4 孤独な者たち
皇暦八三五年九月一日、皇主によって宣戦の詔書が発せられると、皇都の雰囲気も結城家皇都屋敷の様子もまた少し変わった。
一日には久の誘いで皇都の神宮に戦勝祈願の参拝をしつつ宵は景紀の無事を祈ったが、行き帰りで見た皇都市内はむしろどこか晴れ晴れとした表情の市民たちの顔で溢れていた。中にはこの対斉戦役を東亜新秩序建設のための聖戦だと言う者もおり、宵としては何となく不気味な心地がしてしまった。
夫を戦地に送り出した女の一人として、戦争というものを歓喜と共に捉えることが出来なかったのだ。
だが一方で、宵の理性的な面は皇都市民たち、あるいは皇国臣民たちの気持ちも無理からぬことであろうと理解していた。
皇国は、ある意味で孤独な国家である。
東洋で最も近代化に成功した国家である反面、そうした有色人種の国家は秋津皇国程度でしかないからだ。白人勢力である西洋列強に対抗出来る国家が、自分たち一国だけでしかないという点は、秋津人の他の有色人種に対する優越感・差別感情と共に、孤独感を植え付けた。
攘夷派の喧伝などによってルーシー帝国やヴィンランド合衆国による圧迫を受け続けていると感じている国民にとって、東亜新秩序建設というのは、そうした対外的な圧迫感・孤独感を吹き飛ばしてくれるある種の幻想なのだろう。
「はぁ……」
小さな溜息を共に、宵は呼んでいた手紙から顔を上げた。
手紙は景紀からのもので、宵の体調などを気遣う文言が並べられているが、今どこにいるのかといった機密事項に関わる情報は一切書かれていなかった。必然的に、当たり障りのない内容となってしまう。
景紀が約束を守ってくれているのは嬉しいが、手紙を受け取れば受け取るほど、逆に寂しさが募っていくような気もする。
これでは久が景紀のかげ膳を据えようとするのも判るな、と宵はいささか迷信深いと感じてしまった義母の行動に納得した。
かげ膳とは、遠くに行ってしまった家族の安全を祈願するために留守宅にいる者がするお供えのことである。汁物の蓋に湯気で雫が一杯に溜まっていれば、その人は無事であるとされる。
たった一人、成長することが出来た我が子がよほど心配なのか、久はよくこの雫を確認して一喜一憂している。
皇都では、一色公直公に率いられた第二軍が仁宗国王を護衛して堂々と陽鮮王国王都・帯城に入城したことを知らせる新聞記事が舞い、成歓会戦や豊島沖海戦、あるいは帯城入城の様子を描いた錦絵や幻灯(原始的なスライド映写機)の上映会が市民の間で人気を博しているというが、宵には興味のないことであった。
宣戦布告後の宵の日常といえば、屋敷で武術や華道、茶道などの稽古をし、篤志看護婦人会での看護講習を受け、頼朋翁や多喜子姫と会談をするといった程度で、今のところ大きな波乱は起きていない。
ただ一方、国内的には戦時体制を構築するための措置が粛々と進んでいた。
六家と中央政府との間で挙国一致体制の確立に関する合意が形成され、政府が発行する第一次戦時公債三〇〇〇万円を、六家は各五〇〇万円ずつ負担することとなった。
さらに成歓会戦と豊島沖海戦の勝利、そして皇国軍の帯城入城に国民世論が湧いている時期を狙って、六家と政府は衆民院の解散総選挙に打って出たのである。
一部の民権派が、戦争遂行のためには「国民的挙国一致」の政府が必要であると叫んで、六家の拒否権を背景とする門閥政府批判を大々的に行っていたことが原因の一つであった。
これは、六家側の目指す挙国一致体制と民権派の望む挙国一致体制の違いから生じた両者の対立であった。六家側は六家を始めとする諸侯のみでの挙国一致を考えていたが、民権派は国民全体としての挙国一致を考えていたのである。
九月二十五日、政府は衆民院総選挙を公示し、十一月一日に総選挙を実施すると布告した。
政治的にはそのような変転があったが、意外なことに民衆の間の混乱は小さかった。
前回の広南出兵時は戦争特需を期待した商人たちが米の売り惜しみをして米価が高騰し、「米騒動」と呼ばれる一揆騒ぎが発生したが、今回はそのような騒擾は起こっていないという。
政府や六家が米価を統制しているわけではなく、御用商人を使って米を適正な価格で売らせているために、他の商人たちが不当に米を蓄えたり米価を吊り上げたりすることを防いでいるのだ。下手な価格統制は闇市を誘発するので、こうした対策が取られているという。
「姫様、八重さんが屋敷にいらしていますが?」
と、世話役の済が部屋の外から声を掛けてきた。
「ああ、通して下さい」
今日は何の用だろう、と思っていると、廊下をドタバタと走る音が近付いてきた。
「姫様、こんにちは!」
相変わらず溌剌とした調子で、急停止した八重は挨拶した。
「ええ、こんにちは。ただ、廊下は走るものではありませんよ」
「いいじゃない、ここには口うるさい先生たちもいないんだし」
むぅ、と八重がむくれたようになる。そんな他愛ない遣り取りが、宵には何だか嬉しかった。
「……もしかしてそれ、若様からの手紙」
水干姿の少女は目敏く宵の手にあるものに気付いた。
「ええ、そうですね」
特に隠すことでもないので、宵は首肯する。
「手紙というものは良いものです。相手が遠くにいても、こうして言葉を交わすことが出来るのですから。とはいえ、実際に会えるのが一番だと、最近は実感しているところですが」
そう言って、宵は手紙に目を落とす。
「やっぱり、ちょっと元気ないわね。鉄之介の奴も最近の姫様のこと、心配していたわ」
いつも無表情に近い宵の顔に浮かんだ淡い笑みを、八重は見逃さなかった。労るように、そう言う。
「そうですね。景紀様に嫁いでからの日々があまりに濃厚だったためか、景紀様や冬花様のおられない日々がどこか気の抜けたもののように感じます」
戦時だというのに、宵はそんな矛盾した気持ちを抱えていた。
「正直、今の姫様には、ちょっとした気分転換が必要だと思うわ」
「まあ、そうは思いますが……」
幻灯の上映会も興味はないし、かといって歌舞伎などの演劇も特に見たいとも思わない。やっぱり自分は景紀たちと共に過ごせる日々が一番楽しいようだ。
「今度の休みの日に、学士院の方で皇都郊外の農作業の手伝いをすることになったの。姫様も参加しない? 姫様って、そういう農民のことを気に掛けている方だって、冬花さんが言っていたから」
「ああ、確かに今、関東では米の収穫時期に差し掛かっていますね」
そんな時期に戦争が開始され、男手が軍隊に取られてしまったのだ。いくら平民の長男は徴兵が免除されているとはいえ、働き盛りの年齢の若者が農村からごっそりと減ってしまったことに変わりはない。
「ほら、学士院って華族や士族の学校でしょ? こういう時に率先して動かないと、平民たちに示しがつかないって上級生の人たちが言い出してね。農家に里子に出されていた子たちを中心に、勤労奉仕活動をする人たちを募ってるの」
将家や公家の子女の中でも、特に側室や愛妾の子は学齢まで付き合いのある平民の家に里子として預けられる場合がある。皇都屋敷や居城に出入りする御用商人の家や、奥女中として雇われている農家(主に豪農層)の娘の実家などが、その主な対象であった。
つまり、幼少期に農家に預けられた経験のある生徒たちが中心になって、今回の勤労奉仕活動を呼びかけているということだろう。
「なるほど、一理ある意見ですね」
そして、面白い意見だと思った。
もちろん、それを例えば結城家領内の全学校の生徒たちに強要することは出来ないだろうが、他の者たちの行動を促すために地位ある者たちが範を示すということも必要だろう。
「是非、その勤労奉仕活動に参加したいと思います」
「うん、それが良いと思うわ」ニカッと八重は宵に笑いかけた。「農作業も、やってみると案外楽しいかもしれないしね」
「ええ、良い気分転換になりそうです」
本当に体を動かすことが好きな人だな、と宵は頷きながら思う。
たとえ一時のことであっても戦時下の平民の苦労を体験することは、今後の自分にとって何かの糧になるかもしれないし、景紀に政策を提言するときの材料になるかもしれない。
別にやる気を失っていたというわけではないのだが、景紀がいないことと、政治的駆け引きばかりの日々にいささか気分が塞ぎ込んでいたことは事実だった。だから、何の打算も企みもない八重の誘いは、本当に良い気分転換になるだろう。
それに、未知の体験をすることへのワクワクとした感情が湧き上がってくるのを宵は感じていた。景紀に嫁いでから未知の体験をすることは多かったが、今回のことには珍しく景紀は関わっていない(この場にいないのだから当然だが)。
景紀が帰ってき時の話のネタに出来そうだな、と宵は八重や鉄之介と共に農作業に出かける日が来るのが楽しみになってきていたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「何だか、宵姫さんが農作業の手伝いに行くらしいですよ。女子学士院の後輩が教えてくれました」
「どっかのお姫様とは違って、殊勝な姫君だな」
「それって、私のことですか?」
「俺は“どっかのお姫様”としか言っていない」
ふん、と長尾家分家千坂家嫡男・隆房は鼻を鳴らした。
「ったく、何で俺がこんな奴のお守りをやってなきゃいけないんだ」
廊下の柱に背を預けて、隆房はぶつくさと愚痴を零す。
「良いじゃないですか、どうせ暇なんですし」
部屋の中で花を生けている多喜子が、にこやかに告げる。
「ああ、お前も暇だから何をしでかすか判らん。少なくとも、巻き込まれることが確定しているなら、近くにいてお前の手綱を少しでも握る努力をした方が、お前から逃げ回るよりもまだ建設的だ」
「どうせ屋敷の中にいるんじゃ、逃げ切れませんものね」
嫌味をまったく悪意のない口調で多喜子は言う。それにまた、隆房は舌打ちを漏らす。
「まったく、早くこいつどっかに嫁に行かないかな」
「ふふっ、良いですねぇ、その減らず口。阿諛追従しかしない人間や、私の血筋しか見ていない愚鈍な殿方よりもずっと良いです」
だが、分家の青年の悪態を多喜子は楽しげに受入れる。そして、剣山に花を刺しながら続けた。
「まあ、正直なところ、今は男避けが欲しい時期ですからね。衆民院の総選挙で、六家との繋がりを得たいと思っている人間は多いでしょうから」
すでに衆民院は解散され、吏党や民党、そしてそれを支援する諸侯や民権活動家はすでに十一月一日に行われる総選挙への準備を開始している。
確かに、六家などの諸侯が後援する吏党代議士の中には、華族や士族の娘を娶った者もいる。しかし、多喜子は衆民院議員の妻になることは絶対にご免であった。最長でも四年で選挙となる衆民院議員、それも政治的には限定的な力しか持たない人間たちである。
やはり今の皇国の政を動かしているのは、民権派の人間たちが何と言おうが、六家であることに違いはないのだ。その六家の立場を存分に振るえる今の立場を捨てることなど、多喜子には到底、受入れ難いことであった。
そして、長尾家としても、女児に恵まれているのならばそうした代議士との婚姻政策も可能だが、現状で当主・憲隆の娘は多喜子一人だけである。
多喜子自身の意向もあるのだが、長尾家として彼女の婚姻に慎重になるのも当然のことであった。
「憲実兄上も、それが判っているからあなたを私のお守りに付けたんでしょう。あわよくば、私とあなたがくっついて欲しいと思っているはずですよ」
それによって、分家に対する宗家の影響力を強化することが出来る。
少なくとも、多喜子や隆房自身の意向はともかく、長尾家としてこの二人の婚姻は選択肢の一つではあった。多喜子の幼少期に構想されていた結城景紀との婚姻が、他の六家の反対によって実現しなかったとなれば、なおさらであった。
だが、それを聞かされた隆房は心底、嫌そうに顔を歪めた。
「そんなことをしたら、逆に千坂家が長尾家から独立しかねないだろうに」
この女の野心を、宗家の次期当主はどこまで判っているのだろうか。隆房には疑問であった。もしかしたら憲隆公も次期当主たる憲実従五位も、多喜子が単に男の選別基準が厳しいだけの娘と思っているのではないのか。
それは宗家にとって不幸なことだろうな、と思いつつも、隆房はあえて憲実に忠告しようとは思わなかった。
隆房は、幼少期に多喜子がしたことを許していない。自分にかけてくれた優しい言葉はすべて嘘で、ただ自分に都合のいい人間を作りたかっただけだと気付いたときには、裏切られたという思いを抱きもした。
今でも、宗家の兄弟やその取り巻きの家臣団の子弟たちに虐められていたのは、裏で多喜子が糸を引いていたのではないかと疑っている。
だからこそ、隆房は多喜子を嫌悪し、警戒するのだ。
だが、不思議と彼の心にはこの長尾家の姫君に対する憎しみはなかった。あるのは、嫌悪感や警戒心と同居するにはまるで方向性の違う、憐憫の情であった。
きっとこいつは寂しいのだろうな、と思ってしまったのだ。
多喜子の血筋や性格も原因なのだろうが、彼女には対等な友人がいないのだ。だというのに、結城景紀には葛葉冬花という友人がいた。きっと多喜子はそれを羨ましく思っただろうし、その輪の中に自分も入りたいと思ったはずだ。
だが、彼女は失敗した。
「冬花のことで景紀を怒らせると怖い」という趣旨のことを多喜子が言っていたのを聞いたことがあるが、つまりはそういうことをしてしまったのだろう。
負けることが何よりも嫌いな少女である。今よりも分別が付いていなかった幼い多喜子が、自分の方が景紀に相応しいと思って、その冬花という少女を排斥しようとしたのかもしれない。景紀との婚姻が考えられていたことも考えれば、幼い多喜子がそうした行動を取っても不思議ではない。
女子学士院でも、こういう性格では対等な友人など作れなかっただろう。
この女の野心を理解して付いていこうとする少女がどれだけいるというのか。
だから、隆房は多喜子に対して嫌悪感や警戒心を抱くと共に、哀れだとも思うのだ。
だったらどうせやることもない今くらい、こいつに付き合ってやるのも暇つぶしくらいにはなるだろうと思っている。
それに、多喜子が相手にしようとしているのは、あの結城景紀だ。
自分の兵学寮一期後輩で、入学から卒業まで常に首席であり続けた存在。自分たち上級生たちですら、あの後輩と、もう一人の穂積貴通という次席には敵わないと思う者が多かった。
そんな男に、こいつは女の身で挑もうとしているのだ。
もちろん、それが政敵として相手を失脚させるというような意味での挑戦でないことも隆房には判っている。
要するに、こいつは結城景紀に構ってもらいたい子供のままなのだ。
それが少し歪んだ形に成長してしまった。だから将棋の駒や囲碁の石の代わりに、人間を使おうとしている。
その駒の一つとして目を付けられたのが、自分というわけだ。
まったく、この俺もあの兵学寮後輩も、厄介な女に目を付けられたものだと隆房は思う。
ただまあ、向こうに穂積貴通という優秀な軍師が付いているのに、こちらは多喜子一人だけというのはいささか可哀想ではある。一人くらい、こいつの側に付く人間がいても構わないだろう。
お互いに性悪女だの、駒だのと思っているろくでもない関係ではあるが。
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皇暦八三五年十月十八日。
この日、赤レンガ造りの皇都中央駅に異国の者たちが汽車から降り立った。
「ここが、秋津の都か……」
一等客車から停車場に降り立った一人の少女が、圧倒されたように壮麗な駅舎を見上げている。
「……しかし、いささか汽車とやらに揺られ過ぎて気分が悪いのじゃ」
だが、その少女の足取りはどこかふらついていた。
「何だかまだ視界が揺れておるような気がするのぅ……」
「私も始めてこの汽車に乗ったときは、慣れぬ乗り物に難儀したものです」
汽車から降り立ったその少女は、陽鮮公主・貞英であった。傍らには、金光護を始めとする使節団や貞英付きの女官たちがいる。
使節団の者たちも、汽車という乗り物に初めて乗った者たちを中心に顔色を悪くしていた。
「しかし以前、通信使の一員として訪れた際には響関から一昼夜で皇都に着いたのですが、今回は四日もかかってしまいました。戦時輸送が優先されていたために鉄道の運行状況が乱れたためと思われますが、それは同時にこの国の者たちが我ら使節団のことを戦時輸送よりも優先度の低いものと見なしている証左であるとも言えましょう」
「食糧供給の交渉は、難しいものとなりそうじゃの」
未だぐるぐると揺れる視界を足を踏ん張って堪えながら、貞英は険しい口調で言った。
「じゃが、これは陽鮮の民のために必要なことじゃ。そなたらの手腕にも期待しておるぞ」
「御意、臣として微力を尽くしましょう」
事実上の使節団代表である金光護は、貞英に恭しく一礼した。
「では、行くとしよう」
貞英は一度、使節団の者たちを見回してから、停車場から皇都への一歩を踏み出したのだった。




