176 偏見と傲慢
戦国時代末期以来、海洋進出を続けてきた秋津皇国は泰平洋の島嶼部にその植民地を広げていったが、その過程で現在ペレ王国と呼ばれている泰平洋中部の島嶼部にも到達していた。
当時のペレ諸島は戦乱の時代であり、皇国の戦国時代末期以降、国内で大量に発生した牢人たちが傭兵としてこの島に渡っていった(他にも、牢人たちは東南アジアの諸王朝にも渡っている)。
ある意味で、当時の六家は自分たちの統治体制を脅かしかねない牢人たちに、ペレ諸島という場を与えることで実質的に彼らを国外に追放していたといえる。
しかし一方で、皇国はペレ諸島で採れる白檀を得るために商人も送り込んでおり、彼らを保護してくれる有力部族長には積極的な支援を与えてもいた。
そうした中で秋津人勢力を上手く利用した部族長が全島を統一し、現在のペレ王国を建国したのである。
現在の新海諸島の状況は、戦乱時代のペレ諸島と非常に類似する部分があった。
宵の言う「ペレ王国方式」とは、つまり秋津人にとって利用価値のある新海諸島の部族長を積極的に支援することで全島を統一させ、それによって皇国の軍事的・財政的負担を軽減しつつ皇国の勢力圏に組み込んでいくという方針を意味していた。
◇◇◇
「もう少し、景紀様が前面に出られても良かったのではないですか?」
景紀と宵に与えられた寝室で、北国の姫はやや納得していない口調でそう言った。
南洋とはいえ、新南嶺島の今の季節は乾期であった。南半球は冬に入る時期であっても、赤道付近に位置するこの島の平均気温も摂氏二十五度前後である。
ただ、湿気が少ないこともあって、内地のじめじめした夏よりはよほど過ごしやすい夜であった。
「とは言っても、もともと南泰平洋への進出促進の切っ掛けを作ったのはお前だろ?」
菖蒲の前で宵の面子を立てるようにした景紀の配慮について、逆に宵自身は景紀の面子を立てたかったようである。
風間菖蒲は宵の護衛役であると共に、父・景忠の側用人・里見善光が宵へと付けた監視役でもある。菖蒲本人がどこまで監視役の任を真面目にこなしているかは疑問のあるところであったが、それでも今回の会談での宵の言動は菖蒲を通して父の側近には伝わることだろう。
「だから、あれで良いんだよ」
景紀は布団の上で行儀悪く片膝を立てて座りながら、その対面で綺麗な正座の姿勢でこちらを見つめている宵を見た。
「お前には、もっと家臣団からの求心力を集めておきたい。今回の戦役みたいに俺が不在の間、お前自身の力で結城家を切り盛り出来るようにな。俺にも確かに新海諸島併合を成し遂げたという実績は必要だが、お前にもそれは必要なんだ」
「確かに、私は家臣団内の南進論者たちから政治的な後ろ盾と見られている節もありますが……」
「南進論者だけじゃない。今回の戦役で、結城家は大陸に利権を伸ばすことはないんだ。だからせめて南泰平洋で結城家が新たな“封土”を手に入れたという実績を示さないことには、家臣団が納得しない」
もちろん、斯波家のように賞典禄の増額で家臣団を納得させるという手もある。しかし、南進論者の多い結城家では大陸利権を断念する対価としての賞典禄増額では、家臣団から不満が出るだろう。
その意味では、宵の南泰平洋進出という提言は妙手であった。
だから景紀は、宵と今回の外交成果を分かち合う必要性を感じていたのである。
「お前が俺の正室として俺の面子を立ててくれようとしているのは嬉しいが、お前自身の結城家内での立場も考えた方が良い。むしろ、俺を支えようとしてくれるなら、お前にも一定の政治的求心力があった方が助かるんだ」
「景紀様がそうお考えなのでしたら」
宵はそれで一応の納得を見せた。
「では、景紀様のお立場に配慮しつつ、私も私なりに結城家内の権力掌握に乗り出してみることにいたします。景紀様の前で言うのも憚られますが、景忠公の指導力の低下は最早決定的であるようですから」
景紀が唐突に独混第一旅団旅団長の地位を解任された事件以来、宵の中で義父・結城景忠に対する不信感は決定的なものになりつつあるようであった。
言葉には、どこか決然とした響きが混じっていた。
「ああ、政治的な意味で背中を任せられるのは、お前だけだからな」
小さく笑みを浮かべて景紀が宵を見れば、小柄な少女は少し照れくさそうな表情を浮かべていた。
宵は冬花や貴通と違って戦場で景紀と共に立つことは出来ないが、広い意味で彼の背中を守ることが出来る地位にある。
だからこそ景紀に頼られたことが嬉しかったし、背中を預けられるだけの能力を持っていると認められていることが誇らしかった。
「しかしまあ、これで少しは菖蒲の奴も俺たちの関係に対する認識を改めてもらいたいもんだが……」
二人の間での政治的な話が終わったからか、景紀はそう愚痴を零した。
菖蒲は確かに宵を仕えるに足る主君であると認めているようであったが、一方で冬花を側に侍らせている景紀には不信感を抱いている。
宵のことも、夫である景紀から蔑ろにされている正室と見ている節があった。
「偏見というものは、そう簡単にはなくせる感情ではありませんからね」
宵の言葉には、溜息をつきたくなるような実感が籠っていた。
彼女自身は長尾家の血を引く姫として、佐薙家の者たちに認識されながら育ってきた。それが実父による誘拐事件、嶺州浪士による襲撃事件の要因の一つにもなったといえる。
だからこそ、偏見というものの根深さを実体験として理解していた。
そのために会談後、景紀と宵が政治的な見解を同じくしている様子をあえて菖蒲に対して見せつけたのであるが、果たしてどこまであの忍の少女の心に届いているか。
「ただ少なくとも、菖蒲殿には結城家の政治的混乱を憂えるだけの見識はあります。いくら景紀様に不信感を抱いていても、公と不仲な景秀卿と密かに繋がる、というような背信行為には走らないでしょう。依然として私に対する監視は続けるでしょうが、徐々に認識を改めてもらえれば私としては構いません」
「その間、お前にとって貴重な味方であるが一方で信頼出来ない監視役、っていう苦労が続くと思うんだが?」
「そういう臣下を御せてこそ、次期当主の正室というものでしょう?」
生真面目な調子で答えた宵に、景紀は思わず笑い声を漏らしていた。
「はははっ、お前も言うようになったな。ほんと、お前は強い奴だよ」
どこか眩しいものでも見るかのように、景紀は目を細めた。少女の心の強さを、彼は改めて感じていた。
「それに、私と景紀様が寝所を共にしているだけで、彼女にとってはそれなりに効果があると思います」
宵は、同じ女性としての視点で菖蒲の偏見を解く道筋を景紀に示す。
要するに、菖蒲の不信感の原因は景紀と冬花の距離の近さである。もちろん、菖蒲は冬花の血筋に対する誇りの欠如にも嫌悪感を抱いているが、景紀への不信感の原因は主に冬花を側に侍らせていることにあった。
基本的に、景紀は宵と一緒にいる時は常に寝所を共にしている。それは皇都屋敷でもそうであったし、桜浜へと向かう船中でもそうであった。
側室や愛妾を多数抱える他の将家や公家の人間たちと比較すれば、景紀は正室である宵を“寵愛”していると言えた。
いずれ宵が景紀の子を授かれば、時間はかかるだろうが菖蒲の偏見も解けていくだろう。
「まあ、女同士の確執に男が関わると碌なことが起こらんだろうからな」どこか皮肉げに、景紀は言った。「そのあたりの機微は、お前の方で上手くやってくれ」
「かしこまりました」
「とりあえず、明日以降は部族長たちに条約案を呑ませるための工作に専念しないといけないから、今日はもう寝るぞ」
「はい。おやすみなさいませ、景紀様」
「ああ、おやすみ、宵」
そうして二人のいる寝所の明かりは消え、南洋の夜は深まっていった。
◇◇◇
天上から降り注ぐと月と星明かりに照らされた州知事公館の庭園の影の中を、黒い装束に身を包んだ風間菖蒲はひっそりと歩いていた。
公館本邸も別邸も未だ明かりが灯っている。別邸では外交官たちが会談の今後の方針について話し合っているのだろう。
一方の本邸。そこにいるのは結城家側の随員と、全権委員に名を連ねている景紀とその正室・宵たちである。
景紀と宵の寝室として宛がわれた部屋の明かりは、未だ点いていた。気配を消して、菖蒲はその部屋に近づいていく。
「……何をしているのかしら、菖蒲?」
「冬花……」
菖蒲の行く手を塞ぐように現れたのは、陰陽師の少女・葛葉冬花であった。
「何って、警護よ、警護」
邪魔だと言わんばかりの調子で、菖蒲は言った。
「私は姫様の警護役なのよ、周囲に異常がないか確かめていて、何か問題でもある?」
ふん、と鼻を鳴らして忍の少女は冬花を見遣る。
「その割には、こそこそと隠れるような感じだったけど?」赤い瞳が、かすかに鋭い色を覗かせていた。「あなたが里見善光の意を受けた監視役だってことは判っているのよ」
「……昼間のあの茶番は、何?」
菖蒲は冬花の指摘を強引に無視した。菖蒲が景忠公側近勢力が宵へと付けた監視役であり、同時に宵の冬花に対する悋気を煽るための存在であることは、彼女自身も否定しにくい事実であったからだ。
「あなたは、あれを茶番と見るわけ? 姫様の警護役に徹している内に、忍としての目が衰えたのかしら?」
あからさまな嫌味を放ってくる冬花に、菖蒲は彼女を睨み返した。
「若様の宵姫様に対するご寵愛は確かなものよ。そしてご信頼も。だからこそ、若様は会談に臨む方針について姫様の意見を求めた。それだけの話よ」
「それだけには見えなかったわね」
宵姫の政治的見識の高さは、対斉戦役中、彼女の側に付き従っていた菖蒲も理解している。わざわざ冬花に言われるまでもない。
菖蒲はきつい口調で続けた。
「宵姫様は聡明なお方よ。次期当主と次期当主正室の仲が円満であることを周囲に示す必要性を理解しておられる。だから私の前であんな茶番を演じてみせた。違うかしら?」
「その発言は、若様に対しても宵姫様に対しても不敬よ」
「主君に盲目的に従うだけならただの狗よ。ああ、あんたは妖狐だったわね。まあ、どっちも犬科だからあんたにはお似合いかもしれないけど」
「……」
冬花の顔が、不快げに歪む。
「あんたに讒言されるのも癪だから言っておくけど、別に宵姫様にお仕えすること自体には不満はないわよ。だからこそ、私は姫様に対する若君の態度を見極めたいと思っているだけ。私はね、あんたみたいな狗とは違うのよ。あそこまで若君と結城家のために尽くそうとしている姫様を、若君自身が蔑ろにするのであれば、臣下として一言申し上げないといけないわ」
「それでお二人の寝所の様子を窺おうとしたということかしら?」
「私だけじゃなくて、家臣団の多くが若君と姫様の寝所でのご様子について気にしているわ」
景紀と宵との間に未だ子が生まれないことを懸念している家臣は一定数、存在している。菖蒲などは、その原因を景紀と宵の仲に求めていた。
だからこそ、最も手っ取り早く二人の関係を見極める方法として、寝所での様子を窺うという手段に訴えようとしたのである。
そのことに、疚しさは覚えなかった。
生まれた子供が確実に主家の血を引いていると保証するため、閨房での出来事について公的な記録を残す伝統が将家や公家にはあるのだ。
本来、その役目は宵の世話役である筆頭家老・益永忠胤の妻・済が負っているが、自分も宵の警護役として警護対象の体調を把握するという名目で閨房での出来事を知る権利があるだろう。
だが、そうして忍の技を駆使して主君と姫君の寝所を窺おうとした菖蒲に、冬花は露骨な不快感を示していた。
「ふん、まるで醜聞を集めようとする三流新聞の記者みたいなやり口ね。それこそ、臣下としての態度じゃないわ」
「あんたに臣下の態度を云々されたくはないわ」
二人の間で、あるべき主君像、あるべき臣下像は決定的に噛み合わなかった。
しばらくの間、忍の少女と陰陽師の少女は互いを牽制するように睨み合っていた。先に折れたのは、菖蒲の方だった。
「……まあいいわ。どうせあんたはそこをどかないでしょうし」
くるりと踵を返した菖蒲は、冬花に背を向けたまま言葉を続けた。
「ただ、あんたが若君の側にいられるのは宵姫様が寛大なお方だからってことを自覚しておいた方がいいわよ」
それだけ言うと、黒い装束が庭園の暗がりの中に溶けるようにして消えていった。
「……」
冬花の赤い瞳は夜の闇に同化した菖蒲の姿を追い、彼女が本当に諦めたことを確認してからようやく陰陽師の少女も肩の力を抜いた。
本来であれば互いに協力し合うべき警護役が対立している。
景紀や宵姫は自分たちに対する菖蒲の認識を改めようとしているが、当の菖蒲があの調子ではそれは当分先のことになるだろう。
「……まあ、いいわ」
どうせ、あの忍の少女は政治に積極的に関わってくることはない。自分や景紀との確執が、政治的なものにまで発展することはないだろう。景紀もそう考えているからこそ、宵の護衛に菖蒲が就くことを容認しているのだ。
今回のように、彼女が宵姫の護衛役としてではなく監視役として動くようなことがあれば、自分はそれを阻止する。
ただそれだけの話だ。
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六月三十日、第二回会談において、新海諸島部族長側は皇国の示した条約案に同意すると回答した。
ただし一方で、部族長たちは条約を締結する際の条件を示してきた。
まず、この条約は秋津皇国とニューゼーランディア部族連合国との間で結ばれる条約であるため、今回の使節団に加わっていない各地の部族長たちにも同意を得た上で正式に締結すること。
次いで、各地の部族長たちの説得は自分たちが担当するが、その際に皇国側からの支援を受けたいということ。
さらに、この条約に同意しない部族については皇国側は何ら保障を与えないで欲しいこと。
これらを、条約締結の条件として新海諸島の部族長たちは提示したのである。
皇国の支援の下に、自分たちが他の部族に対して優位に立ちたいという意図が察せられた。条約の締結に同意しない部族に対する皇国側の関与を拒否していることからも、それは明らかであった。
つまり彼らは、この機に乗じて敵対する部族を屈服させてその領地を手に入れたいと考えているのである。
皇国の武士団に似て、アオテア人もまた土地に対する愛着と執念は深い。名誉を重んじ、それが傷付けられた際の復讐を正当化するなど、戦士の気風を持っていることもまた、彼らの文化の特徴であった。
もちろん、純粋に戦乱の時代を終わらせ島に平穏をもたらすために行動しようとしている部族長もいるだろう。また、西洋列強の進出に対抗するために秋津皇国の庇護を受けて島を守ろうと考える部族長もいるはずだ。
ただし、それは皇国側にとってはさほど重要な問題ではなかった。
皇国側にとっては部族長たちの打算も高邁な精神も、所詮は自国が新海諸島を併合するために利用出来る要素でしかなかったのだ。
ある意味で、列強の傲慢さを以て秋津皇国は新海諸島部族長たちとの会談に臨んでいたのである。
もちろん、それは景紀や宵、冬花といった人物たちも例外ではなかった。




