133 後退援護
皇暦八三五年十二月十八日、この日は朝から風雪がちらついており、寒さは一段と厳しくなっていた。
昨日、海城に来襲した斉兵の死体はそのままとなっており、そこに雪が積もって雪原に凄惨な陰影を浮かべていた。
海城前衛・主両陣地の待機所では、兵士たちが焚き火を熾して暖を取っている。
「連中、昨日で血を流しすぎたらしいな」
隻龍山頂上で双眼鏡を構えていた景紀は、北方を観察しながらそう呟いた。
旅団は朝から二度にわたって五道河を渡河してきた斉軍の強襲を受けていたが、どちらも撃退している。昼前には、戦闘は完全に小康状態に陥っていた。
「はい。それに加えて、この天候です。斉兵も活発には動けないでしょう」
貴通も、景紀と同意見であった。
二人は一旦、隻龍山南斜面の司令部天幕に戻る。暖炉の効いている天幕内部は、少なくとも外よりは暖かい。
外套の被り布を外し、手袋を取る。火鉢に鉄瓶を掛けていた冬花が、すぐに二人分の茶を淹れてきてくれた。
「通信、他の地区の戦況はどうか?」
司令部天幕に詰める通信用呪術兵に、景紀は問うた。
「第十四師団の担当地区も、現状では小競り合いじみた戦闘が続いている模様です。ただ、遼河には無数の小舟が行き交い、東岸に兵員や物資が続々と到着しているとの情報が入っています」
「河岸を奪還されたことが響き始めているな」
景紀たちは、この反攻作戦に投入されている斉軍の正確な戦力を把握出来ていない。それでも、十万を越える兵士たちが遼河平原に集結しているだろうという推測は出来た。
とはいえ、遼河という大河が存在する以上、西岸にいる十数万の兵士を一挙に東岸に渡らせることは出来ない。実際、ホロンブセンゲ軍は二十五万という兵力を擁していながら、攻勢初日である十六日時点では、その兵力の半数以上が遊兵化していたのである。
皇国陸軍第十四師団の将兵が瘴気に冒された影響で本来の力を発揮出来ず、また長く薄い遼河防衛線を突破されながら、戦線が完全に崩壊しなかった原因の一端はここにあった。
景紀も遼河のお陰で斉軍をある程度遊兵化出来ていると考えていたが、遼河東岸地域を奪還されて橋頭堡を築かれてしまった以上、今後は続々と西岸側の兵力が東岸側に渡ってくるだろう。これからは、斉軍の遊兵化は期待出来ない。
そして、戦闘を小康状態としている天候の悪化も、皇国軍にとっては善し悪しであった。
悪天候のお陰で斉軍の動きは鈍っているが(他にも、ここまでに損害が嵩みすぎて戦力を再編しているという事情もあるのだろうが)、それは皇国軍にとっても同じことであった。
少なくとも、河岸への逆襲の敢行は難しくなっている。野砲による擾乱射撃程度は行っているだろうが、続々と東岸に到着する斉軍の兵員や物資を完全に阻止するには至っていないはずだ。
そして、積雪は部隊の後退にも悪影響を及ぼす。
戦闘が小康状態に陥っているとはいえ、現状では斉軍にとってより有利に働いているはずだ。
「加東少佐、ただ今戻りました」
景紀と貴通が通信を元にして戦況を地図に反映させていると、龍兵隊長の加東正虎少佐が司令部天幕に現れた。
彼の全身は、昨夜の景紀並みに酷い有り様であった。眉毛に氷が付いて白くなり、唇も青かった。
この日、加東少佐ら悪天候でも翼龍を飛ばせる熟練龍兵には、北方の敵軍の態勢について偵察するよう、命じていたのである。
「冬花」
「はっ!」
景紀の言葉に冬花が即座に応じて、熱い茶を加東に差し出す。上官やその補佐官への礼もそこそこに、龍兵隊長を務める少佐は暖炉の前に陣取った。
舌を火傷するほどに熱い茶を、加東少佐は実に美味そうに飲み干した。
それを待ってから、景紀は問う。
「どうだった?」
「海城北方に、いくつかの敵集団が確認出来ました。遼陽へ続く街道上ですと、西側から順に古城子、耿家庄子、福来屯、蛇龍塞、小王屯、沙河沿、甘泉堡、頭河堡あたりです」
加東少佐の言葉に従って、貴通が地図上に敵軍を意味する駒を置いていく。
歓喜山・隻龍山両陣地から目視で確認出来る敵集団と重なる部分もあれば、それよりも北側に存在する敵集団の位置も判明する。
概ね、海城から六キロから十キロ圏内、五道河以北に敵集団が存在することになる。
流石にこちらの野砲の有効射程範囲内に敵集団は存在しない。
「連中、営ごとにたむろしているという感じですな」
斉軍の部隊単位である営は、一営につき定数は五〇〇名(実際には定数を満たせていない部隊も多い)。つまり、一集団あたり五〇〇名前後ということである。
「了解した。報告ご苦労。すぐに衛生兵のところに行って治療してもらえ。お前みたいな優秀な龍兵を、凍傷で失うのは惜しい」
「ははっ、俺の教え子も、随分と言うようになったもんですな」
寒さで体がかじかんでいるだろうに、加東少佐はそんな冗談じみた言葉を口にした。
この龍兵隊長が司令部天幕を出ていくと、景紀は改めて卓上の地図に向き直った。
「狙うべきは、古城子、耿家庄子、福来屯、蛇龍塞のどこかだな。俺は、位置的に見て蛇龍塞を狙うべきだと思う。穂積大佐、意見は?」
「僕も同意見です。古城子、耿家庄子は牛荘に近く、牛荘援護には向いているでしょうが、海城から距離があり過ぎます。福来屯はそもそも耿家庄子や蛇龍塞、あるいは遼陽街道上の敵兵を迂回しないと辿り着けないので論外です」
二人は顔を見合わせた。
「決まりだな」
「ええ」
そして、にやりと笑う。
「おい、伝令! 細見大佐を至急、呼んでこい!」
独混第一旅団の騎兵部隊長が景紀たちの詰める司令部天幕に現れたのは、その約十分後のことであった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夜の訪れを待って、独混第一旅団は、牛荘の混成第二十八旅団の後退援護のための行動を本格的に開始した。
すでに陽のある内に輜重段列の馬車を牛荘に回して負傷者の後送を援護していたが、ここからは旅団本隊を夜間、十五キロの距離を後退させなければならないのである。戦力を消耗しているとはいえ、未だ第二十八旅団は、戦傷病者を除いて四〇〇〇名以上の兵力を保持していた。野砲などの重装備も後退させなければならない。
もちろん、後退に気付いた斉軍が追撃を仕掛けてくる可能性もある。さらには、夕刻までに雪は止んだとはいえ空には未だ低く雲が垂れ込めており、遼河平原は雲間から時折差し込む月明かりとそれを反射する雪原という、頼りない光源しか持たない暗闇に包まれた世界となっていた。
夜間の軍事行動において問題となるのは、暗闇に起因する部隊の混乱、特に移動の際の混乱であった。
皇国では、その歴史に武士が登場した当初から夜襲が頻繁に行われており、夜戦は陸海軍共に十八番ともいえる伝統を持っていたが、それでもこうした問題は常に付いて回っている。
南の第十四師団は、とにかく蓋平―海城間の街道上に出てしまえば、あとは野戦軽便鉄道が使える。貨車に乗り切れない兵士も、線路沿いに南下すれば自らの位置を見失う危険性は少ない。
しかし北側の第二十八旅団は、そのような文明の利器はない。徒歩で十五キロの道のりを後退しなければならないのだ。
沙河沿いに進めば迷う危険性は少ないが、明かりが少なく極寒の夜に誤って川に転落でもしようものならば命に関わる。やはり、牛荘から海城への後退は困難が付きまとっていた。
「では、諸君らの健闘を祈る」
海城主陣地の内側、松明の灯された場所には、一個大隊規模の騎兵が集結していた。
その前に景紀が立ち、簡潔な訓示を下したところだった。
「繰り返しになるが、決して無理はするな。この夜、斉軍に皇国軍による夜襲があるかもしれないと、一晩中警戒させることがこの作戦の目的だ」
少しだけ奇異なのは、景紀の背後に翼龍の轡を取った冬花が控えていることだった。翼龍の首の付け根には、復座の鞍が取り付けられている。
この若き六家次期当主の前に並ぶ騎兵たちは、自分たちの上官が今夜もまた寒空の下を飛び回るのだということを悟らざるを得なかった。
「では、行動開始だ」
松明の明かりの中に不敵な笑みの陰影を浮かべて、景紀は告げた。
◇◇◇
混成第二十八旅団の指揮を継承した嶺州歩兵第五十七連隊の柴田平九郎大佐は、夜間の後退という作戦行動に頭を痛めていた。
理論上では、確かに斉軍の追撃の危険性の少ない夜間に後退するというのは理に適っている。しかし、第二十八旅団の兵士たちは、連日の戦闘で疲弊している者たちも多い。こちらは南の第十四師団と違い、野戦軽便鉄道すら使えないのだ。
さらに自分は、旅団の指揮を継承して日が浅い。旅団全体を円滑に統制出来る自信は、あまりなかった。
それ故、計画通りに後退行動が出来るとは、とても思えなかった。後退の中で、道を失って行方不明になる者が必ず出てくるはずである。いや、小隊や中隊といった部隊単位でそうした事態が発生するかもしれない。
岫厳の第三軍司令部はその辺りの難しさを判っているのだろうかと、苛立ちに似た気分を抱く。
柴田は、あの六家の若い将官のことも大して期待していなかった。昼間、負傷者の後送などのために輜重段列を回してくれたことには感謝するにやぶさかではないが、そこまでだ。所詮は六家の政治的事情で将官になった、十八の少年でしかない。
今夜、またこちらに来ると言っていたが、正直に言ってしまえば迷惑極まりなかった。
ただでさえ神経を使う夜間の後退行動について、六家のガキに余計な茶々を入れて欲しくないのだ。
「後退準備は完了しておりますが、やはり連日の戦闘で兵どもに疲労が溜まっております」
連隊長時代から柴田の幕僚を務めてくれている部下が、そう報告する。
「積雪も考えますと、一時間に二キロも進めれば良い方でしょう。奉天・遼陽に向かった部隊の中には、十キロの道のりに半日も取られたところもあるといいますから、こちらは兵の疲労も考えるとそれ以下になる可能性も」
「どう楽観的に見積もっても、海城まで八時間か……」
そしてそれは、斉軍の追撃をまったく考えない場合の計算である。また、進むごとに兵の疲労が溜まっていくことも考慮していない。必然的に、途中で休止を挟む必要がある。柴田自身が口にした通り、まったくの楽観的な数字であった。
実際のところは、海城までの後退は十時間を超える道のりになるだろう。確実に、夜が明けてしまう。
「大佐殿、呪術班が騎兵第十八連隊の発した独混第一旅団司令部宛の通信を傍受しました」
「見せろ」
幕僚が持ってきた紙片を、柴田は少し乱暴な手付きで受け取った。そこに書かれている文を見る。
「我、蛇龍塞ニテ敵先鋒集団ヲ捕捉。之ヨリ突撃セントス。皇主陛下万歳」。通信文は、それだけであった。
「誰かがあのガキに入れ知恵したらしいな」鼻で嗤うように、柴田は通信文を幕僚に突き返した。「独混第一旅団は今夜、斉軍に夜襲を掛けて牽制してくれるらしい」
「これで、後退の際に斉軍に追撃される危険性は減少しましたな」
幕僚は、ほっとした様子だった。確かに、朗報ではある。
少なくとも今夜、斉軍は皇国軍からの夜襲を警戒して防御に徹しようとする可能性が高くなる。河岸に対岸から運んできた物資を集積しているとなれば、なおさらだ。ここに皇国軍に突入されては堪らない。
そうなれば、連中はこちらを追撃するだけの余裕はなくなる。
「あのガキはともかく、この寒空の下を駆け回らせられる結城家の兵には感謝せねばならんな」
◇◇◇
上空の凍てつくような寒さは、昨夜以上だった。
ただ、月明かりすら微かな夜空を飛ぶ景紀の翼龍には、昨夜にはなかった温もりがあった。
「まったく、私の尻尾は温石じゃないのよ」
復座式鞍の後部に乗る冬花はそう文句を言いつつも、どこか嬉しげだった。
二人は密着するような姿勢で鞍に乗り、前部で景紀が手綱を取り、後部で冬花が弓を持っていた。冬花は狐耳と尻尾の封印を解き、前に回した尻尾を景紀の外套の中に入れている。
「後で毛繕いしてやるから、それで帳消しにしてくれ」
「もう……」
むくれたように言いつつ、冬花は主君の外套の中に入れた尻尾が振れてしまわないよう、さらに体を密着させた。また尻尾が自分の感情に合わせて振られてしまったら、冬花はすぐにでも翼龍から飛び降りる自信があった。流石にそれは恥ずかしい。
二人の主従を乗せて海城を飛び立った翼龍は、北方に向けて飛んでいた。
「すぐに蛇龍塞上空に辿り着く。準備はいいか?」
「ええ、もちろんよ」
景紀が真剣な口調で訊いてきて、冬花も表情を引き締める。
海城から蛇龍塞までは、約十キロ。翼龍ならば目と鼻の先ともいえる距離である。景紀の翼龍は、蛍光塗料の塗られたコンパスに従って飛行を続ける。
「用意―――」
景紀の声に従って、冬花は右手を火鼠の衣の袖に手を入れる。
「てっ!」
その瞬間、冬花は袖に仕込んでいた呪符を一気にばら撒いた。雪のように夜空を舞っていく呪符は、やがて発火して眩い光で周囲を照らし出す。
昼間の太陽には及ばないものの、それでも夜間には十分な光源であった。
そして、その光に照らし出されたのは蛇龍塞に野営する斉軍であった。
「照明弾よりも明るいな、あれ」
いささか呆れた表情を浮かべながら、馬上の細見忠雄大佐は呟いた。
上空から投下された何枚もの呪符が、青白い狐火を発しながら地上へとはらはらと舞い落ちていく。地上に落ちてからも、呪符に込められた霊力が尽きるまで燃え続けるらしい。
「これで、海城攻略戦以来、二度目の夜襲だな」
今、細見大佐が率いているのは、騎兵第十八連隊から選抜した一個大隊規模の騎兵部隊であった。
それが、蹄を雪に埋もれさせつつ遼河平原を進んでいた。
光源の少ない夜の行軍ということで、景紀の翼龍による誘導の他に、呪術兵を用いた霊力波索敵も行いつつ、襲撃地点たる蛇龍塞を目指している。
霊力波索敵は、後世の電探のように霊力を飛ばして周囲の地形や敵の存在を探る方法だが、積極的に使う指揮官は少ない。
それは、通信のために霊力を消耗する呪術兵に過度な負担を強いればいざというときに通信が不可能になるという問題の他に、闇夜で霊力を発することで逆に敵に発見されやすくなるという主張が一定程度の説得力を持っていることが原因であった。
この「闇夜に提灯」論もあって、夜襲敢行時の霊力使用は指揮官によって大きく判断が分かれているのが現状であった。
独混第一旅団を統べる景紀は夜襲敢行時の霊力使用について、むしろ使用することによる利益の方が大きいと考える指揮官の一人であった。夜襲実施時に必然的に生じる部隊の混乱の極限化や、敵の存在を早期に察知することなどによる利益は、敵に発見される不利益よりも大きいと考えていたのである。
「接敵前進用意! 小隊縦列!」
細見の命令に従って、結城家領出身者で占められた騎兵部隊が小隊ごとに縦列を形成する。夜間であるにも関わらず、その動きには一糸の乱れもなかった。そのことに、細見は騎兵科の人間としていささかの満足と誇りを覚える。
今日までの戦闘で、火力の前に大勢の兵士が薙ぎ倒されていく様を見ていれば、その感慨はなおさらであった。
まだ、騎兵には活躍の余地が残っている。そう思わせるだけのものを、部下たちは見せてくえれたのだ。
下士官以下の騎兵たちは、長槍を得物としていた。騎銃は装備しているものの、背中に掛けたままとなっている。
「抜刀!」
そして、細見たち将校も、銃を使うつもりはなかった。騎兵らしく、突撃の勢いですべての決着を付けるつもりであった。
闇夜に照らし出された蛇龍塞の村落は、海城ほどの防御陣地は確認出来ない。そして、突然の光に慌てふためく斉兵の小さな影も見えた。向こうは、こちらほど夜戦に慣れていないらしい。
「おい、通信。『我、蛇龍塞ニテ敵先鋒集団ヲ捕捉。之ヨリ突撃セントス。皇主陛下万歳』だ。旅団司令部と、あと牛荘にも伝わるように発信しろ。復唱はいい」
側に控える馬に乗った呪術兵にそう伝えると、細見は刀を高く掲げた。
「騎兵第十八連隊前へ! 目標、前方の斉軍! 速歩前進!」
馬の速度を速め、大隊規模の騎兵部隊が雪原を駆ける。馬が通った後に、雪煙が舞った。
そしてついに、細見はその命令を下した。
「総員、突撃! 皇主陛下万歳!」
指揮官の声に応ずるかのように、万歳の叫びは連鎖した。
蹄の音が大きくなり、雪煙が濛々と立ち上る。
村落への突入は、一瞬のことだった。
槍に突かれ、刀で斬られ、馬の蹄に蹴り飛ばされた斉兵の悲鳴が上がる。雪に生暖かい液体が飛び散り、湯気を立てる。皇国軍の喊声と、斉軍の悲鳴とが交錯する。
皇国武士団の末裔ともいえる皇国陸軍騎兵部隊は、無数の蹄の音と共に斉軍の野営地を蹂躙していった。




