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【書籍化】秋津皇国興亡記  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第八章 中華衰亡編

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146 黒い夢

「……」


 未だ昏睡を続ける景紀を、冬花はじっと見下ろしていた。

 主君たる少年の体に蛇のように巻き付く呪詛の漢文。彼の体から呪詛を移した自分の体にも、呪いと怨念の言葉で紡がれた漢文が取り巻いている。

 自分が呪詛にかかる危険性も省みなかった景紀に、言いたいことは沢山ある。怒りの言葉も、不満の言葉も、心配の言葉も。

 でも同じくらい、主君への呪詛を防げなかった自分自身にも不甲斐なさを感じている。


『……葛葉殿、聞こえるか?』


 そんな悶々とした思いを抱えていると、不意に呪術通信の術式を書き込んだ呪符から声があった。


「弓削殿ですか? 何か?」


 冬花の声は、平坦ながらもどこか煩わしそうな響きが混じっていた。

 声の主は、有馬貞朋御付きの術者・弓削慶福だった。景紀と貞朋が私的な通信をするために、冬花は貞朋御付きの術者である弓削との間に直通の呪術通信回線を設けていた。


『児島参謀長閣下より、貴殿に確認したいことがあるそうだ。今、代わる』


『……第三軍参謀長の児島だ』


 呪符の先から聞こえてくる声が変わる。


「はい、何でしょうか?」


 冬花は努めて丁寧な口調を維持していた。今は景紀の解呪に集中しなければならないというのに、それを妨げられているような気分であった。


『結城少将の容態はどうなっている?』


「景紀様は、未だ昏睡状態のままです。呪詛の一部を私に移して、これ以上、若様の体に負担がかかるのを防いでいます」


『なるほど。一応、容態は安定しているというわけだな?』


「……」


 呪詛を受けて昏睡状態になっているというのに、それを「安定」と評した相手に冬花はかすかな苛立ちを覚える。


『第三軍は、攻勢転移を決断した。貴殿は、敵軍に爆裂術式を撃ち込むだけの余裕はあるか?』


「私は、景紀様のシキガミです」


 はね除けるような調子で、冬花は答えてしまった。


「景紀様の呪詛を放置して、軍の作戦に加わることは出来ません」


『……そうだったな』


 気圧されたのか納得したのか、少し溜息をつくような調子で児島の声が返る。


『貴殿は結城家次期当主たる景紀殿の従者であって、独混第一旅団長・結城景紀少将の副官ではないのだったな。これも我が国の歪な国家体制の一端か……』


 呪符の先から聞こえる言葉は、独り言のような響きを持っていた。


『貴殿の主君への忠義は承知した。軍は軍として最善を尽くす故、貴殿も主君のために最善を尽くすが良かろう』


 児島はどこか突き放すような声でそう言うと、通信を打ち切った。それで、部屋に再び静寂が戻る。

 第三軍が攻勢に転移するとか、あるいはそれに合せて独混第一旅団も作戦行動を開始しなければならないとか、そんなことは冬花にはどうでもよかった。

 自分は、結城景紀のシキガミなのだ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 白髪の少女は、そっと己の脇腹をさすった。そこには、景紀との呪術契約の証たる彼の体の一部―――移植した肋骨があった。

 自分と景紀は、契約によって霊的に繋がっている。


「……」


 未だ眠り続ける景紀を見下ろしながら、冬花は一つに括っていた己の髪を解いた。

 はらりと、長く艶やかな白髪が背中に流れる。そこから一筋の髪を、冬花はぷつりと引き抜いた。

 銀糸のような髪を己の小指に巻き付け、もう一方の端を景紀の小指に結びつける。

 幼い日に「シキガミ」となる契約を交わした互いの小指。たとえ児戯に等しい、契約にもなっていない子供同士の約束であっても、それが冬花にとっての原点なのだ。

 自分が妖狐の血を暴走させてしまった時、自分の正気を取り戻させてくれたのは景紀だった。

 だから今度は、自分が景紀を迎えに行く番だろう。

 景紀の眠る寝台の側に腰を下ろした陰陽師の少女は、空いている方の手を腕ごと布団の上に置いた。


「今、お迎えに上がります、若様」


 その腕に頭を乗せながら景紀の顔を最後に見て、冬花は己の意識を暗闇の中に沈めていった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 結城景紀という存在は、悪意と憎悪に満ちた暗闇の中を彷徨っていた。

 体の感覚もある。意識もはっきりしている。だけれどもそれらは、常に切り刻まれるような痛みを結城景紀という存在に与えて続けていた。


「ああ、くそっ……」


 際限ない頭痛が意識を責め苛む中、景紀は強がるように毒づいた。


「こんなことになるんならやるんじゃなかったぜ……」


 重く、激しい痛みに意識が塗り潰されようとしている中でも、景紀は己自身を保っていた。冬花と宵が作って持たせてくれたお守りのお陰だろう。

 こんな状況で発狂出来ないのはかえって残酷なことかもしれないと何度か思いかけたが、それでも景紀は二人の少女の想いを蔑ろにしたくはなかった。

 だから、正気を失うことも出来ない苦痛に耐えて、この暗闇の中を歩き続けている。


「冬花や貴通にも心配かけてるだろうな……。もう二度と、自分から呪詛にかかりにいくなんて真似はしねぇ……」


 自分の本当の体が意識を失ってからどれくらいの時間が経っているのか、景紀には判らなかった。ただぶつぶつと独り言を呟くことで、際限ない苦痛から意識を逸らそうとする。

 そんな自分を闇の中に引きずり込もうと、無数の骸骨や亡者が手足を掴み、体にしがみついてくる。

 それらを振り解き、あるいは亡者たちの爪や骨に体に無数の裂傷を刻まれて血を流しながら、景紀は暗闇の中を進み続けた。

 とにかく、立ち止まってなどいられなかった。

 立ち止まればそこで自分の精神は怨霊たちの中に呑み込まれてしまいそうな気がしていたし、何より彼自身の矜持が立ち止まるということを許さなかった。

 自分は、シキガミたる葛葉冬花の主なのだ。

 彼女が自分のシキガミであることに忠実であろうとするように、自分もまた彼女の主に相応しくなければならない。

 恐怖と苦痛の中で無様に立ち止まり、怨霊たちの中に呑み込まれるような醜態を、シキガミの前で晒すわけにはいかないのだ。

 自分は、彼女がシキガミであることを誇れるような主でなければならない。そうでなければ、自分の所為で生をうけ、そして忌み子として蔑まれてきた彼女があまりにも浮かばれない。


「ごほっ……がはっ……」


 意識を蝕む怨念に、景紀は空嘔吐きを繰り返す。


「ああ、くそっ……」


 袖でぐいと口を拭いながら、景紀は呟いた。

 実体のない、精神だけの世界ではいくら体力を消耗しようと、いくら出血しようと意志さえあれば体を動かすことが出来る。

 だからまだ、自分は動ける。

 景紀は緩慢な動作で、それでもしっかりとした足取りで闇の中を歩き続けた。体感時間すら曖昧な空間を、彼は彷徨い続ける。

 不意に、本当に不意に、怨念以外の念が空間に響き渡った。

 それは、獣の咆哮だった。

 地を這うような恐ろしげな叫びが、押し潰されるような怨念に満ちた空間に広がっていく。骸骨や腐肉の亡者たちすら、怯えるように一瞬、その動きを止めた。

 だがその遠吠えのような声を、景紀だけは恐ろしいとは感じなかった。どこか美しさすら覚える、そして誰かを呼んでいるようにも聞こえる、獣の咆哮であった。


「……俺を、呼んでいるのか?」


 闇の奥のその奥から響いてくるような叫びに、景紀の口元にかすかな笑みが浮かぶ。


「……ったく、今からそっちに行くから、あんまり無茶なことをやらかすんじゃねぇぞ、冬花」


 自分の身がこんな状況になっても、心配になるのはシキガミの少女であることを、景紀はどこかおかしく思った。

 そうして全身を苛む苦痛をおして、彼はゆっくりと暗闇の奥へと歩みを進めていった。


  ◇◇◇


 目を開けると、宵は奇妙な圧迫感を覚える暗闇の中に立っていた。


「ここは……?」


 自分は、布団の中に入って寝たはずだ。まさか、寝ている間に拐かされたというわけでもあるまい。

 宵は、暗闇の中を冷静に観察する。

 多少の不安はあるが、狼狽はない。

 景紀に嫁いでから修羅場を潜り抜けてきた経験がそうさせるのか、心は不思議と落ち着いていた。

 自分の体を見下ろすと、白い寝巻姿のままだ。

 暗闇の中で、自分の姿だけがぽっかりと浮かんでいる。

 すると、ここは夢の世界なのだろうか。明晰夢という言葉を聞いたことがあるが、いやにはっきりと自分自身の体の感覚がある。

 それに、この暗闇に満ちる重苦しい圧迫感も解せなかった。

 そこでふと、左手の中で揺れるものがあった。何だと思って見てみると、宵はいつの間にか自分が白木の鞘を握っていることに気付いた。

 宵自身が“雪椿”と号を与えた、景紀の霊刀だ。その刀が、宵の手の中で己の存在を主張するように小さく震えている。

 “雪椿”がこの場にあることの意味を、彼女は考える。この刀は、自分の守護のために景紀が預けてくれたものだ。

 この本能的な恐怖を覚えそうになる暗闇と、体や心にのし掛かる圧迫感に満ちた空間に誘い込まれた自分を、この刀が守護してくれているのかもしれない。

 でもいったい何故、自分はこんな場所にいるのだろう。宵はその場から動かず、じっと考える。

 真っ先に思いついたのが、自分自身が呪詛に掛けられている可能性だ。失脚して日高州に流された父に、未だ忠誠を誓っている佐薙家旧家臣団は一定数存在している。

 そうした者たちが、実家である佐薙家を切り捨てて六家に取り込まれたように見える自分を呪術師を雇って呪ったとしても不思議ではない。

 だとしたら、不用意に動かずに意識が覚めるのを待つべきか。

 幸い、景忠公が皇都に出てきているために、御付きの術者である冬花の父・英市郎とその妻・若菜も結城家皇都屋敷にいる。葛葉家次期当主として研鑽を積んでいる最中であるが、鉄之介もいる。宵の身に呪詛がかけられたとすれば、彼らが解呪を試みてくれるだろう。

 そう考えていると、不意に足に怖気が走った。何かに掴まれたような不快な感覚が、背中を突き抜ける。


「っ―――!?」


 反射的にその場を跳び退くと、闇の中から抜け出すように骸骨の手が幾本も足下から浮かび上がってくるのが見えた。あの一つに、足首を掴まれていたのだろう。

 そして今度は、視界の端に腐肉の手が映った。

 それらは水から上がってくるかのように、闇の中から徐々にその全身を露わにしていく。骸骨に、腐肉の亡者。

 そのようなものに怯えるような心を、宵は持ち合わせていない。父に拐かされたあの廃寺で、そして殺気立った群衆に取り囲まれた陽鮮の倭館で、何度も目にした存在だ。

 宵も武家の娘である。

 血や死体を見ることの覚悟は、とうについている。

 そしてまた、武家の娘であるが故に武術の心得もある。

 宵は自分に掴みかかろうとする亡者の腕を、さっと抜き放った“雪椿”で斬り捨てた。足下から伸びる骸骨の腕を斬り飛ばし、腐肉の亡者の胴を刀で薙いだ。

 斬る感覚はあるが、あまりにも抵抗がなさ過ぎた。この空間では、実体がないからだろう。

 そして、鞘から抜いた“雪椿”は宵の周囲に結界でも張ってくれたのか、骸骨や腐肉の亡者たちが一定距離以上に近付こうとはしなくなった。

 “雪椿”の刀身が、また震えた。

 何かを訴えるかのように小刻みに振動し、刀がまるで意思ある存在のように柄を握る宵の手を引っ張った。

 宵はそれに逆らわず、この霊刀の導きに従うことにした。

 この空間が何だとか、自分が何故この空間に迷い込んだだとか、そのような疑問はひとまず置いておく。この空間を脱してから、あるいは目覚めてから、英市郎などに相談すればいいだけだ。

 暗く圧迫感に満ちた空間の中には、声なき亡者の怨念に満ちていた。

 その不気味でおぞましい闇の中を、裸足のまま宵は進んでいく。

 見る者がいれば怨霊よりも宵の方を不気味に見るだろうほど、彼女の足取りは落ち着いていた。父に拐かされて冬花の悲鳴を聞かされ続け、陽鮮の武官に両足の腱を切られたまま床に転がされていたことに比べれば、悪夢の中に囚われる程度、どうということもない。

 刹那、まったく唐突に暗闇の彼方から獣の咆哮が響いてきた。

 どこかで聞いた、叫び声だった。


「あれは、冬花様の……?」


 あの陰陽師の少女が妖狐の血を暴走させてしまった場面を、宵は一度だけ目撃している。その時にも、こんな叫びを聞いたような覚えがある。

 だけれども、あの廃寺の時ほど叫びに狂乱の響きはなかった。

 どちらかといえば、敵を威嚇するような、あるいは仲間を呼び寄せようとするような、そんな獣の咆哮であった。

 手の中にある霊刀“雪椿”は、まだ宵を導こうとしていた。

 暗闇の奥から響く咆哮が気になりつつも、彼女は刀に従った。体感時間も距離感も曖昧な空間の中を、どれほど進んだのか判らない。

 不意に、宵の進む先の闇の中に、何か動くものが浮かび上がってきた。一瞬、正体を見極めるために足を止めようとしたが、“雪椿”はなおも宵の手を引っ張ろうとする。少しだけつんのめるようになりながら、黒髪の少女はその影へと近付いていく。


「えっ……?」


 ようやくその正体が見えてきたとき、宵は思わず声を上げてしまった。


「景紀様……?」


 そう呟いた瞬間、宵は駆け出していた。自分のように得物も何も持たない景紀は、闇の中から伸びてくる骸骨の手や腐肉の腕にまとわりつかれ、それを振り解きながら、よろめくようにこの空間を進んでいた。


「景紀様!」


 叫びながら駆け寄った宵は、景紀に手を伸す怨霊の群れに斬りかかった。やはり先ほどと同じく斬るときの抵抗もなく、斬られた骸骨や腐肉の亡者たちは霧散するように再び闇の中に消えていった。


「は……?」


 突然現れた宵の姿に理解が追いついていないのか、景紀は一瞬だけ呆けた表情を見せた。もっとも、宵だって景紀がこの場にいる理由を理解出来ていなかったが。


「宵……? お前、どうして……?」


 この怨霊しかいない空間の中で見知った顔に出会えたことに、景紀の気が緩んだのかもしれない。疑問の呟きを漏らすと同時に、少年の体が均衡を失ったように傾いだ。


「景紀様!」


 思わず宵は、その体を正面から抱き留めた。頭一つ分は身長差のある少年の体が、少女の体にもたれ掛かる。


「ははっ、情けねぇなぁ……」


 身長差の所為で、支えるというよりは宵がのし掛かられているような体勢になる。宵と違い、景紀は立つことも辛いようだった。


「どうして、景紀様はこの空間に?」


 確かに宵は、自分の夢と景紀の夢が繋がると良いと思っていた。だけれども、こんな形は望んでいない。こんな負の念に満ちた空間に景紀を呼び込んでしまったのではないかと思うと、とても申し訳ない気持ちになってしまう。


「それはこっちの台詞だ。まさか、宵まで怨念に囚われてるとはな。巻き込んじまって、ごめんな」


 声に苦痛を堪える響きを乗せながら、景紀はすまなそうに言う。

 つまりこれは、景紀に取り憑いている怨念に満ちた空間ということか。呼び込まれたのは景紀ではなく、宵の方だったのかもしれない。


「気付いたら、“雪椿”と共にこの場所にいました」


 今も“雪椿”の霊的守護は続いているのか、宵と景紀に近付こうとする怨霊は存在していない。


「多分、“雪椿”がお前の精神をこっちに呼び込んじまったんだろうな」


 そうして景紀は、簡潔に自らの陥った状況を説明してくれた。この怨霊に満ちた空間は、斉の呪術師が景紀に死霊を取り憑かせて生み出したものらしいということであった。


「……そう、ですか」


 宵はそっと、自らの手の内にある“雪椿”を見る。

 この霊刀とともに自分がこの空間に迷い込んでしまった原因。それはもしかしたら、自分が夢でもいいから景紀と会いたいと思ってしまったからかもしれない。

 不意にまた、獣の咆哮が轟いた。誰かを呼ぶような、少し切実にも聞こえる遠吠え。


「……冬花が、呼んでるな」


 そう言うと、景紀は再び歩き出そうとする。その足取りは、どこか不安定だった。宵は慌てて刀を鞘に収めて、彼の体を支えながら共に歩く。


「ありがとな」


 互いの体格差のために上手く景紀の腕を肩に回せているわけではないが、それでも宵の支えのお陰で彼の歩みは少し楽になったようだった。


「それと、巻き込んですまなかったな」苦痛の中に悔やむような響きを乗せて、景紀は言った。「俺に嫁いでから、お前にはこんな目ばっか遭わせてるな」


 それが少し、景紀にとっては後ろめたかったらしい。


「いいえ、私は景紀様に出逢えたことを悔いてはおりません」


 だけれども、彼がそんなことを感じる必要はない。だから、宵は強く言い切った。そして、肩に回している景紀の腕を握る力を少しだけ強めた。


「それにこの度は、こうした形であっても景紀様にお会い出来ましたから。私には、それで満足なのです」


 この場に不釣り合いかもしれないが、宵は口元に微かな笑みを浮かべていた。

 肩を貸している景紀の体温は、よく判らない。この空間と同じく、どこか曖昧に感じる。でも、彼の重みは感じることが出来た。数ヶ月ぶりに、宵は景紀の存在を直に接することが出来たのだ。


「そっか」


 それで、景紀は納得したようだった。


「寂しい思いをさせちまったな」


「いえ、これも武家の妻たる者の務めでしょう。ただ、理性と感情は別というだけの話で」


「俺は見ての通り斉の術者の呪詛にかかるなんてヘマをやらかしたが、まあ、それ以外は元気だ。冬花も、貴通もな」


「私も、病にかかることなく過ごせています」


 景紀が辛そうな状況で喋るのもどうかと思ったが、宵は口を閉じることが出来なかった。彼と他愛ない会話をしているだけで、心の中の空白が満たされていくような感覚だった。


「そういえば先日、嶺州の試験農場で採れた米を献上されました。今年の秋は、特に凶作に見舞われることなく米を収穫出来たようです」


「ああ、そいつは良かったな」


 感嘆の声が、宵の耳元から漏れる。


「はい、景紀様のご尽力のお陰です」


「宵だって頑張ったんだ。もう少し誇っていいぞ」


 優しく労るように、景紀はそう言ってくれた。


「はい、ありがとうございます」


 はにかむように、少し俯き加減に宵は言う。もしかしたら自分は、故郷の米を献上された時よりもこの少年に褒められた今の方が、喜びを感じているのかもしれない。

 宵は、そんなことを思った。

 誰かを呼ぶような獣の吠え声は、徐々に近付いてきていた。自分はどれくらいの時間、どれくらいの距離を歩いていたのだろうか?


「―――なあ、宵」


 ふわりと笑うような声で、景紀が言った。


「俺も、お前に会えて安心した。それに、今回は俺が助けられた。ありがとうな」


「景紀さ―――」






「―――ま」


 そこでハッと、宵は目が覚めた。

 故郷の嶺州よりは温暖だが、それでも冬らしい寒さが満ちる結城家皇都屋敷の寝室。

 宵は上半身を起こした。右を見ても左を見ても、景紀はおろかあの怨霊たちもいない。ただ、障子から透けて入ってくる薄明かりがぼんやりと自分一人の部屋を照らしているだけであった。

 自分は夢を見ていたのだろうか、と宵は己の手に残る景紀の存在を確かめるように何度か握りしめる。

 でももし、自分が怨霊たちに取り憑かれた景紀をあの獣の叫ぶ場所まで導くことが出来たならば……。

 そうだったなら良いと、宵はどこか祈るような気持ちでそう思ったのだった。

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