178 信念と野心
ルーシー帝国による回疆侵攻の衝撃は、皇国の国民たちに改めて反ルーシー感情を植え付けることになった。
特に三国干渉を一蹴した政府の対応を賞賛していた対外硬派、攘夷派の者たちは、その主張をさらに尖鋭化させていた。
民間の間では秋津・ルーシー必戦論を唱える者も出始めており、東亜新秩序建設のためにはルーシー帝国を打倒しなければならないという言説も見られるようになりつつある。
穂積貴通は、こうした内地の世論を苦々しく見つめていた。
攘夷論の高まりは、必然的に伊丹・一色両公の支持拡大に繋がる。特に攘夷派から盟主のように見られている伊丹正信公の政治的発言力の増大は、景紀にとって不利に働くだろうと考えていたのである。
最近では実父・穂積通敏ら五摂家にも攘夷的言動が見られるようになっていたこともあり、そちらの方にも警戒を払っておかなくてはならなかった。
「対斉戦役が終結し、復員をしている最中にこれとは……」
六月三十日の夜、貴通は結城景忠公から屋敷での食事に招かれていた。
一昨日からルーシー帝国の回疆侵攻に対応するための六家会議を開き、その内容を皇主に奏上した後だけに、公の顔には濃い疲労の色があった。
「むしろ、ルーシー帝国は斉の弱体化を突こうとしたのかもしれません。かの国にとって、南下政策は国是といえるようなものです。皇国と戦って氷州を奪うとなれば、相当の兵力が必要となります。百万の陸軍を持つルーシー帝国といえど、容易なことではないでしょう」
「六家会議の見解も、貴殿とおおむね同じだった。伊丹・一色両公が存外、慎重な姿勢であったことは不幸中の幸いであろうが」
一人息子である景紀が新南嶺島に行ってしまったためか、景忠公は貴通から対斉戦役中の息子の活躍ぶりについて聞くことを好んでいた。
貴通が領軍再編のための査閲官に任じられていることもあり、その報告も兼ねて景紀公から屋敷に招かれる機会は増えていた。
しかし、今日の会食はもっぱらルーシー帝国の回疆侵攻についてであった。
「伊丹・一色両公は何と?」
六家会議の情報は頼朋翁からも得られるだろうが、景忠公が会議の内容をどう認識しているのかを知ることは貴通にとって重要であった。
特に伊丹・一色両公との政治的対立を避けようとするあまり、貴通から見て弱腰ともとれる景忠公の態度には十分な注意を払っておく必要があったのだ。
「今は国力回復の時だというのが、六家会議の結論だ。対ルーシー開戦は時期尚早、アルビオン連合王国、マフムート帝国と提携しつつ、外交工作によりルーシー帝国を牽制すべき、というものだな」
何とも玉虫色の結論だな、と貴通は思った。
“対ルーシー開戦は時期尚早”というのは、ルーシー帝国の回疆侵攻を黙認するともとれるし、戦備を整えてからルーシー帝国と雌雄を決するともとれる。
とはいえ、政治的信条の異なる六家間で一致した結論を出すのは難しい。玉虫色の結論にいたるのはやむを得なかった。
むしろ景忠公の言う通り、攘夷派である伊丹・一色両公が対斉戦役に勝利した余勢を駆って対ルーシー即時開戦を言い出さなかったことは意外であった。
あの二人も、国家の指導者として最低限の理性は持ち合わせているということか。貴通は多分に偏見の含まれた感想を抱いた。
しかし問題は、六家間の議論に景忠公がどの程度、関わっていたのかということである。自分と景紀が独混第一旅団の幕僚と旅団長を解任されたことからも明らかなように、公の政治的指導力の低下は著しい。景紀が帰国した時には他の六家の決定に引き摺られるだけ、ということもあり得ると貴通は懸念している。
彼女の中で最優先すべきは景紀の六家次期当主としての立場を確固たるものにすることであり、そのために景忠公に対してはかなり冷めた見方をしていた。
「公爵閣下ご自身のお考えはどうなのですか?」
「私としても、今は国力回復と領軍再編の時期であると考えている。遼河戦線での戦闘で、第十四師団を始め少なからぬ損害を受けた。それに、結城家領軍は寒冷地に慣れておらぬ。今次戦役の冬季攻勢にも私は反対の立場をとったが、ルーシー帝国と戦うとなれば戦場は氷州。結城家にとっては荷が重い戦となろう」
「ご慧眼に、感服いたします」
まだこの六家当主にも正常な判断力が残されているようで、貴通はひとまず安心した。
「ルーシー帝国はマフムート朝をも狙っている。もし両国が開戦に至ったのならば、付け入る隙も生まれよう。今は情勢を見極めつつ、国内の安定化に努める時期だというのが私の見解だ」
景忠公は後継者問題が絡むとその判断力に陰りが見えるが、彼もまた六家当主である。景紀を巡る問題が絡まない部分では、指導者としての冷静な判断が下せるようであった。
「ところで私が気になっているのが、貴殿の立場だ」
「僕の、ですか?」
「うむ。景紀は貴殿をいたく信頼しているようだが、貴殿の父である通敏公らに攘夷的言動が見られる。そこが少し、気になってな」
「まさか、僕が父の手先となって伊丹・一色両公に内通しているとでも?」
思わぬところに話題が飛んで、貴通は反射的に強い口調を放ってしまった。
「いや、そういうわけではないのだが……」
貴通の態度に少しだけ狼狽を見せつつ、景忠公は言う。
「貴殿と通敏公の親子関係が上手くいっておらぬのは、我々六家の間でも周知の事実だ。その点は心配しておらんのだが、貴殿はこれまで以上に通敏公と疎遠になるであろう?」
「まあ、そうでしょうね」
実際、貴通は父に帰国の挨拶すらしていない。戦役中も、手紙一つ出すことはなかった。
「伊丹・一色両公への内通は心配しておらんのだが、一方で貴殿に五摂家当主となる野心はないのか、と気になってな」
景忠公の口調には、警戒するよりもどこか期待する色があった。
「僕が五摂家当主となれば、景くんに対するこれ以上ない後ろ盾となるから、ですか?」
つまりは、そういうことなのだろう。
景紀に結城家を継がせることに腐心する景忠公らしい発想ではあった。
「うむ。景紀が我が後を継いだとき、五摂家当主が側についていれば誰も無碍には出来まい」
政治的実権を失って久しい五摂家であるが、未だ皇室と共に権威の象徴であることに変わりはない。
景忠公の弟・景秀卿が伊丹・一色両公と接触を図っているという情報がある今日、景紀には一人でも多くの後ろ盾が必要だと景忠公は考えているのだろう。
景紀は有馬頼朋翁との関係が深いが、有馬家大御所はすでに高齢となっており、後ろ盾としては不安が残る。その点、同年の存在である貴通ならばそうした心配がない。
「どうにも通敏公は、後継者問題に六家が介入してくるのを警戒しているようだが、貴殿は今次戦役で相応の戦功を挙げている。もし貴殿にその気があるのならば、私としても協力を惜しまぬつもりであるのだが、如何かな?」
「僕は、景くんの軍師であることを誇りにしていますので」
やんわりと、貴通は拒絶の言葉を告げる。
自分が本当に男子であれば、結城家や有馬家の協力を得て父を当主の座から追い落とし、五摂家当主となることも考えただろう。
しかし、自分は女である。どうやったって、五摂家当主になれはしないのだ。
「もちろん、景くんをこれからも支えていくつもりではいます。しかし、僕が五摂家当主となる野心を見せれば、かえって景くんに迷惑をかけることになります。それは、僕の本意ではありません」
貴通はあえて景紀に迷惑がかかるという表現を使い、景忠公の思惑を退けようとする。
「そうか」
公も、それで納得したようであった。
「では、これからも景紀を支えてやってくれ。あの子の父親として、私が貴殿に願うのはそういうことなのだ」
「ええ、もちろんですよ。閣下にお願いされるまでもなく、景くんは僕が、僕たちが支えていきます」
貴通は、はっきりとそう言い切った。それが、彼女の紛れもない本心であるからだ。
かつて貴通は、有馬貞朋公から自分の中に流れる五摂家の血に自覚的になるように注意を受けたことがある。
混迷を深めつつある戦後の国内・国際情勢の中で、自分の血の意義はより重みを増しているのではないか。
貴通はそう考えていた。
景紀だけでなく、自分もまた、様々な政治的な思惑に絡め取られつつあるのだろう。
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一方、伊丹正信と一色公直もまた、変転著しい国内・国際情勢に苦々しい思いを抱いていた。
「ルーシー帝国の回疆侵攻。儂は、連中はマフムート朝を狙っているとばかり思っておったが、してやられた気分だ」
忌々しさを隠そうともせず、伊丹正信は杯を煽った。
「三国干渉、回疆侵攻。これでは東亜における我が国の威信にも関わります。東亜の盟主としての皇国の地位を確固たるものにするためにも、今後の国策は慎重の上にも慎重を期さねばなりません」
「差し当たり、国力の回復と軍の再編が必要か」
「はい」
伊丹公の言葉に、一色公直が頷く。
「それに、満洲利権問題についても解決の筋道を見つけなければなりません。速やかに我が勢力を満洲に扶養し、来たるべき対ルーシー戦役の策源地とすることが急務です」
「貴殿の自給自足圏構想、あれは面白かったぞ。西洋列強に頼らぬ、不羈独立の国。まさしくこれからの皇国が目指すべき国家の姿であろう」
「恐縮です」
一色公直の構想する、自給自足圏の確立による国策の柔軟性・自由度を確保するという考えを、伊丹正信は気に入っていた。
攘夷論を唱える者たちにとって、西洋列強やその植民地からの資源輸入に頼らない国家像というのは一つの理想であった。
「しかし当面は、アルビオン連合王国との連帯が必要であるのは忌々しいことではあるな」
もう一度、伊丹正信は酒を喉に流し込んだ。しかし、酒精の心地よさでは癒すことの出来ない感情が、胸の内に渦巻いている。
「やむを得ません。中華圏には“以夷制夷”という言葉があります。我が国も、これに倣うのだ考えることにいたしましょう」
「判っておる。ルーシー帝国を牽制するために、今、アルビオン連合王国と手を切るわけにはいかん」
「そのためにも、現在交渉中の勢力圏協定は妥結させる必要があるでしょう。ルーシー帝国と対峙するのは氷州。そうなれば、当面は東南アジアに対する我が国の関与が限定されてしまいます。他の西洋列強に付け入る隙を与えないためにも、連合王国との提携は現時点では必要です」
「うむ。しかし儂は、いずれルーシー帝国の脅威を排除した後に、協定を廃棄という腹積もりでいる」
「それでよろしいかと」
一色公直は頷いた。
「後は賠償金の用途も含めた、将来の軍備計画の立案が必要でしょう。幸いと言っては語弊があるかもしれませんが、ルーシー帝国の回疆侵攻によって、かの国の脅威は誰の目にも明らかとなりました。もし六家や中央政府の中に軍拡を財政上の負担と主張する者が出てくれば、その弱腰を批難することが出来ます」
「三国干渉や回疆侵攻によって、我らの攘夷論の正しさが証明されたようなものだ。今さら軟弱な言を吐くような者は、最早国賊と言っても過言ではなかろう」
「その上で、我ら攘夷派による権力の掌握を目指すべきです」
一色公直の声には、固い信念の響きが宿っていた。
戦争指導体制の分裂を解消し、幕府的存在による国家権力の一元化を目指す。それが、対斉戦役を経験した彼が導き出した結論であった。そうでなければ、来たるべき対ルーシー戦役を戦い抜けないと考えている。
「判っておる」
伊丹正信もまた、重々しく頷いた。
「有馬の老人さえどうにか出来れば、我らが六家会議で主導権を握ることが出来よう。結城家の方も、あの小僧さえ排除出来れば、後は弱腰の景忠公に我らに擦り寄る景秀卿しか残らん。究極的に言えば、我らが権力を掌握するに際して邪魔なのはあの二人と、独混第一旅団なる小僧の持つ軍事力なのだ。そして、小僧からその軍事力を奪い取ることには成功した。後はいかにして、二人を失脚ないし物理的に排除するかということだ」
伊丹正信は一色公直と違い、六家の中での指導的立場を確立することで、権力を掌握することを目指していた。
他の六家を排除して幕府的存在を目指す一色公直とは目指すべき場所が違っていたのであるが、二人はその齟齬を解消せぬまま、権力掌握に向けた謀議を続けるのだった。




