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【書籍化】秋津皇国興亡記  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第十一章 流血の皇都編

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217 皇都掌握と宮中工作

 歩兵第一連隊長・渋川清綱大佐を中心とする蹶起部隊は、十月十七日から十八日へと日付が変わる頃までに、皇都中心部を占拠してその所期の目的を達成しつつあった。

 渋川大佐ら攘夷派将校たちが排除すべきとしていた“佞臣奸臣”の中で最大の標的ともいえた有馬家現当主・貞朋公は討ち取られ、内閣で有馬閥と見られていた内務大臣も殺害、主要な官庁舎が集中する宮城南側の地域は完全に占拠・封鎖されており、皇都中心部は確実に蹶起部隊の掌握するところとなっていたのである。

 この他、宮中ではやはり有馬閥とされた内大臣が殺害され、宮城北の丸を衛戍地としていた近衛歩兵第一、第二連隊の一部も蹶起部隊へと合流していた。このため宮中では一時、蹶起に参加した近衛師団将兵と皇宮警察との間で銃撃戦が発生し、さらには蹶起への参加を拒んだ近衛師団長が蹶起側将校によって殺害されるという事件も発生していた。

 皇都鎮台司令部、第一師団司令部も蹶起部隊によって外部との連絡を断たれており、実質的に蹶起部隊は伊丹・一色両公の統制下にあった。

 また、内閣総理大臣・恒松(つねまつ)宗長(むねなが)伯爵も殺害されており、警察を管轄する内務省の長である内務大臣が殺害されたことと合せて、内閣として一丸となってこの事件へ対応することが困難となっていた。

 恒松首相は特に有馬閥というわけではなかったのだが、渋川大佐らは攘夷派新政権を樹立するためには内閣を倒閣させることが絶対に必要と考え、首相の殺害に及んだのである。首相が殺害されれば、当然、後継首班の推奏を六家が行うことになる。だからこそ、恒松首相は殺害の標的とされてしまったのだった。

 つまり、この時点で有馬貞朋公の他に、内閣総理大臣、内務大臣、内大臣、近衛師団長という四名の政府・軍の高官が殺害されていたのである。

 ただし、重要閣僚の一人である兵部大臣・坂東友三郎は海軍出身ということもあり、海軍との過度な対立を恐れた蹶起側は殺害目標から彼を外していた。坂東兵相については兵部省の指揮系統を麻痺させるために兵相官邸に軟禁する計画ではあったものの、結果として身柄を押さえる前に宮中に入り込まれてしまい、未だ身柄の確保には成功していない。しかも坂東兵相は御霊部に身を寄せているようで、現状ではまったく手出しが出来なくなっていた。

 この他、蹶起側の手を逃れた者として結城景紀がおり、蹶起部隊が皇都を掌握し小康状態が訪れたとはいえ、依然として皇都を巡る情勢には流動的な部分が残されていたのである。


  ◇◇◇


 渋川大佐らの蹶起計画がいつ頃から関係者の間で作成されていたのかは不明な部分が多いが、対斉戦役から帰国した一色公直が、有馬頼朋翁と結城景紀が結託して皇都を軍事的に占拠することを危惧していたことが計画立案の基礎にあったという。

 一色公直は皇都に最も近い軍閥勢力である結城家領軍、特に結城景紀が直率することの出来る部隊の存在を危険視していた。同時期、伊丹正信も自らの女婿である渋川清綱を皇都の歩兵第一連隊長に据えることで皇都衛戍部隊における自身の影響力強化を狙っていたことから、この二人は攘夷派によって掌握された部隊による皇都防衛計画の必要性を認識していたのである。

 彼らは結城景紀が有馬貞朋翁と政治的に繋がっており、さらには五摂家の血を引く穂積貴通を側に置いていることを、過大に警戒していたといえる。

 もちろん、有馬・結城陣営による政変を想定した伊丹・一色両公らの皇都防衛計画は、まったく公式のものではない。兵部省や皇都鎮台司令部では、そのような計画など一切、存在していなかった。あくまでも、伊丹・一色両公と、二人と繋がりのある渋川清綱ら一部の攘夷派将校たちの間で共有されていた認識、計画であった。

 しかし、八月以降、急進攘夷派による事件が頻発するようになると、攘夷派将校の中には彼らに続いて自分たちも行動を起こすべきと考え出す者が現れるようになる。そこに、有馬頼朋翁が倒れたという一報が加わったことで、彼らの考えは加速していった。

 もともと攘夷決行を妨げようとする国内勢力への敵意を抱いていた渋川清綱大佐も、この内の一人であった。彼は、国家の中枢から佞臣奸臣を排除し、義理の父である伊丹正信公による攘夷派政権を成立させることで、攘夷の決行が可能となると考えていたのである。

 そのために、伊丹・一色両公ら一部の者たちと密かに立案していた皇都防衛計画を援用し、皇都を軍事的に占拠して攘夷派新政権樹立のための政治的情勢を作り出すことを目的とした、蹶起計画を立てたのであった。

 この蹶起計画は、渋川大佐の義父である伊丹正信やその孫で彼の部下である伊丹直信にも一切極秘で作成された。万が一、流出するようなことになった場合、累を伊丹家にまで及ぼさないようにするためであった。

 蹶起計画は、露見すればかえって結城家などに伊丹家を糺弾する口実を与えかねないものだったからである。

 そのため、万が一、流出した場合に備え、計画は佞臣奸臣を排除して皇都を占拠するところまでしか具体化されていなかった。蹶起が成功した場合にはあくまでも大御心を待つとして、この蹶起計画が軍内部の伊丹閥によるものではなく尊王攘夷派によるものであると印象付けるような計画内容になっていたのである。合言葉も「討奸攘夷」と定められて、そうした印象を強めようとしている。

 もちろん、実際問題として攘夷派新政権を樹立するためには皇主による大命降下が必要であるので、皇主による大詔(たいしょう)渙発(かんぱつ)を期待する計画となっていることそのものは、問題がない。しかし一方で、蹶起の軍事的な部分だけを具体化して、その後に必要な政治的な部分がまったく具体化されていなかったことに、渋川大佐らの蹶起計画の限界があったといえる。

 さらに言えば蹶起そのものが長尾憲隆公爆殺事件に引き摺られる形で始まったことで、蹶起部隊の進発がかなり泥縄式となってしまったことにも問題があった。もっとも、泥縄式であっても要人の殺害と皇都中心部の占拠という蹶起の目的は達せられてはいたので、この部分の判断は難しい。

 つまるところ、皇都中心部の占拠という軍事的な目的を達成した以上、この蹶起が最終的に成功するか否かは、いかにして政治的な目的を達成するかという点に懸かっていたのである。

 蹶起側と、それに乗じて権力の掌握を目指そうとする伊丹・一色両公にとって、事態は次の段階へと進みつつあった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 皇主への拝謁と大詔渙発を目指す伊丹正信公にとって、宮中工作の中心として頼れる人物は、孫・直信の婚約者である理都子の実家・桜園子爵家であった。

 桜園子爵家は、かつて武家昵近衆(じっきんしゅう)として皇主に拝謁する将家に扈従(こしょう)する役目を担っていた公家である。現在も当主・桜園季邦(すえくに)子爵は宮内省で式部官長を務めるなど、宮内省高官の地位にあった。

 刑部宮熙融王の説得から戻った正信は、深夜であるにもかかわらず孫の婚約者の父親である桜園季邦を屋敷に呼び出すと、帷幄上奏権を行使しての皇主への拝謁と、自分たち以外の者が皇主への拝謁の手続きをすることを阻止するよう、宮中への根回しを要請したのである。

 内閣総理大臣、内務大臣、内大臣を殺害したとはいえ、兵部大臣・坂東友三郎海軍大将の身柄は押さえられていない。

 自分たち六家以外に軍への統制を及ぼし得る可能性をある人物が皇主へ拝謁することが出来ないよう、正信は桜園季邦に宮中工作を託そうとしたのである。

 すでに息子の一人である季寿(すえひさ)が蹶起に参加しており、娘の理都子も直信の婚約者である以上、桜園季邦に伊丹正信公の言葉を拒否することは出来なかった。


「攘夷派新政権樹立の暁には、卿には内大臣の職を任せようと思っておる」


 正信が季邦にそう言ったことも、この羽林家の公家華族の心を揺さぶった。ただ、問題もあった。


「伊丹公、参内の件についてのご指示ですが、それはいささか遅かったかと」


「何?」


「実は二、三時間前……日付が変わる前の二十二時過ぎあたりだったでしょうか……坂東兵相は浦部御霊部長と共に、陛下へ拝謁しております」


 自分よりも兵部大臣が先んじて皇主への拝謁を行っていた事実を知り、正信は不快の唸りを発する。

 彼は坂東兵相が宮中に向かったことまでは把握していたが、皇主への謁見を果たしていたことまでは報告を受けていなかったのである。


「卿はそれを知りながら、儂に知らせていなかったのか?」


 苛立ちは、目の前にいる公家華族の男に向けられる。


「なにぶん、宮中も混乱しておりまして……」


 娘の婚約者の祖父から怒りを向けられることに戸惑いを覚えながら、桜園季邦は答える。

 そもそも娘の婚約を推し進めたのは、季邦自身ではなく正信の方であった。そのため、桜園季邦と伊丹正信の間には攘夷という思想的な連帯感があるわけではない。

 あくまでも、季邦の側の認識としては経済的な事情から六家との関係を深めようとしていただけなのである。公家華族は、基本的に経済的に苦しい家が多いのだ。

 そのため、経済的な繋がりを求めている桜園季邦と、政治的な繋がりを求めている伊丹正信との間で、認識の相異が生まれていたといえよう。それが、この非常時において両者の意思疎通に齟齬を来すことになってしまった原因であった。


「ただ、陛下はただ今回の事態に対して憂慮の念をお示しになっただけで、兵相に何ら具体的な詔勅を下してはいないようです」


 それでも季邦は、正信の苛立ちを抑えるためにそう言った。それで少し、伊丹正信も安堵したようであった。


「兵部大臣とはいえ、所詮は国務大臣。有馬家の後ろ盾を失った内閣の人間の影響力など、その程度のものということか」


 身柄を確保することの出来なかった坂東兵相の存在は宮中工作における不確定要素となり得たが、実際には政治的に無力な存在であることが証明されてしまったようで、正信はかすかな嘲りと共にそう言った。


「まあよい。卿は急ぎ宮中に戻り、これ以上、余計な者どもが陛下に拝謁することを阻止せよ」


 依頼の形をとっているが、正信の口調にはどこか威圧的な響きがあった。多少強引ではあっても自らと蹶起部隊の正統性を早期に確立しておきたいという焦燥が、そのような態度をとらせていた。

 坂東友三郎海軍大将が皇主への拝謁をすでに行っていたことについては悉知していなかったものの、有馬家に対して皇主が弔問の勅使を送ったことについては把握している。

 皇都中心部を占拠し主要な通りや交差点を封鎖している蹶起部隊の者たちも、流石に皇主の遣わした勅使を捕えたり、行く手を妨害することは出来なかったのである。そのようなことをすれば皇主の存在を軽んじていることになり、自らの正統性を揺るがしかねなかったからだ。

 そのため、皇主は有馬家に同情的であると受け取った有馬家の者たちが、伊丹・一色両家による政権の樹立を妨害する可能性は十分に考えられた。有馬家の者たちは、主君である貞朋を蹶起部隊によって殺害されているのだ。

 宮中での有馬閥の中心人物と見られた内大臣は殺害されたとはいえ、内大臣秘書官長など内大臣府には依然として有馬閥の者が残っている。さらには、正信らが結城閥と見なしている御霊部長・浦部伊任の動きにも注意が必要であった。

 あの宮廷術師もまた、桜園季邦の言によれば皇主への拝謁を行ったらしい。それが余計に、正信に浦部伊任が結城家に肩入れしているのではないかという印象を植え付けていた(もちろん、葛葉冬花を見捨てるなど結城閥と断定するにはその行動に不可解な面も残されていたが)。

 その他、宮中には依然として兵相・坂東友三郎海軍大将が留まっている。

 彼らが皇主に対して、これ以上何かを進言することを阻止しなければならない。

 そうした宮中工作を、正信は桜園季邦に託したのである。

 依然として蹶起部隊との意思疎通、未だ蹶起に参加していない皇都鎮台・第一師団隷下の部隊への恭順工作などに忙殺されている正信には、参内するだけの時間的余裕がなかった。

 これも、蹶起計画が正信らの与り知らぬところで進められてしまったことの弊害であった。

 出来れば十八日早朝には皇主への拝謁を果たし、十八日午前中までには政治的な決着を付けて、攘夷派新政権を樹立するための詔勅を得たいと正信は考えていた。

 そして、そのためにも蹶起部隊に対する自身の統制を完全なものとし、さらには蹶起部隊以外の部隊を蹶起側に恭順させるという既成事実を作り上げる必要があった。

 すでに日付が変わり、日の出まであと数時間。

 その夜明けが秋津皇国という国家にとっても新たな夜明けとなるのか、それはまだ誰にも判らなかった。

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