268:望郷の葛藤
故郷を模したその街並みの中心で究極の選択迫られる。
一つは平和で生きやすい代わりに、二百年後には滅亡することが予言されている、そんな破滅の未来が待ち受ける天国。
そしてもう一つは存続こそ問題なく可能なものの、戦乱の要因が満ち満ちた、恐らくはもう一方の世界とは比べ物にならないくらい生きにくい地獄。
存続できるのはどちらか一つ。
片方を選べばもう片方は必然的に失われるというそんな前提の中で、故郷ともいえる前者を守るために参戦することを求められているそんな状況。
「――つくづく、お前は酷い奴だな……。こんな光景を見せつけて、郷愁の念に訴えて俺にお前らの味方をさせようって言うんだから……」
「そう取られてしまったのなら申し訳ありません……。ですが、仮にこの世界を捨てる決断をする場合でも、故郷に別れを告げる時間くらいは必要でしょう。
もしあなたがこの世界に敵対する道を選んだ場合、貴方が再びこの景色を目にすることはもうないかもしれないのですから」
さらりと、脅しとも取れる言葉をそんなつもりなどなさそうな邪気のない表情で言い放ち、そうしてサリアンは促すように街中へと向けてその手を差し出す。
「どうぞ、歩いてみていただいても大丈夫ですよ。
流石に暮らしている人間までは作っていませんが、貴方の生まれ故郷の歩いて行ける範囲くらいは十分に再現できているはずですから」
「……、……」
促すサリアンとその街並みを見比べて、ほどなくして竜昇は言われた通りに、杖で体を支えながら見覚えのある街中を歩き始める。
周囲に人間は誰もいない、車も何台か止まってはいるが走ってはいない。
無人で、無音で、けれどそれでも懐かしい光景だけは再現したその街並みの中を数分歩いて、やがて竜昇は自分が小学校の頃に利用していた通学路の途中にたどり着く。
(この道を通る途中の外れた道に公園があって、途中でわざわざそっちの道に遠回りすることもあったっけ)
道と共に、何となしに竜昇は自身の思い出をたどり始める。
負傷し、遅くなってしまった竜昇の歩みを置き去りにするように、追憶の思考が自分の生きる町の、その街並みを立て続けに思い出していく。
(あそこのコンビニは、今のコンビニになる前は確かパン屋だったんだよな……。逆にあっちの学習塾の場所は、確か今の建物になる前は本屋かなんかが立ってたんだっけ)
過去に利用したことのある店舗、関わることのなかった、ただ景色としては見慣れた商店。
そんなものを次々と思い出し、時に移り替わって姿を変えたその街並みの古い姿まで思い出して、竜昇はいつの間にか変わってしまっていた懐かしい光景にそこはかとない寂しさを覚える。
今の街並みだって見慣れない訳じゃない。けれどその前の街並みとて確かに記憶に残っているが故の、あとになった今だから覚える些細な寂寥感。
けれど、もしも【新世界】を解体してしまえば、恐らく後になって覚える感情はそんなものではないのだ。
故郷だったこの町が丸ごと失われてしまったことで覚えるだろう比較にならない郷愁、同じようにこの町に愛着のあった者達からそれを奪ってしまったという絶大な罪悪感。
そして恐らくは、この平和な街とは似ても似つかないだろう【真世界】の環境と比較しての必然的な悔恨。
少なくともそれら三つは、この街並みを壊す選択をしたならば絶対的について回ることになるだろう。
(大通りを進んで、あの十字路で右に曲がるか左に行くかでどっちの駅に着くかが変わるんだよな……。今でこそ歩いてでも行けるようになったけど、昔はバスとか使わなきゃいけない距離だったからどっちの駅も特別感があったっけ)
幼少期に抱いた感情、その断片が不意に胸の内に蘇る。
普段なら思い出すこともなかった、この町に生まれてこれまで生きてきた中での思い出。
今にして思えば、これまで自覚する機会こそなかったが、それでも竜昇はこの故郷に育てられていたのだろう。
【真世界の申し子】などと言う大それた名前は脇に置くとしても、少なくとも今ここにいる竜昇は、この世界で生まれ育ったからこそ今のこの形に行き着いた。
そのことは、それこそ今の自分を構成する要素として、竜昇の中で決して忘れ去られていいものではない。
(――ああ、くそ……。正直俺は、そこまでじゃないと思ってたんだけどなぁ……)
そうして、たどり着いたその場所で、厳密にはその再現である自宅の前で、竜昇はこみ上げる感情にとっさに目元を押さえて立ち尽くす。
この場に帰ることを目的としていながらも、今までここまでの情動に襲われることが無かったため、自身の感情はその程度なのだろうとなんとなく思ってしまっていた。
自分はホームシックとは無縁の人間なのだろうと、実のところ竜昇は内心でそうタカを括っていたのだ。
けれど今、再現された偽物とは言え懐かしの自宅を前にして、否応なく竜昇は自覚させられる。
自分と言う人間がこの場所に、この日常に、これまで歩んできた人生に、どれだけ戻りたいと願っていたのかを。
結局のところ、今まではただ余裕が無く考えないようにしていたというだけで、心の底ではどれだけ自分がこの場所への期間を望んでいたのかと言うその本音を。
(ああ……、ああ……、畜生……!!)
目の前にある家の扉に手をかけて、直後に扉を開けるのではなく、その扉に頭を押し付け、思わず目を閉じ、考える。
大きすぎた事実を受け止めきれず、麻痺していた心にようやく実感が追いついてくる。
【新世界】を解体するということは、つまり懐かしきこの生まれ故郷を破壊するということなのだ。
否、それだけではない。
もしも【新世界】が解体されて元の世界に戻されてしまったならば、あの世界に存在するすべての人々はほとんど地獄のような戦乱の世界に再び放り出されることになる。
そしてそうなってしまえば、いったいどれだけの人間が【新世界】の解体をきっかけに命を落とすかわかったものではない。
仮に命まで落とさなかったとしても。
あの世界に生きるほぼすべての人間が、その人生を大きく狂わされることになる。
将来の展望も、重ねてきた努力も、あの世界だからこそ成立していたそれらすべてが、世界の解体と共に諸共水の泡と消えてなくなる。
(あいつとか、せっかく予選突破して大会出場が決まってたのにな……)
通っていた学校の学友、その中の弱小の陸上部の部員でありながら、竜昇のしていなかった本気の努力で校内初の快挙を成し遂げた友人のことが何となしに頭をよぎる。
彼が打ち立てた努力の成果も、その果てに目指していた未来も、もしも【新世界】が解体されてしまえばすべて無意味となってしまうのだろう。
【決戦二十七士】や静が目指す【真世界】への回帰とは、【新世界】の解体のために動くとは、つまるところそう言うことなのだ。
(――そんなことをするくらいなら、いっそ古い世界なんか滅びるに任せてこの世界で生きていくのもいいんじゃないか……?
どのみち世界が滅びるとしても百八十年後……。そのころにはどう考えても今いる人間たちは生きていない……)
自身の中をよぎる思考に、竜昇は何となしに環境問題の話を思い出す。
今となってはどこまで真実だったのかもわからない。恐らくは模倣元の世界の問題だったのだろう、今の生活と未来を天秤にかけた結果、解決できずにいた重大な葛藤。
違いがあるとすれば、竜昇が今直面している問題は滅亡の時期も確実性も半ば決まっているという点か。
--否、それだってサリアンの言葉を信じるならば、彼らが何とかする手段を見つけてくれるかもしれないのだ。
それを考えれば、【新世界】を残すことがそのまま世界の滅亡に通じるとは一概には言い切れない。
こんな思考、ある種の逃げであることなど竜昇自身自覚はしているが。
(――いや、そもそも逃げと言うのなら……。いっそ最初に言われてたように、戦いそのものから逃げて、あの前線基地で結果が出るのを待っているというのも一つの手か……)
無論その場合結末にはかかわれなくなってしまうが、そもそも最初から竜昇一人にできることなどたかが知れているし、単純に己の命を優先するのであれば、むしろ参戦などせずあの階層でおとなしく結末を待っているのが一番だ。
サリアン自身、別に竜昇に戦力としての活躍など期待しているわけではないようだし、どのみち結末を左右するわけではないのなら、ムリに状況に関わってやる理由などどこにもない。
(俺を参戦させようとしている、あのサリアンの真意がわかってしまった今となってはなおさら、か)
話していてなんとなくわかった。
要するにサリアンは、竜昇にあの世界を肯定して欲しいのだ。
自身が【新世界の申し子】と呼ぶ、本来の世界ではそうそう生まれることはなかっただろう価値観と思考回路の持ち主に、自分が作った世界を肯定してもらいたい。
そんな意識があったからこそ、今この時、このサリアンと言う【新世界】の創造主はわざわざ竜昇に対して自陣側でこの戦いに参戦することを求めて来た。
もしも竜昇が【新世界】のために命を懸けて戦ってくれるなら、その行いは何よりも自分の世界を肯定してくれた、そんな証になるから。
だからサリアンは既に戦力としては心もとないと言ってもいい竜昇に対して、わざわざ負傷した足の代替手段まで用意すると言って、その参戦をこうして求めて来た。
(本当に酷い話だ……。自分本位で、身勝手で……、こっちへの配慮なんて無いかズレてるかだって言うんだから質が悪い……)
恐らくはこれまで、人間との接点がほとんどないまま生きてきたのがその原因なのだろう。
否、ほとんどどころか、十八年前にルーシェウス達が来て初めて他者と接触したという経緯から考えれば、これまで接してきた相手は【神問官】ばかりで、まともに人間と接したのは竜昇とのこの会合が初めてと言う可能性すらありうる。
加えて言えば、サリアンはそもそも人間とは違い、命に対する本能的な執着を持たない【神問官】だ。
先ほどからの会話の中で竜昇が感じていたどこかズレた感覚も、サリアンの中のそうしたもろもろの要素が合わさった結果と見るのが正しいのかもしれない。
(だとすれば……)
今この時、この悪意なく、無慈悲でもないのにどこか残酷な【神造人】に対して、果たして竜昇はいったいどんな答えを返すべきなのか。
否、あるいは。
明らかになったこの【神造人】の望みに対して、では他ならぬ竜昇自身の望みはなんなのか。
考える。
考えて、迷って、葛藤して。
そうして再現された自宅の扉の前で、ドアノブを握ったまま延々と頭を悩ませ続けた、その果てに--。
「――ご自宅には、入らないのですか?」
いつの間にか、竜昇の背後に現れていたサリアンに、そんな言葉をかけられていた。
振り返れば、そこには先ほどと同様のテーブルと椅子を家の前の道路上に並べたサリアンが、その椅子に腰を下ろす形でこちらの様子を眺めている。
「--いや、いい」
そんな相手の出現に、竜昇は手の中のドアノブの感触にわずかに名残惜しい気分を感じながら、それでも意を決してその感触から手を離す。
向かう先は道路上のテーブル、腰かけるサリアンの、そのテーブルを挟んだ対面の席。
「……腹は決まったよ。だからもう、ここから先まではいかなくていい」
「聞きましょう」
そうサリアンが応じて、いよいよもって二人の対談が、その問答が最後の局面を迎えることとなる。
そして、もう一つ。
静とセリザ、二人の間での問答もまた――。
「最後に、もう一つ聞いておきたいことがあります」
それは半ば返ってくる答えを予感しながらの、その瞬間の前の最終確認のような問いかけ。
「あなたにとっての本命が、誰なのかについて」




