177 中華瓜分
南泰平洋が皇国によって植民地化されつつある一方、中華帝国たる大斉帝国もまた列強による分割と植民地化の危機に瀕していた。
皇国が三国干渉を拒絶して以来、東アジア方面では秋津皇国・アルビオン連合王国とルーシー帝国の睨み合いが続いていた。
その舞台の一つとなっていたのが、斉だったのである。
西シビルア地方のルーシー帝国軍は未だ集結が解かれる気配はなく、アルビオン連合王国はルーシー帝国の中央アジアでの武力南進に備えて広州から西蔵方面へと遠征軍を進撃させる準備を整えていた。
皇国も講和条約批准後三ヶ月以内の撤兵を約束しつつ、遼東半島では急速な軍事拠点化が進められている。大連・旅順両港は近代的な港湾として着々と整備が進められ、海城まで敷設されていた野戦軽便鉄道は標準軌への改軌と複線化の工事に大わらわであった。
そうした中で、皇暦八三六年年六月下旬、秋津皇国・アルビオン連合王国とルーシー帝国の関係をさらなる緊張状態に陥れる事態が発生した。
◇◇◇
皇国はペレ王国向けに建造していた新鋭蒸気巡洋艦二隻をマフムート朝へと売却し、同様に皇国海軍から払い下げられた給炭艦もマフムート朝が買い上げていた。
これら三隻の艦船は、皇国側の護衛の巡洋艦一隻と補給のための石炭や蒸気機関の予備部品などを積んだ輸送船一隻を付けてマフムート朝の帝都イスティンボリス(アルカディアポリスなどとも言う)へと向けて四月、皇国本土を出港した。
この五隻はアルビオン連合王国側の便宜もあり、アルビオン連合王国影響下の港などに寄港して補給を受けつつ、一路、イスティンボリスへと向けて航行を続けていた。
六月中旬、この五隻は連合王国の支配下にある地中海の玄関口ジブルターリク海峡を越えて地中海へと入った。順調に航海が進めば、七月初旬から中旬にはイスティンボリスへと到着出来る予定であった。
しかし、五隻の地中海入りを察知したルーシー帝国が、ここで皇国と連合王国に抗議の声を上げた。
地中海から黒海へと繋がるヘレスポント・ボスポロス両海峡の外国軍艦の通過は条約によって禁止されているとして、五隻のイスティンボリス回航を中止するように大使館を通じて申し入れてきたのである。
ルーシー帝国の言う条約とは、ルーシー帝国、アルビオン連合王国、帝政フランク、エステルライヒ帝国、プルーゼン帝国の五ヶ国が締結した「五国海峡協定」のことであった。
五国海峡協定では、マフムート朝帝都イスティンボリスが面し、黒海と地中海を繋ぐヘレスポント・ボスポロス両海峡を外国軍艦が通過することを禁止していた。
一時期、マフムート朝との戦争に勝利したルーシー帝国は、両海峡の自由航行権をマフムート朝に認めさせることに成功していたのであるが、ルーシー帝国の南下政策を阻止したいアルビオン連合王国の策動によって五国海峡協定が結ばれて状況が覆されてしまったという歴史的経緯がある。
五国海峡協定は外国軍艦の海峡通過を禁止しているものの、実質的にはルーシー帝国黒海艦隊の地中海進出を阻止するものであった。
そして今回、ルーシー帝国は自国を縛るこの条約を逆手に取り、皇国による新鋭蒸気巡洋艦二隻のイスティンボリス回航を阻止しようとしたのである。
しかし、皇国側の回答は簡潔かつ冷淡であった。
曰く、秋津皇国は五国海峡協定に参加していない、と。
皇国は最初から五国海峡協定の存在を無視していたのである。条約に抜け道がある以上、国益のためにそれを無視するのはある意味で当然といえた。
また、少なくともマフムート帝国が買収した巡洋艦二隻は“外国軍艦”ではないから、イスティンボリス回航について何ら条約上の制約は存在しなかった。
そして、この協定に参加しているアルビオン連合王国も巡洋艦二隻のマフムート朝回航に便宜を図っていることから、皇国と同じ協定の解釈をしていると言えた。
両国共に、ルーシー帝国の南下政策を阻止したいという目的では一致していたからである。
もともと皇国が二隻の巡洋艦をマフムート朝に売却したのも、マフムート朝の海軍力を強化することでルーシー帝国を牽制するためであった。
この抗議には後日、帝政フランクも加わったが、皇国と同じく協定に参加していないヴィンランド合衆国は沈黙を守っていた。
以前より合衆国は旧大陸に対して不干渉政策を貫く孤立主義をとっており、この反応は当然のものであった。
また、地中海に海軍を展開している帝政フランクも、アルビオン連合王国との過度な対立を恐れて、イスティンボリスへ向かう五隻の針路を実力で妨害するような行為には踏み切らなかった。
三国干渉を行ったルーシー帝国、帝政フランク、ヴィンランド合衆国の足並みは、早くも乱れ始めていたのである。
この事態に焦燥を覚えたのは、ルーシー帝国政府、そして皇帝たるパーヴェル三世であった。
皇国が建造した最新鋭の巡洋艦が黒海のマフムート海軍に加われば、黒海におけるルーシー、マフムート両帝国の海軍力は、マフムート朝有利に傾いてしまう。
マフムート朝帝都イスティンボリスには、ヴィンランド合衆国やアルビオン連合王国からのお雇い外国人によって、蒸気船の整備が可能な造船施設が存在している。未だ十分な設備を持っているのは帝都の帝国造船所のみであったが、それでも二隻を整備するには十分であろう。
乗員の訓練なども含めた戦力化はまだ時間がかかると思われたものの、パーヴェル三世はその前に秋津皇国、アルビオン連合王国、マフムート朝に対して何らかの措置を取る必要があると考えたのである。
このままでは、ルーシー帝国が南下する道が閉ざされてしまう。
しかし、国境を接するマフムート朝、秋津皇国と東西で二正面作戦をするだけの国力は、ルーシー帝国にはなかった。特に近代戦において兵員輸送および兵站上の重要な要素となる鉄道の敷設状況について、ルーシー帝国は秋津皇国、アルビオン連合王国に対して遙かに劣っていた。
ルーシー帝国の鉄道網は、未だ帝都ゲオルギエブルクと旧都モスコヴィア間の約六五〇キロとモスコヴィアからいくつかの都市に至る線を開通させていただけで、鉄道の総延長は他の列強諸国に遠く及ばなかったのである。
そこでこの北方の皇帝は、秋津皇国、アルビオン連合王国を牽制するために、一つの決断を下した。
皇暦八三六年六月二十六日、ルーシー帝国は西シビルアに集中させていた軍を、突如として大斉帝国西部地域・回疆へと越境させたのである。
事実上の、中央アジアにおける武力南進の開始であった。
その情報は各国大使館の電信網を経由して、およそ十八時間後に皇都の外務省本省に到着した。この時点で、時差の関係などもあってすでに皇国は二十八日を迎えていた。
このルーシー帝国の回疆侵攻は、帝政フランクとヴィンランド合衆国にとっても寝耳に水であったようで、三国共同勧告そのものがルーシー帝国の回疆侵攻によって有耶無耶となってしまった。
◇◇◇
「状況はどうなっている!?」
兵部省陸軍軍監本部に、川上荘吉本部長の怒声が響き渡っていた。
「現在、兵相が在ルーシー駐在武官を始め、各国の駐在武官に情報収集を命じたとのことです。詳細な情報が入るのは、これからかと」
「失礼いたします! たった今、外務省からの使者が来ました! アルビオン連合王国は、ルーシー帝国による回疆侵攻をシンドゥ植民地に対する安全保障上の脅威と認識し、西蔵方面への派兵を正式に決定したとのこと!」
「本部長、測量部から中央アジア方面の地図を持ってきました!」
軍監本部の部屋には、新たな情報を伝える伝令がひっきりなしに出入りを繰り返していた。
「おい、そこの机を空けろ!」
これまで遼河戦線を中心とする満洲・華北地域の地図が広げられていた机に、中央アジアの地図が広げられる。
「くそっ、ルーシーの連中、斉の弱体化を待っていたのか?」
「いや、これは我が氷州を南部から攻めるための布石ではないか?」
「あるいは、シンドゥ方面へ南下を続ける可能性もあるのではないか?」
地図の周りに集まった部員たちが、口々に己の推測を述べる。
ルーシー帝国も斉の利権が欲しかっただけなのか、それとも氷州植民地を南部側から突こうとしているのか、あるいはアルビオン連合王国の植民地のあるシンドゥを脅かそうとしているのか。
特に懸念すべきであったのは、氷州植民地が南部側からルーシー帝国に攻撃されることであった。
現在、氷州は西部にてルーシー帝国と国境を接している。
当然、防衛は西部国境を中心として計画されていた。
しかし、ルーシー帝国が回疆地域に進出することで、かの国は西部国境からだけでなく、これまで斉と国境を接していた南部国境からも氷州を攻撃出来るようになるのである。
「これは、氷州防衛計画、あるいは対ルーシー戦争計画の全面的な見直しが必要か」
川上少将は、地図を見下ろしながら呟いた。部員たちが、回疆に侵攻したルーシー帝国軍の現在地と推定されるところに駒を置いていく。
ルーシー帝国が回疆の制圧を目的としているのならば、同地域の首府である伊犁を目指すだろう。斉は伊犁に回疆地域の北辺防衛を担う伊犁将軍府を設置し、この地域の政治・軍事の中心地としていた。
ここを奪取すれば、斉側の回疆支配体制・防衛体制は一挙に崩壊する。
そして、ルーシー帝国の回疆侵攻に対抗して、西蔵方面への派兵を決定したというアルビオン連合王国軍の駒も地図上に配置されていく。こちらは、広州から西蔵へと進撃する針路を辿るだろう。
満洲の秋津皇国、華南・西蔵のアルビオン連合王国、回疆のルーシー帝国。この三国によって、斉は今まさに分割されようとしていた。
“以夷制夷”を目指した恭親王奕愷の思惑とは裏腹に、列強同士の対立によってかえって大斉帝国の分割は進むことになってしまったのである。
「しかし、すでにルーシー帝国はマフムート朝との対立を抱えている。武力南進を行うとすれば、まずはマフムート朝を相手にしたものと想定していたが、斉の弱体化を見て、南下地点を変えたのか?」
「本部長、一点、宜しくありますか?」
そう挙手したのは、軍監本部第二課(情報担当)課員の中でもマフムート朝を中心とする中東情報を担当する人物であった。尉官時代には在マフムート帝国駐在武官補を務めたこともある。
「何だ?」
長年にわたりルーシー帝国とマフムート朝との対立が続いてきたことから、在マフムート帝国駐在武官という地位は、駐ルーシー帝国駐在武官と共に対ルーシー情報収集の最前線と位置付けられている。
「今回のルーシー帝国の回疆侵攻については、むしろ背後の安全を確保するという意味合いが大きいのではないかと考えられます。つまり、依然としてルーシー帝国の南下政策の狙いはマフムート朝にあるということです」
「詳しく説明せよ」
「これまで我が国は、ルーシー帝国の南下政策によって圧迫されている中央アジアの回教系遊牧民族を密かに支援してきました。また、直近ではマフムート朝に対して最新鋭巡洋艦二隻の売却を行っております。恐らくルーシー帝国は、このように我が国が回教勢力を使嗾して、かの国を南部から脅かすことを警戒しているのだと思います」
中央アジア地域の回教徒は、東は大斉帝国の回疆(新疆)から西はマフムート朝にまで広く存在している。
マフムート朝を始め、回教系の諸王朝はこれまで何度もルーシー帝国の南下政策による圧迫を受けてきた。
皇国は、南下政策と共に東方進出を目指して西シビルア地方にまで進出してきたルーシー帝国から大陸植民地・氷州(東シビルア地方)を防衛するために、これまで中央アジアの回教系遊牧諸王朝を密かに支援してきた経緯がある。
ルーシー帝国は南下政策の過程でマフムート朝とだけでなく、中央アジアの回教系遊牧諸王朝とも戦争を行っており、皇国としては彼らを利用することで氷州国境にかかるルーシー帝国の軍事的圧力を軽減することを狙っていた。実際、回教系遊牧諸王朝の抵抗により、ルーシー帝国の中央アジア進出は一部の地域でしか成功していない。
皇国では攘夷論が広がりを見せているが、その対象とされているのはもっぱら西洋の十字教徒勢力であり、逆に攘夷派の中には十字教徒勢力と対立の歴史を持つ回教徒勢力に共感を持っている者もいるほどであった。
ただし、皇国が回教系諸民族を支援しているのはあくまでもルーシー帝国の南下政策を阻止し、同時に氷州国境にかかるルーシー帝国の圧力を軽減するためであり、回教徒勢力を利用した国境地帯での攪乱工作はあくまでもルーシー帝国との戦争が勃発した場合にのみ行われることとなっていた。
皇国としても、中央アジアの回教系諸民族を表立って支援することでルーシー帝国との対立が尖鋭化することまでは望んでいなかったのである。
しかし今回、皇国はマフムート朝に対して最新鋭の蒸気巡洋艦二隻の売却を行った。
これを見たルーシー帝国政府およびパーヴェル三世が、皇国による回教勢力支援を実態以上に重く受け止めてしまった可能性は否定出来ない。
もちろん、あくまでその部員の意見でしかなく、それを裏付ける情報に欠けてはいたが。
「正直申しまして、ルーシー帝国は西シビルア地方に鉄道を敷設出来ておりません。この回疆地方侵攻は、在西シビルアのルーシー帝国軍に多大な兵站上の負担をかけているものと思われます。砂漠や山脈などの地形的障害も多く、このまま大規模な旋回運動を行って我が国の氷州植民地を南部からも攻撃するというのは、いささか無謀と評さざるを得ません」
「しかし、いずれルーシー帝国軍が回疆から蒙古方面に進めば、確実に我が氷州の南部が脅かされるぞ」
別の部員が、そう反論する。
「いえ、地形的に見て南部からの侵攻はそれほど警戒せずとも良いでしょう。我が国氷州植民地と斉との国境線は、ほとんどが山脈か大河で成り立っています。特に蒙古地方に関しては山脈を国境線としております。ルーシー帝国軍が回疆地方の砂漠地帯や山脈地帯を越え、さらにその先に進んで氷州と蒙古地方の間にそびえる山脈を越えて侵攻するなど、あり得ないとは申しませんが、やはり兵站上の困難が大きすぎます」
「ふむ」
地図を見ながら、川上少将は唸った。
「ルーシー帝国が、そのまま回疆も含めた中央アジアを南下してアルビオン連合王国のシンドゥ植民地を脅かす可能性はどうだ?」
「それはあり得る可能性です。アルビオン連合王国はルーシー帝国の南下政策で自国植民地が脅かされることを警戒しており、今次対斉戦役への出兵についても、その警戒感によって極東に派遣される兵力が制限されてしまったほどです。あるいは、連合王国に植民地防衛に専念させることで、マフムート朝への支援を間接的に妨害することが目的とも考えられます。いずれにせよ、今回のルーシー帝国による回疆地方侵攻が、直接的に氷州の国防上の問題に繋がるとは考えられません」
「では、ルーシー帝国による回疆地方侵攻について、現状での情勢判断を資料としてまとめてくれ」
「はっ!」
とはいえ、特に氷州に利権を持つ長尾家がその情勢判断を素直に受け止めるかは別問題だろう、と川上は思った。かの家は、他の六家や中央政府によって自らの植民地利権が脅かされること嫌っている。
ルーシー帝国脅威論の高まりによって、他の六家が国防国策の観点から長尾家による植民地経営に意見する可能性は、十分に考えられた。
一方、この部員の言う通り、ルーシー帝国が回教勢力によって南部国境を脅かされることを警戒していると言うのなら、それを現実のものとしてやるのも一つの手かもしれない。
実際、斉朝は何度か回教徒の反乱に悩まされたことがある。もともと、征服民族である斉人と被征服民族である回教系諸民族との関係は良好とは言えないのだ。
それを利用し、斉朝内の回教徒勢力に独立運動を起こさせ、同時にその地域に侵攻したルーシー帝国軍にも盛んな抵抗運動を行わせて打撃を与える。
もっとも、自分たち軍監本部が策定した対斉作戦計画を無視した六家が、こちらの献策を素直に受け入れるとも思えなかったが。
ふと、川上は徴傭船舶問題の解決に一定の道筋を付けようとしてくれた結城の姫君の存在を思い出す。
今、かの姫君は結城景紀と共に新海諸島部族長たちとの交渉に参加しているはずであるが、帰国次第、宵姫を窓口として景忠公とその嫡男・景紀に取り次いでもらうか……。
とはいえ、未だ少女ともいえる年齢のあの姫君を、いい大人である自分が利用するということに川上は忸怩たる思いを禁じ得なかったが。




