鉄之介の固い声が返ってきた。
「では、始めるとしましょう」
◇◇◇
結城景忠にとって、宵姫は息子・景紀の暴挙を止めるための最後の頼みの綱であった。
もし宵姫の言葉すら景紀が聞き入れようとしなければ、彼は完全に謀反人となってしまう。景忠は、たった一人の息子を謀反人として討伐することに苦悩に等しい葛藤を抱いていた。
このままでは景紀は皇主に対する逆賊となり、結城家に対する謀反人となってしまう。これまで伊丹・一色両公は景紀の新海諸島への追放に留めようとしてくれていたが、こうなっては両公も景紀に対する態度をより硬化させてしまうだろう。
そうなれば、景忠としても息子を庇いきることは出来ない。
「……景忠様、宵、ただいま参りました」
景忠が執務室で懊悩を続けていると、ようやく宵姫がやってきたようであった。景忠は里見善光に頷き、それを受けた里見が執務室の扉を開ける。
「宵姫、このような夜更けに済まない」
「いえ、私もこの状況で寝ることは不可能でしたから」
執務室に入ってきた宵姫は、いつも通りと言うべきか、共として葛葉鉄之介と風間菖蒲を伴っていた。その表情も普段と同じ無表情で、景忠が景紀の説得を頼んだことに対する動揺らしきものは浮かんでいなかった。
「宵姫、すでに聞き及んでいると思うが、景紀が私からの命令を無視して未だ領軍の一部を掌握し武装したまま皇都に留まっているのだ」
沈痛な面持ちで、景忠は続けた。
「残念ながら、あの子は私の言葉を聞き入れようとはしてくれない。だが宵姫、貴殿の言葉ならば景紀に届くかもしれん。どうか、あの子を止めて欲しいのだ。このままでは、景紀は逆賊となり、謀反人となってしまう。宵姫、貴殿もすでに景紀の子を身籠もってしまっている。今さら離縁は出来ず、貴殿にまで夫である景紀の累が及ぶことになろう。お腹の子のためにも、どうか景紀を説得して思い止まらせて欲しい」
景忠の言葉には脅すような響きはなかったが、それでもその発言の内容は生まれてくるであろう景紀と宵の子を人質に取ろうとするかのようなものとなってしまった。
もちろん、景忠としては息子と宵姫、そして生まれてくるであろう子の命を守ろうとしての言葉ではあったのだが。
「景忠様」
宵姫が、やはりいつも通りの淡々とした口調で口を開いた。
「伊丹・一色両公との和睦を結ぶという決意は、今も揺らいでおりませんでしょうか?」
「ここで和睦を結ばねば、結城家そのものが逆賊となってしまう。皇都や河越の民も多くが犠牲になる。それは、何としても防がねばならないのだ」
「それが、景忠様のご決意なのですね?」
念押しするように、宵姫が問うてきた。
「私と景紀の間で板挟みとなっている宵姫殿の心境を察するが……」
「いえ、察していただく必要はありません」
景忠の言葉を遮って、宵姫が言う。一瞬、この結城家現当主の顔に怪訝そうな色が浮かんだ。
「景忠様のご存念はよく判りました。では、私の決意も申し上げさせていただきます」
刹那、宵姫のまとう雰囲気が鋭いものに変わった。
「今この時より、景忠公を領軍憲兵隊の拘束下に置かせていただきます」
景忠がその言葉の意味を理解する前に、執務室に武装した兵士たちが雪崩れ込んできた。
「無礼者!」
咄嗟に反応したのは、呪術通信のために部屋に控えていた葛葉英市郎であった。
「縛縛縛、不動戒縛!」
だが、兵士たちに対して呪符を放とうとしたところを鉄之介の呪文が襲い、さらに呪符を挟んだその手に菖蒲の放った苦無が突き刺さる。
「ぐっ……」
呻きと共に、葛葉英市郎は己の手を押さえた。
「鉄之介、お前……、何故……」
英市郎は信じられないものを見るかのような視線を、自らの息子に向けていた。その間に、部屋に乱入した憲兵隊が景忠公を拘束していく。
「血迷ったか、宵姫!」
両腕を兵士に掴まれながら、景忠は怒鳴った。
「貴様らも何をしている!? 私は結城家当主であるぞ!」
その叫びに、鉄之介や兵士たちは気まずそうに目を逸らすが、景忠を解放する気配はない。彼は、なおも宵姫に対して怒鳴った。
「このままでは、景紀は逆賊となる! 皇都も河越も焦土と化す! 結城家も破滅だ! それでも構わないと、貴殿は言うのか!?」
宵姫は拘束される景忠を冷ややかな目で見つめながら、口を開いた。
「景忠公、あなたは結城家当主でありながら結城家を伊丹・一色両公に売り渡そうとしました。それは私の夫たる景紀様だけでなく、結城家そのものに対する裏切り行為です。真の謀反人となるべきは景忠公、あなたの方でしょう」
「何を世迷い言を……」
そこで、景忠は気付いた。兵士たちに続いて、益永忠胤ら結城家重臣たちも執務室に入ってきていたのだ。
そしてよくよく見れば、兵士たちによって拘束されているのは景忠自身と彼を守ろうとした英市郎のみで、側用人の里見善光は部屋の隅で一連の出来事を眺めているだけであった。
そのことに景忠は衝撃を受けると共に、打ちのめされる思いであった。
「……貴様ら、全員裏切ったというのか!?」
「御館様」
一歩、前に出てきたのは筆頭家老・益永忠胤であった。
「御館様に対する不忠は無論承知のこと。しかしながら、我らは伊丹・一色両公と戦わずして屈服することを潔しとはしません。このまま両公に膝を屈すれば、結城家の衰亡は必定。南洋へと利権を拡大しつつある今、多くの家臣は御館様のご決断に納得していないのです」
「景忠公」
益永の言葉が終わるのを見計らって、宵姫がまた冷厳な声で言った。
「穏やかに隠居し、景紀様に家督を譲ると宣言していただければ、それ以上に望むことはありません」
「……」
「ご承認いただけますね?」
念を押すような宵姫の言葉が、景忠の頭の中で何度も反響していた。
執務室を後にした宵は、葛葉鉄之介、風間菖蒲の他に筆頭家老・益永忠胤、景忠公側用人・里見善光など結城家家臣団の中枢を占める者たちを従えて廊下を歩いていた。
「……」
「……」
宵は、背中で益永と里見が無言の対立を繰り広げていることを察していた。
どちらも主君である景忠公を裏切ったことには変わりないが、特に里見は景忠公から重用されて今の地位にまで引き上げてもらった人物である。そのような人物があっさりと主君を裏切ったことに、益永としても納得し難い思いを抱いているのだろう。
かといって、彼自身も景忠公を裏切った身であるために、里見に対して何も言うことが出来ないのだ。
「益永殿、里見殿には景紀様不在の間、私の補佐官として働いてもらいます。納得しろとは言いませんが、理解はしておいて下さい。他の重臣の皆様も、です」
「はっ……」
立ち止まり背後を振り向けば、益永はいささか不承不承と言った形で頷く。
実際問題、宵には鉄之介や菖蒲といった護衛として重宝する家臣は存在していたが、政治面で補佐してくれる家臣が存在していなかった。景紀不在の結城家で、その全権を宵が掌握するためには、どうしても当主の側近中の側近として里見の持つ当主周辺の情報が必要であったのだ。
そして里見善光も側用人という地位故に、結城景忠が失脚すれば彼自身も失脚する。その意味では景忠公が異母弟・景秀に家督を譲るという伊丹・一色陣営との和睦は、里見にとっても許容しがたいものであったのだ。
そこを、宵は突いた。
里見の失脚は景紀が当主となっても同じことだが、そこを宵の補佐官として地位を保証してやれば、当主の世代交代に伴う失脚や粛清の恐怖から免れることが出来る。
冬花のように主君への忠義で生きているわけではなく、ただその地位に固執する人物であったからこそ、宵の説得は容易ですらあった。
里見は側用人を務めるだけあって補佐官としての能力だけを見れば、優秀なのだ。景紀も冬花も貴通もいない状況下で、宵にとって彼の能力と経験は捨てるには惜しいものであった。
ただし、だからといって宵はこれまでのように重臣勢力と景忠公側近勢力との対立を許すようなことはしなかった。
「里見殿、差し当たってあなたはこれまで側用人として作成した文書すべてを私と重臣に提出して下さい」
「はっ、承知いたしました」
主君を裏切った後ろめたさはやはりあるらしく、従順な口調ながらも里見の顔には苦いものが存在していた。
彼はこれまで、結城家の意思決定過程を景忠公と自分を中心とする側近勢力の間で完結させようとしていた。その際に作成した文書を大量に持っていることを、宵は景紀から託された家臣たちの弱みが記された冊子で知っていた。結城家皇都屋敷に保管していたものは焼却処分してしまっただろうが、河越城に保管している文書をまだ隠し持っていることを、宵は冬花の収集した情報から把握していた。
この他、皇都や河越の妾宅にもいくつかの文書を隠匿していることを、宵は知っていた(秘密にしておきたい文書や書簡を妾宅に隠しておくことは、里見善光に限らず政治家や官僚がよくやる手)。
冷ややかな宵の視線に晒されて、里見善光は恐懼しているようであった。そんな男から、宵は筆頭家老・益永忠胤に視線を移す。
「では益永殿、主要な家臣を接見の間に集めて下さい。景忠公が隠居を決意され景紀様に家督を譲られたこと、そして皇都での内乱に関する結城家としての決意を、改めて皆に布告いたします」
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皇暦八三六年十月十九日の黎明を迎えつつある皇都で、景紀と貴通は“それ”を見上げていた。
「随分と物騒な仕上がりになったな」
「そうしろと命じたのは景くんですけどね」
呆れ気味に言った景紀に、貴通がくすりと笑う。
結城家領軍が占拠している皇都北部の田隅操車場は、総野国を除く皇都以北の結城家領や東北地方からの官営鉄道の路線が集結する場所である。
その操車場には今、結城家領軍の工兵隊の将兵たちが機関車や貨車、客車に取り付いて大わらわで夜通し続けていた作業の成果が鎮座していた。
「構想自体は列強各国であったらしいが、研究開発もせずに急場で作り上げることになるとはな」
景紀たちの目の前で存在していたのは、後世で言うところの“装甲列車”であった。鉄道が軍事利用され始めた当初から列強各国で同種の構想が持ち上がってはいたが、未だ実現に至ってはいなかった。
それを景紀は、反乱軍の防衛線突破のための手段として、工兵隊に対し急ぎ既存の列車を改造するように命じて実現しようとしていたのである。彼にとってみれば、以前、貴通たちに話した“砲を乗せた自動車”構想の拡大版といったところであった。
景紀の目の前にある急ごしらえの“装甲列車”は、多銃身砲を搭載し頑丈な木材や鉄板で装甲を施した貨車を先頭に、その後ろに十一年式七糎野砲一門を搭載した砲車、十三年式三十七粍歩兵砲二門を搭載した砲車が続き、砲の射撃指揮を行うための観測機器などを搭載した指揮車がその後ろに、機関車、炭水車を挟んでさらに歩兵などを乗せるための客車・無蓋貨車が続く。
ただ、歩兵砲はともかく野砲は射撃時に砲架が後退するための空間が貨車の中にあるのかどうか疑わしく、辛うじて土嚢で砲架を受け止める構造になっていた。最悪の場合、一度の射撃で貨車が壊れるだろうと工兵隊の指揮官から説明を受けている。せいぜいが、こけおどし程度の役割しか果たせないだろう。
とはいえ、田隅操車場から皇都中央駅までの短い距離を突破するだけなので、多少、改造に至らない点があっても許容するしかない。
すでに工兵隊による改造を終えた列車に砲兵部隊が弾薬を積み込み、歩兵部隊が客車に乗り込み始めていた。
結城家の私鉄会社から徴用された機関士たちもすでに乗り込み、蒸気機関の運転が始められている。
誰かが験を担いでなのか、かつて景紀が帯城倭館で戦った時に掲げたのと同じ菊水紋が機関車に描かれ、そして「非理法権天」の幟が朝風にはためいていた。
「じゃあ、俺たちも乗るか」
そう言って景紀が先頭の多銃身砲車に向かおうとすると、その腕を掴んだ者がいた。
「若、指揮官先頭は結構ですが、前の車両に乗っているは私の部下たちです」
景紀の腕を掴んでいたのは、独立混成第一旅団麾下の独立野砲第一大隊を率いている永島惟茂少佐であった。
「前の車両には自分が乗り込みます。若は宮崎大佐殿と一緒に後方の客車に乗っていて下さい」
それは、景紀の身を案じる言葉であった。確かに、機関車より前側の車両は敵の砲火を受けやすいだろう。
「……」
見れば、歩兵部隊を率いる宮崎茂治郎大佐も永島少佐に同意するように頷いていた。
「……この場の最高指揮官は俺だ」
「ですが、前の車両に乗っているのは自分の直属の部下たちなのです」永島少佐はなおも食い下がった。「それに、若が斃れればすべてが瓦解します」
景紀は一瞬だけ唇を硬く引き結んでいたが、結局は永島少佐らの懇願に近い言葉を受け入れた。
「判った。今回に限って、貴官が先頭で俺が後だ。……行くぞ、穂積大佐」
「はい」
景紀は永島少佐と宮崎大佐に背を向けて、後方の車両へと向かっていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
まだ夜明け前の河越城では、結城家の主要な家臣たちが接見の前に集められていた。
すでに城内での政変、当主を強制的に隠居させる“主君押込”が発生したことは、多くの者たちの知るところとなっていた。
ただ、宵自身がこの主君押込を主導したと理解している者は、事態に関わっていない者たちの間では意外と少なかった。下級の家臣たちは、これまで側近のみを重用してきた景忠公に不満を募らせた重臣勢力が、夫・景紀不在の宵姫を傀儡化して起こしたものではないかと噂していたのである。
実際のところ、宵がそうした重臣勢力の不満を利用して景忠公を廃立したことは事実であったが、あくまで主君押込を主導したのは宵自身であった。
彼女自身も、重臣勢力の傀儡となる気はまったくなかった。
接見の間の一段高くなった上段の間から集まった家臣団を睥睨するようにしながら、宵は彼ら一人一人の表情を見回していた。
筆頭家老・益永忠胤は流石に生真面目な表情を貫いていたが、他の執政・参与といった重臣たちは主君押込に賛同してしまったことへの後ろめたさもあるのか、気まずそうに周囲からの視線を気にしている者も多かった。
そうしたこともあり、接見の間にはどこか落ち着かない雰囲気が流れていた。伊丹・一色陣営に恭順する姿勢を示していた景忠公を隠居に追いやったまでは良かったのだろうが、それで将来の展望が明るいものとなったかどうかは、家臣の誰も確信を持てていなかったのである。
そうした不安を、宵は払拭しなければならなかったのだ。
かつて実父・佐薙成親に誘拐された直後、宵は朝食会議の席上、重臣たちに向かって自身の決意を述べたことがある。あの時の自分は益永の視線と、場の雰囲気に気圧されてしまっていた。
しかし、今はそこまでの重圧を感じていない。この二年で、色々な修羅場を潜り抜けてきたからかもしれない。
「皆の者、よく集まってくれました」
宵は、接見の間によく響くように口を開いた。未だ十七という年齢と小柄さ故に威厳には欠けていたが、それでも次期当主正室としての堂々たる態度で家臣団と対峙している。
「すでに聞き及んでいる者もいるでしょうが、景忠様は先ほど、景紀様に家督を譲られて自らは隠居すると宣言されました。故に私は、新たに結城家当主となった景紀様の室として、皆に申し上げます。景紀様はなおも領軍を率い、皇都を占拠する者たちと対峙を続けています。皇都は今、伊丹正信公と一色公直公が、本来であれば刑部宮殿下の率いるべき部隊を不当に掌握し、占拠していることは皆も承知のことでしょう。そして両公はあろうことか宮城に陛下を軟禁し、我が結城家に対して景紀様を逆賊として処罰せよと迫ってきました」
昨日、景忠公が伊丹・一色両公との和睦を家臣団の前で宣言した際、両公からの使者が告げた和睦の条件については明らかにしていなかった。それを宵は、暴露したのである。
そのことに、家臣団の間に一瞬の動揺が走った。
「先の対斉戦役では景紀様御自らご出陣されながら、伊丹・一色両公の策謀により皇主陛下からの御嘉賞に与る栄誉を奪われ、叙勲の機会すら与えられておりません。かくまで結城家の武勇が侮辱されておきながら、なおも景紀様を逆賊と誹る伊丹・一色両公に阿ろうとするならば、それは御家に対する重大な裏切り行為と言わざるを得ません」
宵は「御家」という言葉を使い、主君押込を結城家という集団を守るための行為であったと正当化した。
「結城家は景紀様のご活躍もあり、南泰平洋に新たな所領を得ることが出来ました。その成果を、みすみす我らは伊丹・一色両公に譲り渡すことが出来るでしょうか?」
そこで宵は一拍おき、並み居る家臣団たちを見回した。自分の言葉が、彼らに染み渡るのをそれぞれの表情を見て確認する。
宵は景紀の功績を強調しつつ、それによって家臣団が得ることになる利益も示した。景紀が家臣団に恩恵をもたらしたのだと主張することによって、未だ家臣団の中に残っているだろう景忠への忠義を景紀へと移そうとしたのである。
その意図が十分に彼らに伝わったのを確認して、宵は再び口を開いた。その口調は、徐々に力強さを増していった。
「今ここで伊丹・一色両公に降り我ら結城家を一諸侯に転落させるか、あるいは伊丹・一色両公を討ち御家を守るのか、答えは一つしかありません。我ら結城家は、そのような非義に断じて屈することはないと、あまねく天下に知らしめましょう。我らは皇都へ領軍を進めた景紀様をお支えし、結城家二十余代にわたる遺跡を守り抜くのです!」
最後は半ば叫ぶような口調になりながら、宵は一息に言い切った。実質的な結城家御台所となった彼女の決意と覚悟の籠った視線が、居並ぶ家臣団たちを貫いていく。
その視線に促されるように、家臣団たちは一人、また一人と平伏していく。
「……御台所様、これが、我らの意思にございます」
その様子を見ていた筆頭家老・益永忠胤がそう言い、彼もまた平伏する。
「……」
宵はもう一度接見の間全体を見回し、そして重々しく頷いた。
ここに、宵による河越の全権掌握は成ったのである。




