過去編1 南洋の士族反乱 前編
秋津人の南方進出は、すでに戦国時代前期から始まっていた。
しかし、その進出地域は主に東南アジア方面であり、現在の南洋植民地のある泰平洋地域ではなかった。
秋津人の泰平洋進出は、戦国時代末期以降のことであった。
その中心となったのは、結城家中興の祖と讃えられる結城景宗という人物であった。
彼は戦国時代の終焉と共に国内に恩賞となるべき土地がなくなってしまったこと、そしてアホウドリのために南洋への進出を決意した。
当時、西洋人宣教師たちによって南海に未知の大陸、いわゆる「テラ・アウストラリス・インコグニタ」が存在するとの伝説が皇国にも伝わっていた。
景宗は、この大陸を家臣団に与えるべき新たな封土として探し求めることにしたのである。
また、経済的な理由としてアホウドリの捕獲という目的も存在していた。アホウドリの羽毛は南蛮貿易における輸出品として、高い利益を上げることが出来たからである。
この二つの理由から、結城家は泰平洋へと進出していくことになったのである。
そして、関東の南方海上に連なる小垣原諸島をさらに南下、当時、ヒスパニアが“発見”していたアマリア諸島を対ヒスパニア戦争となった比島戦役に乗じて奪取。ここを「南小垣原諸島」と改名すると、そのままさらに南下を続けて、現在の新南嶺島に到達したのである。
新南嶺島は皇国本土の二倍近い面積を誇る島(世界的に見ても、大陸を除けば第二の面積を誇る)であり、当時の結城家が結成した探索船団はこれこそが十字教の宣教師たちが語っていた「テラ・アウストラリス・インコグニタ」であると思い込んでしまった。
結果、この巨島の北岸で金鉱山が発見されたこともあり、結城家はこの島を開拓することに決定したのである。
なおこの時、アホウドリを求めて泰平洋に進出した一部の船団は、現在のペレ王国にあたる泰平洋中央部の島嶼部も“発見”している。西洋人のペレ王国到達の、実に一五〇年以上も前のことであった。
以来、新南嶺島を含む南洋植民地は、結城家の主導の下で開発と入植が進められることとなったのである。
皇国による南洋植民地統治は、秋津人の植民と現地部族の酋長を利用した間接統治という二本柱からなっていた。
つまり、秋津人到来以前に存在していた現地部族たちの統治構造を植民地の統治機構に組み込みつつ、一定程度の独自性を認めるという統治方式である。
これと対照的なのが、かつて蝦夷地と呼ばれた北溟道で行われたオイナ人に対する強制的な同化政策である。北溟道は内地とされたために、そこに住む先住民族たちの速やかな同化が求められたからである。
とはいえ、南洋植民地の統治が同化政策と無縁であったわけではない。北溟道ほどには強引ではないものの、たとえば現地島民に対して主に秋津語を教育する公学校を設置して言語的同化を推し進めた。
そうして秋津語教育を受けた新たな世代を酋長に据えるなどして、着実に南洋総督府は各地の伝統的部族社会に皇国の支配を浸透させていったのである。
さらに、南洋の島々は母系社会が多いため、彼女たちの元に家を継ぐことの出来ない結城家の次男以降、あるいは主要な家臣団の次男以降の男子を嫁がせて、結城家による影響力の強化を図ったりもしていた。
もちろん、父系社会を築いている部族に対しては女子を送り込むなど、植民地支配はある意味で次男以降の“口減らし”的側面も持っていた。分家を興して封土を与えるにしても、内地の結城家領の面積には限りがあったからである。
南洋植民地の統治が始まってから一五〇年あまりで、これらの地域には着実に秋津語や秋津人の価値観が根付いていた。
かつて各部族が持っていた伝統的社会も、植民地統治に適する形へと変貌を遂げている。一部の母系社会が父系社会へと変わってしまったことなどは、その一例であろう。
後世的視点から見れば、同化政策による独自の言語・伝統的社会の抹殺など、植民地支配による悲劇は無数に存在していたが、少なくとも同時代的には皇国による植民地支配の成功と受け止められていた。
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南洋植民地の中心はどこかと問われれば、恐らく人によって違う答えが返ってくるだろう。
総督府が置かれているのは南小垣原諸島の南端近くに存在する帛琉諸島本島で、ここが行政の中心地となっている。
一方、南洋植民地開拓などのために結城家が設立した御用会社かつ国策会社である南海興発株式会社の本社は、南小垣原諸島北部の氷川島にある。そのため、経済的にはこの島が中心地と言えないこともなかった。
さらに軍事的に見れば、秋津人が四季島諸島、現地人がトラック諸島などと呼ぶ大環礁が泰平洋における海軍の根拠地となっていることもあり、この環礁が中心地であるとも言えた。
この他、面積的に見れば新南嶺島が南洋植民地の九割以上を占めていることもあり、南洋植民地における中心地の確定を難しくしていた。
景紀と冬花がこの南洋植民地を訪れたのは、皇暦八三三年から八三四年にかけての冬(皇国内地の季節)であった。
この時期ならば南洋は台風の発生が少なく、安全に航海が出来るからだ。
この時、景紀は兵学寮を卒業して約半年あまり。
内地の中部地方ですでに何度か匪賊討伐を経験し、初陣は済ませていた。ある匪賊は山間部の農村を占拠して自分たちの封土と主張し、ある匪賊は鉄道敷設に反対する豪農層と結び付いてその土地に調査隊が入れないようにしていた。
汽車の煤煙によって作物が枯れる、列車通過時の震動で地割れが起こって水不足が起こる、などという風説を信じる者は地方では未だおり、彼らと仕官先を失った牢人たちが結び付いて領主や官憲との間に騒乱が起こるということは、一定の割合で発生しているのであった。
そうして、与えられた任務を無事にこなした景紀は、冬花を伴って南洋植民地の視察旅行に出発したのである。
最初の目的地である氷川島に到着したのは、皇暦八三三年の十一月下旬であった。
南海興発本社のあるこの氷川島を基点にして、およそ三ヶ月かけて反時計回りに南洋植民地を回る予定であった。
氷川島では南海興発の経営するサトウキビ畑や製糖工場を視察し、ついで帛琉本島の南洋総督府で南洋総督や現地島民の有力者、開拓団の団長らの歓迎を受けた後、続いて景紀と冬花は新南嶺島に向かった。
そこで二人が巻き込まれることになったのが、“南洋の士族反乱”と呼ばれる、牢人たちによる反乱であった。
◇◇◇
二人が新南嶺島で初めて上陸したのは、北西部の馬桑と呼ばれる港町であった。
この馬桑と北東部の羅江、南東部の桜浜の三港が、新南嶺島でも主要な貿易港であった。馬桑と桜浜は主にガタパーチャやコプラ、真珠など、羅江は金を積み出す港として栄えている。
ただ、新南嶺島は面積が内地の二倍以上と広大である上に、南北の往来を峻険な山岳と鬱蒼とした熱帯雨林で遮断された島であり、皇国本土のように全島的に鉄道網が張り巡らされているわけではない。
景紀と冬花はこのために、翼龍を駆って島内各地を視察することとなった。
景紀の元に不穏な情報がもたらされたのは、新南嶺島北東部の港湾都市・羅江に移動してからのことであった。
現地の州知事(州は南洋植民地の行政区画)や南海興発の羅江支店長から、新南嶺島に開拓団として渡った牢人集団の間で総督府への不満が高まっているという情報を伝えられたのである。
港湾都市である羅江は、内陸の山間部にある金鉱山と河川交通などで繋がっている。
そのため、金脈を探し当てて一攫千金を狙う無頼の輩が多数、流入しているという問題を抱えていた。いわゆる「ゴールドラッシュ」と呼ばれる現象が羅江近郊では発生していたのである。
そしてこの中には、主家の衰退・取り潰しによって生活基盤を失った牢人たちも多数、含まれていた。
しかし、金の採掘が見込める土地のほとんどは南洋総督府の直轄地(実質的に結城家の直轄地)となっており、実際の採掘は南海興発の完全子会社である新南鉱業が担っていた。
金を求めて渡航してきた者たちの目論見とは裏腹に、州庁が開拓団に分与したのは農地として開墾することを目的とした土地であった。
もちろん、州庁の指示に従って土地の開墾に努めている開拓団も存在していたが、士族として優遇されないことに対する不満を持つ牢人たちは一定数、存在していたのである。
さらにそうした者たちにとって屈辱的だったのが、現地島民の中に士族出身者よりも成功を収めている者たちがいたことである。
現地島民の部族長の中には秋津人の農業技術を積極的に取り入れて、農園経営者として大成功を収める者も存在していた。さらに多数の現地島民が製糖業、鰹節製造などの水産加工業、あるいは大工などの労働者として働いていた。
伝統的な部族社会から、秋津人の築いた植民地社会の中に生活基盤を移していた島民たちも多かったのである。
また、新南嶺島はその面積に比べて人口が少なく、なおさら現地島民は労働力として貴重であった(反対に、島嶼部である南洋群島では現地島民よりも秋津人移住者の数の方が多くなっている)。
内地の秋津人の多くにとって、南洋植民地の島民たちは「南海の蝦夷」であった。自分たちが秋津皇国皇主に服従する夷狄よりも低い水準の生活に甘んじなければならないことに、屈辱を感じる牢人たちも多かったのである。
あるいは、牢人となったからこそ、現地島民たちに対する秋津人としての優越感を肥大化させているのかもしれない。そうすることで、牢人たちは士族である自分たちの自尊心を満たそうとしているのだろう。
「内地も外地も、牢人問題はどこにでもつきまとうんだな……」
げんなりとした調子で、景紀はぼやいた。
彼は南洋植民地の視察に出る前は、内地で匪賊となった牢人の討伐を行っていた。それが、外地に出ても同じ問題に悩まされるとは。
「総督府も、牢人を始めとする“不良秋津人”の流入には困っているみたいだったしね」
主君の愚痴に、冬花が応じる。
二人は羅江の州知事公館を滞在場所として提供されていた。
「内地で生活に行き詰まった者たちが再起を図る場所としての植民地は必要だから、渡航を大きく制限するわけにいかないんだよなぁ……」
「牢人以外にも無頼の輩が内地に溢れると、社会不安が増大するからね」
「むしろそういう連中の追い出し先としての植民地、って意味もあるから、難しいところだよな」
主従二人は揃って溜息をつく。
ここ半世紀ほどの間に、皇国では食糧生産量の向上、医療・衛生技術の進歩によって人口が急激に増加していた。五〇年ほど前には三〇〇〇万人程度であった内地人口は、今や四〇〇〇万人を超えている。
内地だけでは養い切れない人口を植民地に送り込んで開拓に従事させているというのが、現在の皇国の一側面であった。
「ただまあ、牢人連中の華夷思想はどうにかしないと、現地島民との間で要らん軋轢が起こるぞ」
中華帝国を中心とする東アジア国際秩序から逸脱している秋津皇国であるが、東アジア文化圏に属するためにその対外認識には華夷思想の影響が色濃く反映されていた。
古代、朝廷に従わない異民族を「蝦夷」などと呼称していたように、あるいは現在の攘夷思想のように、自国(正確には皇主)を中心とする対外認識が皇国には根強く存在しているのである。
「こりゃあ、内地に帰ったら父上に移住希望者向け講習所の拡充を提案しないといけないだろうな」
「後は外務省や拓務省にも根回しが必要でしょうね。まあ、そういう現状の南洋植民地の問題を把握するっていうのも、今回の視察の目的の一つだから、これはこれで目的を果たせて良かったんでしょうけど」
いまいち釈然としない口調で、冬花が景紀の言葉に応じた。
皇国本土のいくつかの領国や中央政府直轄府県には、植民地への移住、あるいは海外への移民を希望する者に対して、現地の気候や風俗、あるいは制度などを教育する講習所が設けられている。
結城家領内では特に南洋植民地への移住希望者が多いため、領内各所に講習所が存在している。これは、領営の講習所であった。
しかし、結城家の統治権が及ばない他の領国から南洋植民地にやってくる者たちに対しては、当然ながら十分な講習や、あるいは移住希望者の身元確認・選別が行えていない。
だからこそ、植民地政策を担当する拓務省との連携が必要になってくるわけである。
また、海外移住希望者に関しては外務省の管轄であり、今後の移植民政策のことを考えれば拓務省と外務省、そして六家による政治的協力が必要であった。
本来であれば中央政府が一括して管轄すべき移植民事業の権限の一部を、六家とはいえ一諸侯が握っていることが問題を複雑化させていた。
中央集権体制を整えないまま海外進出を続けている皇国の歪さは、こうしたところにも現れていたのである。
「こういう厄介な連中は、内地に送り返したところで今度は内地で厄介事を起こすだけだろうし、どうにかならんかな」
「変に矜持が高すぎる人間って、扱いにくいのよね。私も女子学士院で体験したわ」
昨春に卒業した学校のことを思い出したのか、冬花の言葉には妙に実感が籠っていた。
彼女の場合、士族とはいえ家格はそれほど高くない。白髪赤目というその容姿に加え、華族や高位士族の娘たちもいる女子学士院で首席を維持していたこともあり、妬みや嫉みの感情を向けられることもしばしばであった。
「そういや、兵学寮にもそういう連中はいたなぁ……」
景紀もまた、どこか遠い眼をする。すると、冬花が不思議そうに問うてきた。
「六家の次期当主相手に居丈高に振る舞う生徒って、いったいどこの家よ?」
六家は五摂家と合せて、皇国に十一しか存在しない公爵家である。そこの次期当主を相手に横柄な態度を取る生徒が存在していたことが、冬花には驚きだった。
「ほら、例の景秀叔父のところの景保とか」
景紀の父・景忠公の異母弟・景秀の嫡男・景保は兵学寮三期先輩であった。父と叔父の兄弟仲が悪い影響か、景紀と景保の仲も良くない。幼少期に冬花を虐めていた子供たちの一人でもあった。
「それと、先輩連中の中にいる、他の六家の分家筋や重臣筋の連中とかだな。俺が首席であることと六家次期当主であることを結びつけた邪推やら、次席の貴通って奴と“念友”の疑いをかけたりと、とりあえず俺と貴通を貶めたいって考える輩はそれなりにいたぞ?」
景紀はあえて言わなかったが、自分と冬花の関係を揶揄する連中も、先輩の中にはいた。そうした連中を貴通と一緒に叩きのめしたことも、今となってはある種の笑い話である。
「どこの世界にも、厄介な人間はいるものね」
「ああ、まったくだ」
二人揃ってついた溜息は、南洋の暑気の中に溶けて消えていった。
幼い頃に比べれば自分たちは心身ともに成長しているし、それによって主とシキガミという絆をより強いものしていると感じているが、だからといってそれだけですべての問題が都合よく片付くわけでもない。
景紀が次期当主としての立場を確かなものにし、冬花もまた補佐官としての地位を確立したことで、二人は結城家が六家であるが故に抱える問題に立ち向かっていかなければならないのであった。
今回から前編、中編、後編と三回に分けて、これまで作中で何度が言及してきました新南嶺島での反乱について描写していきます。
実質的には過去編というよりも、作中における南洋植民地の解説回です。本編でやりますと冗長になる恐れがありましたので、過去編という形式にした次第です。
泰平洋島嶼部の設定で一番苦労したのは、地名です。
地形は現実世界のものを流用しつつ、異世界感を出すために独自の地名を考え出さねばならないのですが、これが非常に難しかったです。
以下、地名の由来について解説していきます。
・氷川島……サイパン島に相当。史実では「彩帆島」という当て字がありましたが、作中では採用しませんでした。「氷川島」としたのは、史実でグアム島が「大宮島」と改名されたことから、大宮といえば武蔵国一宮の氷川神社だろうという安易な連想から、「氷川島」としました。
・帛琉諸島……パラオ諸島に相当。「帛琉」は中国の当て字。日本では馴染みのない当て字なので流用させていただきました。
・馬桑、羅江……それぞれマノクワリ、ラエに相当。北海道のように現地地名を無理矢理漢字に当てはめるという手法を採用してこのようになりました。
・桜浜……ポートモレスビーに相当。珊瑚海に面しているということで、海中の珊瑚を桜に見立ててこの名前にしました。
・花吹島……ニューブリテン島に相当。史実ではラバウルにあるダブルブル山を日本が「花吹山」と改名したことから採用しました。
士族反乱に関する主要参考文献
落合弘樹『明治国家と士族』(吉川弘文館、二〇〇一年)
後藤靖『士族反乱の研究』(青木書店、一九六七年)
新熊本市史編纂委員会『新熊本市史 通史編 第五巻 近代1』(熊本市、二〇〇一年)
長南政義「軍事分析 佐賀の乱(佐賀戦争)」前後編(『歴史群像』第一六三号~一六四号、二〇二〇年)
堤啓次郎『地方統治体制の形成と士族反乱』(九州大学出版会、二〇一〇年)
南洋群島・南太平洋に関する主要参考文献
石川栄吉編『民族の世界史14 オセアニア世界の伝統と変貌』(山川出版社、一九八七年)
石森大和・吉岡政徳編著『南太平洋を知るための58章』(明石書店、二〇一〇年)
石森大和・丹羽典生編著『太平洋諸島の歴史を知るための60章』(明石書店、二〇一九年)
井上亮『忘れられた島々 「南洋群島」の現代史』(平凡社、二〇一五年)
印東道子編著『ミクロネシアを知るための58章』(明石書店、二〇〇五年)
大江志乃夫ほか編『岩波講座 近代日本と植民地』第一巻(岩波書店、一九九二年)
等松春夫『日本帝国と委任統治』(名古屋大学出版会、二〇一一年)
南洋協会『日本の南洋群島』(南洋協会、一九三五年)
南洋庁『南太平洋諸島(写真と解説)』(南洋庁、一九三八年)
矢内原忠雄『南洋群島の研究』(岩波書店、一九三五年)
山本真鳥編『世界各国史27 オセアニア史』(山川出版社、二〇〇〇年)
アントニー・アルバーズ(井上英明訳)『ニュージーランド神話』(青土社、一九九七年)
ロズリン・ポイニャント(豊田由貴夫訳)『オセアニア神話』(青土社、一九九三年)




