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【書籍化】秋津皇国興亡記  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第十二章 皇都内乱編

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229 五摂家の参内

 伊丹正信と一色公直、そして斯波兼経の六家三当主による謁見から約三時間後の十八日午前十一時、五摂家の当主たちは揃って参内を果たすことになった。

 伊丹・一色両公と政治的に提携し、新政権の樹立に伴って政治的復権を成し遂げようと目論む彼らにとって、現在の状況は望ましいものであった。

 伊丹・一色両公による拝謁は攘夷派の暫定政権樹立という目的を達せられず、結果として五摂家に対して皇主からの諮問が下る可能性が生み出されたからである。もし両公の奏上のみで皇主が攘夷派が権力を掌握することを追認していれば、五摂家はこれまでと同じように家柄だけの存在に留まったままであったろう。

 皇主の諮問が五摂家に向かうことで、藤澤家の末裔たちはかつての摂関政治の時代と同様とまではいかないにせよ、政治的な発言力を強めることが出来るのだ。

 実際の政治権力は世俗の権力者が担い、皇主の権威がその権力の正統性を裏付けるというのが、これまでの皇国の政治の伝統であった。六家による支配体制自体が、皇主を盟主とする盟約によって保証されていることからも、それは明らかであった。

 このように、秋津皇国という国家の連続性と歴史に基づく権威を万世一系の皇主が担う「国体」と、その時代ごとの権力者によって作り上げられる権力行使の態様である「政体」との相互作用が、皇国が一〇〇〇年以上にわたって続けてきた統治形態の根本であった。

 だからこそ、常に世俗の権力者たちは手にした権力を「国体」である皇主の権威と結びつける必要があった。

 五摂家は、今まさに権力を手中に収めようとしている伊丹・一色両公と権威を担う皇主との間を取り持つという役割を担うことによって、政治的復権を果たそうとしているといえた。

 この時、五人の当主たちは伊丹正信を征夷大将軍に押し上げることで事態を収拾するという策を、皇主に奏上するつもりであった。伊丹正信公自身も一色公直公の説得などもあって征夷大将軍として諸侯の頂点に君臨することに前向きになっており、その点で伊丹・一色両公と五摂家の思惑は一致していた。

 しかし当然、伊丹・一色両公の側は五摂家の政治的復権に警戒感を示しており、それは五摂家の側でも感じ取っていた。両公よりも先に参内して皇主に拝謁することを許されなかった時点で、伊丹・一色両公の態度はあからさまであったからだ。

 もちろん、現状で実際の権力を掌握し、さらには軍事力までもを手にしているのが伊丹・一色両公である以上、五摂家の側が両公に対して強硬な態度に出ることは出来ない。ある程度は、両公の意向に従った形で動くしかなかった。

 とはいえ、それだけに甘んじているつもりは、五人の当主にはなかった。

 征夷大将軍の推奏についても、五摂家には五摂家独自の構想があった。それは、現在の内閣総理大臣と同じく、代替わりごとの推奏制にすることである。世襲制では結局、皇主の五摂家に対する諮問は今回限りとなってしまう。

 五摂家の合議によって次の征夷大将軍を選び、その者に大命を降下させるという形式をとれば、以後も五摂家は征夷大将軍の選出に際して政治的影響力を行使することが出来る。武家の側も、推奏を担う五摂家に対して配慮せざるを得ない。

 そして西洋の古代帝国のように、元老院のような皇主の諮問機関を創設することで、近代国家の中での五摂家の政治的役割を制度化・永続化することまでもを目論んでいた。

 つまりは、現在の六家と内閣・議会との関係を、元老院と征夷大将軍の関係に置き換えて、その元老院の座に五摂家が就こうということである。いわゆる「貴族共和制」に近い政体を、五摂家の当主陣たちは構想していたといえよう。

 皇主が実際の政治権力を持たない以上、「貴族共和制」という政体は皇国において一定程度の現実性を持つ統治形態ではあった。

 そうした思惑を伊丹・一色両公には隠しつつ、五人は皇主への拝謁に臨むこととなった。


  ◇◇◇


 しかし、五摂家の当主が拝謁した皇主の態度は、決して彼らに楽観視を許すようなものではなかった。

 五摂家の総意として、今回の事態を収拾するためには伊丹正信公を征夷大将軍の地位に就けて軍と攘夷派、そして全国の諸侯を統制することが必要であると奏上したのであるが、皇主はこれを受け入れなかったのである。

 その上で、帷幄上奏権を持つ六家や自らの職掌事項に関する上奏権を持つ国務大臣、あるいは常時輔弼の任を担う内大臣などと違い、何らかの上奏権や常時輔弼の任を持たない五摂家が諮問をする前から自分の意見を奏上することは不適当ではないかと、逆に叱責を受けることとなってしまったのだ。

 実際、諮問が行われていないにもかかわらず五摂家が自らの意見を皇主に述べることについて、法的根拠は極めて不明確であった。

 さらに皇主は、文部大臣を務める穂積通敏が大臣としての立場よりも五摂家としての立場を優先していることについても不快感を示した。

 首相が殺害された今、内閣において首相臨時代理を務めるべきは穂積通敏であった。首相の身に万が一があった場合、後継内閣の成立まで首相臨時代理を務める者は、宮中席次によって自動的に決定される。

 そして、恒松内閣では内閣総理大臣であった恒松宗長伯爵に次いで、五摂家当主である穂積通敏が最も高い宮中席次を持っていた(本来は元摂関家である五摂家の方が伯爵よりも宮中席次は上であるが、この場合は総理大臣としての宮中席次が優先される)。であるにもかかわらず、穂積通敏が首相臨時代理として内閣をまとめようとしていないことを皇主は指摘したのである。

 しかし、穂積通敏は首相臨時代理として閣僚たちをまとめようにも、それが出来ない事情があった。要するに、兵部大臣である坂東友三郎が宮中の御霊部に身を寄せているため、生き残った閣僚たちで閣議を開くことが出来なかったのである。

 もし閣議を開ける状況であえば、恐らく伊丹・一色両公からの圧力によって各閣僚が辞表を書き、それを首相臨時代理である通敏が取りまとめて奉呈するという形になっていただろう。

 そうなれば、皇主の意向がどうであれ、確実に後継首班の推奏が行われることになる。

 坂東兵相の行動は内閣総辞職の手続きを妨害するという意味で、伊丹・一色両公による攘夷派新政権成立のための阻害要因となっていたといえよう。

 とはいえ、伊丹・一色両公は六家当主として内閣その存在そのものを軽んじていたから(実際、宮中席次という意味でも六家当主は内閣総理大臣よりも上であった)、首相が殺害された段階で内閣総辞職の手続きを踏まずとも自分たちの奏上によって新政権の樹立は見込めると考えていた。結果として皇主の言葉によって出鼻を挫かれた形になってしまい、今になって坂東兵相の存在が暫定政権樹立のための明確な阻害要因となり始めたということになる。

 あるいは、内閣制度の運用に忠実であろうとする皇主と、伊丹・一色両公および五摂家当主陣との間の認識の相異が、このような事態をもたらしたと言えるかもしれない。

 もちろん、その背後には坂東友三郎が真っ先に暫定政権樹立の不可を皇主に奏上したことがあり、それを皇主が受け入れた結果があるのだが、七人の当主たちは知るよしもなかった。

 ある意味で、坂東友三郎を取り逃がしてしまったことは、結城景紀を取り逃がしてしまったこと以上に、蹶起部隊にとっての痛恨事であったといえよう。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


「伊丹・一色両公や五摂家は陛下から望んだ言葉を引き出せず、皇都中心部に迫りつつある結城家領軍は皇軍相撃の覚悟がないのか単に兵力不足なのか足踏み状態。状況はどうにも、政治的にも軍事的にも手詰まりに陥ってしまっているようですなぁ」


 状況を分析にするにしては緊張感のない声が、宮城内の書陵部庁舎に響いていた。


「斯波公、貴殿も六家当主ならばもう少しこの事態に対して毅然とした対応を取っていただきたい」


 きつい口調でそう言ったのは、兵相・坂東友三郎海軍大将であった。彼の視線の先には、机の上に広げられた皇都の地図を覗き込んでいる斯波家当主・兼経がいる。


「そうは言われましても、私が説得したところで伊丹公も一色公も聞き入れないでしょうし、私一人の奏上で陛下が何かをご決断なさるということもないでしょう」


 諦観というよりは達観したような口調でそう言うのだから、坂東兵相としても頭が痛かった。もう少し斯波公が六家当主としての毅然とした対応を取っていれば、皇主から反乱軍討伐の勅命を賜ることが出来たかもしれないと、そんなことを思ってしまう。


「それで、斯波公はいつまでここに留まっておられるつもりか?」


 そう問うたのは、御霊部長・浦部伊任であった。

 斯波兼経は皇主への拝謁を済ませた後、屋敷に戻ることなく宮中に留まっていたのである。


「この事態の決着が付くまでは、ここに留まっているつもりですよ。一度屋敷に帰れば、再び参内出来るとは思えませんしね」


 斯波兼経が宮城に入ることが出来たのは、蹶起部隊の下士卒たちにまで蹶起の趣意が徹底されていなかったことと、彼自身が蹶起部隊から狙われていなかったことが大きい。

 しかし、伊丹・一色両公に先んじるようにして参内していた以上、両公は今後、兼経の動向を警戒するようになるだろう。屋敷に戻ったまま蹶起部隊によって軟禁されるようなことになれば、兼経は政治的に無力化されてしまう。それを避けるために、依然として宮中に留まっていたのである。


「私としては貴殿の思惑の方が気になるところではあるのですがね、浦部殿?」


 と、今度は逆に斯波兼経の方から問いかけがあった。


「明らかに結城家に肩入れするように情報を流す。傍から見れば特定の六家と手を結んでいるようにしか見えぬのだが?」


 代々、皇室に仕える術者であった浦部家であったが、今回の変事において現当主・伊任は間接的に結城景紀を支援しているように見えた。その真意が、兼経は気になっていたのである。

 そして、浦部伊任の答えは明確であった。


「攘夷派は陛下の御宸襟を悩ます存在。伊丹・一色両公がそれを統制出来ぬと言うのであれば、結城の領軍に討伐させるまでのこと」


「その結果、皇軍相撃が起こり、皇都が焦土と化そうとも?」


「それは補弼の任を十分に果たすことの出来なかった六家の責任であり、陛下と皇室の責任ではない」


 伊任は、冷厳とも思える口調でそう言い切った。そして、いつも通りの厳つい顔で斯波兼経を見据える。


「皇軍相撃と皇都の焦土化を憂えているのならば、六家当主たる貴公が動くべきであろう?」


「これは手厳しい」


 そう言いつつも、斯波兼経の態度は変わらない。相変わらず、決断を避けようとするように、のらりくるりとした口調のままである。


「そうは言われましても、私一人の力ではこの状況を好転させることは出来ませんよ。五摂家まで伊丹・一色陣営に付いた以上、陛下もどこまでこの反乱を否認するご意思を保ち続けられるのか」


 しかし、そうした口調でありながらも、斯波兼経自身は今回の変事を快く思っていないようであった。


「ただまあ正直なところ、攘夷派政権下では息苦しい思いをしそうですから、私としてはそのような政権が誕生するのは困りものですがね」


 そういえばこの人物は、有馬貞朋公と共に六家当主陣の中で真っ先に不逞浪士取り締りを言い出した人物だったな。彼の発言を聞いていた坂東友三郎と浦部伊任はそう思った。

 政治家というよりは文化人とでも言うべきこの六家当主は、美しければ西洋の芸術でも東洋の芸術でも、分け隔てなく受け入れてしまう。西洋の排斥を謳う攘夷思想とは、相容れない性格の持ち主だろう。

 とはいえ、だからといって斯波兼経公は自分から積極的に状況を打開しようとする意思は希薄なようではあったが。


「ただ、少なくとも現状、伊丹・一色陣営は既成事実を積み上げることには成功していますからな。これを突き崩せるのは、政治的には陛下のみ。しかし、我が皇国の国体からして陛下が主体的な決断を下されることは難しい。となれば、後は実力を以て両公の既成事実を打破するしかないでしょう。それが出来るのは、現状では結城家のみ」


「結局、戦って勝敗を決さねばこの事態は収まりませんか……」


 明らかに事態を穏便に収拾させようとする気配が希薄な浦部伊任、そして六家当主でありながら曖昧な態度に終始する斯波兼経、その二人を見ていた坂東兵相は嘆息気味にそう呟いた。


「つまり、今は待つときなのですよ」


 広げられた地図の上には、反乱部隊と結城家領軍を示す将棋の駒が置かれている。それらを今、斯波兼経も坂東友三郎も統制する術を持たない。


「軍を統制出来ぬ兵部大臣、領軍は遙か本領にある六家当主。確かに現状は暫定政権の成立を阻止出来ているとはいえ、所詮、我らは勝った方の正統性を保証してやる程度にしか役に立たぬでしょうな」


 そうして、明らかに自虐の籠った表現を、やはり達観しているような口調で斯波兼経は言うのだった。

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『秋津皇国興亡記』第1巻
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