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【書籍化】秋津皇国興亡記  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第九章 混迷の戦後編

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過去編3 南洋の士族反乱 後編

 すでに陽が落ちた新南嶺島の熱帯雨林の中を、景紀と冬花は慎重に進んでいた。

 夜目が利くように冬花が暗視の術を発動させているため、森の中でもある程度の視界を確保出来ている。

 冬花の放った式で、羅江市街地の状況はある程度、把握出来た。

 さらに、羅江に向かう途中で市街地から脱出してきた住民たちの何人かと遭遇して事情を聞くことも出来た。

 やはり、武装した牢人たちによる蜂起が発生したようであった。

 羅江の州庁舎はすでに牢人たちによる襲撃を受けたようで、逆に蜂起した牢人たちの拠点となっていた。州知事の生死は不明であるが、この状況では恐らく絶望的だろう。

 駐屯する南洋独立守備隊の兵営や警察署も襲撃を受けたらしく、そこから奪取した銃火器で牢人たちは州庁舎付近を固めていた。

 冬花が式で探索したところ、蜂起した牢人集団はおよそ二〇〇名前後だろうということだった。

 一方、守備隊や警察側は、住民を保護しつつ市街地外れの製糖工場に立て籠っているようであった。

海軍根拠地隊も、港湾部の防備を固めるだけで鎮定の余力があるようには見えない。彼らは彼らで、港湾部を警備・管理するという任務がある。


「……こいつは、かなり拙いぞ」


 冬花から報告を聞いた景紀は、思わず呻いた。

 牢人たちの蜂起の目的は不明だが、いずれにせよ、南洋総督府に恭順する意思を失ったからこそ蜂起したことには違いない。

 彼らが最も恐れているのは、羅江に鎮圧のための増援部隊が到着することだろう。

 その前に製糖工場に籠る守備隊を撃破して、羅江市街地を完全に制圧しておく必要がある。可能であれば、周辺の農場から食糧を略奪して長期戦に備える必要もあるだろう。

 そのため、蜂起牢人たちは製糖工場の制圧を急ぎたいはずだ。

 実際、冬花の式が捉えたところによると、牢人たちは工場への夜襲を試みているのか、多くが工場へと向けて移動しているらしい。

 もし戦闘になれば、住民も巻き添えになるだろう。

 いや、冬花の式が捉えたところによると、すでに巻き添えになっているようだ。目抜き通りの商店には略奪と破壊の痕跡が生々しく、放置された死体が南洋の熱気で腐敗を始めているという。

 さらには州庁舎では、秋津人・現地島民の総督府官吏たちが狭い部屋に押し込められて軟禁されているらしい。


「明らかに人質だな」


 州庁舎には他に、市内から連れ去られたらしい若い娘もいるとのことだった。「からゆきさん」(海外や植民地に売られた娼妓・芸妓のこと)か、拐かされた一般の入植者かは判らないが、蜂起牢人たちの相手をさせられている者もいるらしい。

 そのことを、冬花は憤りを隠さずに報告してきた。

 同じ女性として、蜂起牢人たちの振る舞いに許せないものを感じているのだろう。


「人質さえいなければ、爆裂術式で州庁舎ごと吹き飛ばしてやれるのに」


 州庁舎に軟禁されている者たちは、確実に人質として機能していた。だからこそ、冬花の術式で爆破してしまうことも出来ない。


「冬花、今は製糖工場の方が危険だ」


「……ええ、判っているわ」


 一瞬だけ、感情的になりそうな自分を押さえ込んで冬花は主君の言葉に応じた。匪賊討伐の時もそうだったが、景紀に従って戦場に赴けば、嫌でも女性にとって憤りを覚える光景は見てしまう。

 近隣の村々で若い娘に狼藉を働く匪賊、あるいは匪賊に若い娘を差し出して襲われないようにする村。

 そして、それは敵だけなく味方の将兵も当てはまる。軍の衛戍地の近くには、ほぼ必ずと言って良いほどに遊郭が存在しているのだ。

 これからも景紀の側で仕えるのならば、そうした事態に冷静に対応出来るようにしなければならない。

 もっとも、だからといって若い娘に乱暴狼藉を働く者を許容するという意味ではないが。


「すまんな」


 そんな冬花の内心を察して、景紀は言う。


「俺に付き合わせちまった所為で、冬花には不愉快な思いをさせる」


 それはどこか、悔やむような響きを持っていた。

 冬花をシキガミにしたのは、景紀自身だ。だが、幼かった頃の彼はこの少女をシキガミにすることで、かえって酷な目に遭わせてしまうかもしれないことを考えていなかった。

 それを、今になって景紀は思い知らされていた。


「景紀が謝ることじゃないわ」


 だが、冬花は小さく笑みを浮かべて景紀の言葉を否定する。


「あなたのシキガミになりたかったのは、私の方だから。それにね、私は景紀に初めてシキガミとして必要としてくれて嬉しいのよ」


 匪賊討伐では術者としての力を振るう機会はなかった。だからこの蜂起牢人の鎮定が、“景紀のシキガミ”である陰陽師・葛葉冬花としての初陣となる。

 牢人たちの行いに対する憤りは、冬花の中に確かにある。だが、だからと言って景紀に仕えていることを後悔しているわけではないのだ。


「そっか」小さな安堵と共に、景紀は応じた。「じゃあ、頼りにしているぜ、俺のシキガミ」


「ええ。もう昔みたいに泣き虫じゃない、あなたがシキガミにするに値する陰陽師なんだってことを証明してあげる」


 そうして二人は熱帯雨林を抜け、破壊の跡が残る羅江市街へと足を踏み入れた。


  ◇◇◇


 製糖工場に立て籠った守備隊と警官隊には、十分な弾薬が存在していなかった。

 入植した秋津人や現地島民たちを蜂起牢人たちから守りつつ製糖工場に逃げ込むのが精一杯で、兵営の弾薬庫から十分な弾薬と火器を持ち出すことが出来なかったのである。

 兵士たちが持っているのは前装式の二十二年式歩兵銃と実包一五〇発だけで、警官隊は鋭剣(サーベル)と拳銃、警棒だけを装備している。

 南洋総督府は総督府官吏や警察に現地島民も採用しているため、入植秋津人と現地島民の避難民との間で意思疎通が図れることだけが、唯一の救いであった。

 少なくとも、籠城中に秋津人と現地島民の間で内部分裂を起こす危険性は少なかったのだ。

 とはいえ、電信線は切断され、海軍根拠地隊との連絡も途絶えた籠城部隊が孤立無援なことには変わりがない。

 周辺の地理に詳しい現地島民を案内に付けて、他の州庁に救援を求めるための使者を送り出したが、彼らもどうなったか判らない。

 そもそも、避難民も含めて千人ほどが籠る製糖工場には、それだけの食糧が存在していなかった。

 わずかな食糧を分け合い、あるいは未加工の砂糖黍(さとうきび)を囓って、籠城部隊と避難民たちは空腹に耐えねばならなかったのだ。

 そうした中で、蜂起牢人たちによる製糖工場への夜襲が開始された。

 守備隊から奪った多銃身砲が唸り、固く閉ざされた扉や壁面を抉っていく。


「くそっ、これでは長くは持たんぞ!」


 この場で最先任の将校が、険しい声で叫んだ。


「警官隊に、避難民の脱出を促せ! 万が一の場合は、彼らを港湾部の海軍根拠地隊の元に逃がすんだ!」


 軍刀を振り上げて射撃の指揮をとりながら、その将校は命じる。

 蜂起した牢人たちの数では、工場を完全に包囲することは出来ない。脱出の隙は、必ずあるはずだ。ただし一方で、こちらも避難民を守り切るには兵力が不足している。


「中隊長殿! 工場裏手より不逞浪士です!」


「くそっ! 表の連中は陽動か!」


 多銃身砲の連続した発砲音と、弾丸が工場の壁にめり込む音を聞きながら、その将校は唇を噛んだ。

 蜂起牢人は所詮、総督府に不満を持つ烏合の集団と思っていたが、ある程度はまとまって行動することも出来るということか。

 自分の判断の甘さに、中隊長は歯噛みした。

 このままでは、避難民を逃がすどころではない。むしろ裏手から不逞浪士が出現したことによって避難民の間に恐慌が広がり、籠城部隊が内部から崩壊する可能性すらあった。


「軽傷で動ける兵士を、裏手に回せ!」


 彼が、咄嗟の判断でそう叫んだ刹那のことであった。

 爆発が、夜空を焦がした。

 中隊長を務める将校も含め、その場の兵卒たちが咄嗟に身を伏せる。


「何事だ!?」


 兵営にあった歩兵砲も蜂起牢人たちに奪取されたはずであり、それが使われたのかと思った。だが、違った。

 爆発が起こったのは、工場の前面であった。


「不逞浪士どもの間で混乱が広がっています!」


 どこか歓喜しているように聞こえる声で、窓から頭を出して様子を探っていた兵士が報告する。


「陸戦隊の連中か!?」


 陸戦隊は陸戦隊で、根拠地隊の工員や港湾施設で働く労働者たちを守らなければならないはずだ。こちらの応援に駆け付けられる余裕があるとは思えないが……。

 爆発が、また起こった。何人かの牢人たちが吹き飛ばされ、地面に叩き付けられている。


「どこの部隊かは知らんが、とにかく助かった。おい、貴様は分隊を率いて裏に回って牢人どもが工場に侵入するのを防げ!」


「はっ!」


 中隊の先任下士官にそう命じると、その下士官は周辺の兵士たちに声をかけて素早く工場の裏手へと向かっていった。






 冬花は爆裂術式を込めた矢を、三度放った。

 製糖工場に夜襲をかけていた牢人たちの集団があっさりと吹き飛び、周囲の牢人たちにも狼狽が広がっていく。

 その混乱を、景紀は見逃さなかった。


「行くぞ、冬花!」


「ええ!」


 軍刀を抜いた景紀が鋭く己のシキガミの名を呼べば、冬花も弓を体に掛けて同じく抜刀する。

 二人同時に、多銃身砲を奪還すべく駆け出した。

 突然の爆発に混乱し、倒れた者の介抱を行おうとする牢人たち目がけて、景紀と冬花は斬込んだ。

 景紀はこちらに振り向こうとした牢人の男を斬り捨て、冬花は刀を抜きかけた男の腕を斬り落とした。牢人たちの間に容赦なく擲弾を投げ込み、爆裂術式を込めた呪符を放って蜂起した者たちを制圧していく。

 景紀が多銃身砲を自分たちに向けようとしている牢人を斬り、そのまま蹴り飛ばして砲を奪還する。

 ぐっと力を込めて砲を旋回させて、そんな景紀を狙って拳銃を向けようとした浪士を冬花が斬り捨てた。

 砲架の上に束ねられた銃身が、今度は蜂起牢人たちの方に向けられる。景紀は側にあった弾薬盒から素早く弾倉を銃身に装填した。

 その段階で、蜂起牢人たちの士気は砕けたのだろう。

 負傷者をその場に放置して、我先にと逃げ出していく。蜂起をある程度成功させたまでは良かったが、こうした窮地では士族の集団とはいえ烏合の衆でしかないことを露呈していた。


「逃がさない!」


 式を通して蜂起牢人たちの狼藉を直接見ることになったためだろう、冬花が牢人たちを追って駆け出していく。


「あっ、おい冬花! 待て!」


 多銃身砲は本来、一人で操作するものではない。そのために手間取っていた景紀は、咄嗟に彼女を追いかけることが出来なかった。

 一人、突出していく冬花の背に声をかけるだけで精一杯だったが、その冬花は景紀の制止を聞いていなかった。


「くそっ、一人で無茶しやがって」


 景紀が呻いていると、背後の工場から南洋独立守備隊の兵士たちが出てきた。


「若君であらせられるのか?」


 中隊長と思しき将校が、困惑と警戒混じりに問うてきた。先日まで、景紀は羅江に滞在していた。その時、この中隊長とも顔を合せていたし、何よりもこの南洋植民地で白髪の女術者を連れている人間は景紀くらいなものだろう。


「ああ。遅くなって済まなかったな」


 冬花のことが気にかかったため、景紀の口調はどこか急くようなものであった。


「いえ、若君御自ら駆け付けて下さるとは……」


「悪いが、ここは任せていいか?」


 結城家次期当主に対して礼を取ろうとする中隊長の言葉を、景紀は遮った。


「は?」


 突然のことに困惑顔の中隊長を無視して、景紀は駆け出していた。


  ◇◇◇


 蜂起した牢人たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。

 それが自分の術が引き起こしたことだと思うと、冬花はどこか愉快ですらあった。

 自分が景紀のシキガミとして確かな実力を示せていること、そして羅江の住民たちに狼藉を働いた蜂起牢人を吹き飛ばせたことが、彼女にその感覚をもたらしていた。

 術者として、景紀のシキガミとして、本当の意味で初陣を飾れたことの高揚が、今の冬花を支配していた。

 ここで、景紀のシキガミとして確かな成果を残す。自分が彼のシキガミに相応しい術者だと、景紀自身にも見てもらいたい。

 もう自分は、幼い頃のような泣き虫ではない。

 そのことを、景紀の目の前で証明したかった。

 妖狐の力と術で強化した脚力で逃走する牢人たちに追いつき、刀で斬り捨てていく。この程度の相手ならば、自分と景紀がいれば鎮圧出来そうだ。

 桜浜や花吹島から救援部隊が到着する前にこの士族反乱を制圧することが出来れば、主君である景紀の実績にもなるし、自分自身の力を示すことにもなる。

 幼い頃に、景紀に言われた言葉を思い出す。

 自分と同じ白髪赤目だった葛葉家の初代が結城家に家臣として取り立てられたのは、その者が家臣として相応しい実力を示したからだ、と。

 だからこそ、自分はこの場で景紀の臣下として相応しい術者だと示したい。

 その一心で冬花は駆け、刀を振るった。

 景紀が「無茶」と評したその言葉を、シキガミの少女は聞いていなかった。

 だから銃声と共に右足と脇腹に衝撃が走ったことにも、冬花は一瞬、気付いていなかった。


「―――一ぐっ!?」


 一瞬遅れて激痛を自覚した時には、駆けていた勢いのままに地面を転がっていた。銃弾が体を抉った痛みと地面に激突した衝撃に、冬花は呻く。

 咄嗟に立ち上がろうとしても、右足の大腿に力が入らない。

 治癒の術式を己に掛けようとしたところで、背中から胸を激痛が駆け抜けた。


「がはっ……」


 逆流した血に、冬花は咳き込んだ。そのたびに、激痛が全身を駆け巡っていく。


「ちっ、化け物が……」


 遠巻きに拳銃を構えている牢人たちが、恐れと忌々しさを込めて地に倒れ伏す冬花を罵った。


「まだ生きていやがるのか……」


 慎重に、警戒しつつ、牢人たちが冬花を取り囲み、再び発砲した。


「がっ……」


 無数の銃弾が、冬花の体を貫いていく。連続する激痛が思考を邪魔して、治癒の術式を組み立てられない。

 拳銃の弾が尽きたのか、刀を抜いた牢人たちが様子を窺うように近付いてくる。


「うぐっ……」


 こんなところで、死ぬわけにはいかない。自分はまだ、景紀のシキガミとしての務めを全うしていない。

 だから……。

 ―――どくん、と冬花の奥底で何かが脈打つ音が聞こえた。


  ◇◇◇


『がああああぁぁぁぁぁぁっ―――!』


 州庁舎へと続く通りを駆けていた景紀は、その先から聞こえてきた獣の咆哮に、一瞬だけ足を止めた。


「冬花……?」


 その叫びは、狂乱の色がありながらも年若い少女の玲瓏さが混じっていた。

 同時に、景紀の脇腹が疼きを発していた。

 一度、冬花は幼い頃に妖狐の血を暴走させている。再び彼女が妖狐の血を暴走させることを懸念した冬花の父・英市郎と母・若菜の手によって、景紀は冬花に己の体の一部を移し替える呪術的な儀式を受けていた。

 純粋な人間の体を冬花の体内に入れ、その者と呪術的な主従関係を結ばせることで、妖狐の血の暴走を抑えようとしたのだ。

 そして、その儀式の時、景紀から冬花に移し替えられたのは肋骨だった。

 それ以来、冬花は妖狐の血を暴走させていない。

 だが今、己の体から失われたその部分が、鈍い疼きを訴えている。

 冬花の身に何か異変が起こったのだと悟った瞬間、景紀は再び駆け出していた。

 通りの先から、男たちの悲鳴と「化け物」と叫ぶ声が聞こえる。その叫び声も、やがて聞こえなくなっていく。


「冬花……!」


 やっと追いついた景紀が見たのは、月と星明かりの下に広がる凄惨な光景であった。

 背中を引き裂かれ、腹腔から臓物を撒き散らし、首が胴体から遠く離れたところに転がっている牢人たちの死体が周囲を埋め尽くす中で、一人、白髪の少女が立っていた。

 南方の暑気の中に、むっとする血の臭いが混じり込んでいる。

 少女の頭からは耳が生え、腰の辺りから尻尾が飛び出している。

 その手の爪は刀のように鋭く伸び、真っ赤な血を滴らせていた。

 どこか恍惚とした表情で血に染まった己の手を見ていた少女が、景紀の呼び声にハッとしたように振り返った。

 その目はいつも以上に赤く染まり、瞳は獣のように裂けていた。

 赤く輝く瞳が景紀を捉えた瞬間、そこに狼狽の色が走った。人間に出会ってしまった手負いの獣のような、警戒と怯えの混じった表情。


「う……ぁ……」


 その口から、獣のものとも、冬花のものともつかない呻きが漏れる。

 景紀が一歩近付けば、威嚇するような、あるいは怯えるように、一歩、血塗れの少女が下がる。


「か……げ、のり……」


 どこか縋るように、どこか突き放そうとするかのように、未だ瞳を妖狐のものにしたままの少女の口から主君の名が漏れる。


「き、ちゃ……だめ……」


 幼い頃のように、己の爪で大切な者を引き裂いてしまうことを恐れているのか、苦しげに冬花は言う。

 彼女の中で、理性と妖狐の血の獣性がせめぎ合っているのだろう。


「心配するな、冬花」


 だが景紀は、臆することなく妖狐の少女へと近付いた。


「あっ……」


 絶望的な少女の呻き。景紀を新たな獲物として引き裂こうとする腕を理性が必死に抑えているのか、腕が中途半端な形で持ち上げられた。


「まったく、だから無茶するなって言っただろうに」


 いっそ朗らかに告げながら、冬花の爪の間合いに景紀は踏み込んだ。


「う……ぁ……」


「もういいんだ、冬花。お疲れ様」


 そう言って、景紀は何気ない動作で懐から取り出した数珠を彼女の首に駆けた。途端に、少女の体は力を失って少年の腕の中に倒れ込む。

 そこでようやく、景紀は緊張を解いて大きく息をついた。彼自身、冬花をこれ以上暴走させずに封じる自信はなかったのだ。

 冬花の父・英市郎から万が一にと渡されていた封印用の数珠。

 それで妖狐の血の暴走を封じるまで、外面とは裏腹に景紀は体を強ばらせていたのだ。

 ただ、彼女が暴走した時に止めるのは己だけの役割だという責任感と義務感からの見栄であった。シキガミの主として、この役目は誰にも譲るつもりはない。


「今はひとまず休め、冬花」


 景紀は背後から近付いてくる守備隊の足音を聞きながら、腕の中の少女にそう呼びかけた。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆    ◆   ◆


 羅江で発生した牢人たちの反乱は、南洋銀行襲撃事件から数えて七日で鎮圧された。

 ただし、実際に二〇〇名にのぼる不逞浪士が州庁や南洋独立守備隊の兵営を襲撃したのは銀行襲撃事件の四日後のことであり、蜂起から鎮圧までの期間は実質的に三日であった。

 独立守備隊と避難民が籠る製糖工場への夜襲が景紀と冬花の介入によって失敗に終わり、さらに妖狐の血を暴走させた冬花によって多数の蜂起牢人が殺害されたことで、守備隊側は海軍根拠地隊と共同して一挙に反撃に出た。

 そして、州庁の職員を人質にとって立て籠っていた牢人の残党も、庁舎が包囲されるとその多くが自刃してしまったのである。

 後日、周辺の開拓団農場の小屋などに隠れ潜んでいた者たちも捕縛され、牢人たちの蜂起は完全に失敗に終わった。

 捕縛した牢人たちには厳しい取り調べが行われ、その結果、この蜂起が綿密な準備や計画の元に行われたものでないことが判明した。

 蜂起の切っ掛けは困窮した一部浪士たちによる銀行襲撃事件であり、これによって南洋総督府による牢人たちへの弾圧が始まると牢人たちは考えた。

 結果、自分たちが追い詰められたと思い込んだ羅江周辺の牢人たちは、血判状を作って南洋総督府に対する蜂起を決意。羅江周辺の電信網を切断して救援を呼べないようにした上で、武装蜂起を決行したのである。

 彼らは鎮圧部隊が羅江に到着するまでには時間がかかると思っており、その間に羅江を制圧して自分たちの領地を形成、その既成事実を南洋総督府に認めさせようとしたのだと言う。

 杜撰な計画ではあったが、南洋総督府側の被害も相応であった。

 羅江を中心とする地域を担当する州知事は、州庁舎を襲った牢人相手に自ら刀を取って奮戦したが討ち取られ、市街地の商店も略奪や破壊の憂き目に遭った。

 兵営など一部の建物には放火もされ、それが延焼して羅江市街地の四分の一が焼失した。

 牢人たちによって暴行を受けた若い女性も、秋津人・現地島民ともに多数、存在していた。

 鎮圧までに、守備隊・警官隊は三〇名近い戦死者・殉職者を出し、南洋総督府官吏も十名ほどが殺害された。民間人の死者も、商店の店主を中心に二〇名以上にのぼっている。

 牢人たちは、商店から強制的に物資食糧を徴発しようとしたらしい。それに抵抗した民間人が、殺害されたのである。

 一方、蜂起牢人側は一六七名が死亡(自刃含む)、三十八名が捕縛された。

 押収された血判状や捕縛した者たちの訊問結果から首謀者が割り出され、蜂起の中心人物と目された牢人三名が梟首(さらし首)、隊長級の者九名が斬首を宣告され、上訴も許されず即日に執行された。残りも獄中で死亡するか、南千島列島の中でも環境が特に厳しいとされる島へと流された。

 そして、景紀が現地に到着したその日の夜の内に鎮圧に成功したことから、彼の次期当主としての名声を確立すると共に冬花の術者としての実力の確かさを証明することにもなった。

 もっとも、それはあくまでも表向きに喧伝された話であり、景紀と冬花にとってはまた別の思いがあったのだが。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 景紀が南洋独立守備隊を指揮して州庁を制圧・奪還したその夜。

 妖狐の血を封じる術式から目を覚ました冬花は一人、海岸へと向かった。まだ夜明けまで数時間ある空には南半球の星々が瞬き、海面に反射している。

 そんなどこか幻想的な光景すら、今の冬花には煩わしかった。

 自身の血と返り血で赤黒くなった衣服をすべて脱ぎ捨てて、何もまとわないまま海の中に入る。そして、腰の辺りまで海水に浸かるくらいのところまで進んだ。


「―――っ」


 冬花は、海の中に突っ込んだ己の手を乱雑にこすり合せた。バシャバシャと海水の跳ねる音が響く。

 その表情には、どこか泣きそうな必死さが浮かんでいた。

 一度海から手を出して、両手を見る。だが、また納得いかなそうに海中に手を突っ込むと、皮がすり剥けてしまうのではないかというくらい、力を込めて手をこすり合せる。

 血の臭いが、消えない。

 己の爪で人間を引き裂いた時の感覚が、消えない。

 バシャバシャと海水を鳴らしながら、ただ必死に冬花は未だ己の手にこびりついているように思える血を洗い流そうとする。


「―――何をしている、冬花」


 どこか険しい声が背後からかけられた。


「っ―――」


 冬花は親に叱られそうになった幼子のように肩をビクリと震わせて、緩慢な動作で浜辺を振り返る。


「かげ、のり……」


 砂浜の上に、景紀が立って冬花を見ていた。


「新南嶺島の浜辺には獰猛な人喰い鰐だっているんだ。不用意に海に入るな」


「―――血がね、落ちないの」


 主君であるはずの少年の言葉にかぶせるように、冬花は泣きそうになりながら言う。


「洗っても洗っても、まだ手にこびりついているような気がするの」


「……」


 景紀は無言で、服が濡れるのも構わずに海の中に入ってきた。思わず、怯えるように冬花の身がすくむ。

 裸身を晒したままの少女に近付いた景紀は、彼女の手首を掴んで海中から持ち上げた。


「―――白くて、綺麗な手じゃないか」


 どこか感嘆するように、シキガミの手を見つめて景紀は言う。


「そして、お前の努力が判る手だ」


 励ますように、景紀はそう続けた。

 男のものとは違う、少女の白く優美な手と指。だけれども、幼い頃から武術の鍛錬を積み、そして幾枚もの呪符を書いてきた手にはまめが潰れ、硬くなっている部分もある。

 冬花が景紀のシキガミとして相応しくあろうとして、努力を重ねてきた手だった。


「でも、景紀を引き裂いた手でもあるのよ」


 俯きながら、冬花はか細く反論した。

 最初に妖狐の血を暴走させた八歳のとき、この爪が引き裂いたのは仕えるべき主君であるはずの景紀だった。


「またいつか、私はこの爪であなたを切り裂いてしまうかも……」


 その幻想が消えないから、血の汚れも、肉を裂く感触も、己の両手から消えてくれない。


「だったら、そうなる前に俺がお前を止めてやる」


 強い言葉が、冬花の頭の上に響いた。思わず、少女は顔を上げた。一切の誤魔化しや慰めのない真剣な表情をした少年の顔が、冬花の目に映る。


「お前は俺のシキガミで、俺はお前の主だ。だから、安心しろ」


 それは、合理性も論理性もない、ただ感情だけの言葉だった。

 だけれども、だからこそ今の冬花が縋ることの出来る言葉だった。


「いい、の……?」


「ああ」


 景紀の声には、一切の躊躇いがなかった。もしまた冬花が妖狐の血を暴走させたら、きっと彼はその言葉を実行してくれるだろう。


「じゃあ、お願い……」


 冬花は己の身を差し出すように、コツンと景紀の胸に己の額を預けた。少年の手が少女の背に周り、その白く華奢な裸身を抱きしめる。


「ああ、任せろ」


「……うん」


 泣き声に近い安堵の頷きと共に、冬花もまた景紀の背に両手を回した。

 自分の手は引き裂くだけじゃない、自分にとって大切な人を抱きしめることも出来るのだと自分自身に言い聞かせるように。

 月と星だけが、どこか不器用で歪な信頼を預け合う二人の主従を見守っていた。

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