217:恐れ知らぬ獲物
「素晴らしいな……。ここまでの獲物には、本当に久しく出会っていなかった。
重力に引かれて自身のいる場所へと商品の雪崩が迫ってくる音を聞きながら、しかしヘンドルは自身の中の興奮を抑えきれずにいた。
己の中に、久しく忘れていた狩りの感覚が蘇る。
この塔の中で何度も【試練獣】モドキを相手にしていた時とはまるで違う、本当に久しく味わえていなかったしぶとい獲物を前にした時の狩りの醍醐味。
「――ああ、本当に久しぶりだ。まったく、この階層でのめぐりあわせを神に感謝せねば……!!」
ここ最近、塔へと挑む前にも人を相手に狩りをしたことがなかったわけではない。
だが、そのときはどれも愚にもつかない野盗崩れが相手で、ヘンドルが持つ神の弓たる【天を狙う地弓】の生み出す過酷な狩場に耐えうるものはほとんどいなかった。
たとえいたとしても、続くヘンドルの矢によってあっけなくその命を散らす始末。
そんな手応えのない獲物ばかりという現状に、どうやらヘンドルは自分でも気づかぬうちにどうしようもない飢えや渇きに似た感覚を覚えていたらしい。
つくづく思う。
本来のヘンドルがなすべき、高貴なる者の狩りとはこうでなくてはと。
「さあ、小娘……。物量にのまれて、貴様と私の狩りはそれで終わりか……? それともまだまだしぶとさを見せて、私とのこの楽しい時間をもっと提供してくれるのか?」
距離が近づいてきたことで、もはやヘンドルは義体を使うことなく、視力を強化しながら明かりの消えた暗い大通りの先へと目を凝らす。
自身に向かって落下して来る物量の雪崩、その戦闘へと期待を込めて視線を巡らせて――。
「――ク、ハハハッ――!! いいぞぉ、楽しませてくれるじゃないか小娘ェッ――!!」
そこに認めた姿に歓喜して、ヘンドルは新たな矢を弓へと番えてそこにいる獲物へと狙いを定める。
押し寄せる雪崩に呑まれることなく、ほぼ垂直の壁となった大通りを、雪崩から逃れるように走り、駆け落ちてくる、そんな静の姿を目の当たりにして。
重力が逆転し、莫大な量の商品群が雪崩のごとく迫っているのを察知したその段階で、静はまず安全地帯への離脱を早々に諦めた。
この場合、安全地帯とはすなわち建物の両側に並ぶ各店舗や、先ほど静達が逃げ込んでいた通路のような場所のことだ。
ショッピングモールの建物を一直線に貫く中央通路、現在は巨大な縦穴となったその場所を落下して来る商品群から逃れるには、その中央通路から両サイドのそれら安全地帯へと飛び込む必要があったわけだが、静のいた場所はそうした安全地帯からは距離が離れすぎており、今から飛び込んだのでは間に合わないとそう判断したのだ。
それゆえに、もしも静に活路があるとするならば、それは横ではなく下方向。
より具体的に言うならば、現在押し寄せてきている商品群を回避するのではなく、それらと一緒になって、しかし巻き込まれないように落下するというそんな道だ。
「【空中跳躍】――!!」
先行して落ちてきて、周囲の柱や壁にぶつかって跳ねまわるいくつかの重量物の隙間を掻い潜り、静は空中で加速しながら建物二階の、本来ならば床であった場所へと飛び移る。
重力方向が変化して、床ではなく垂直な絶壁となったその場所に足を付け、そのまま【壁走り】を駆使して商品群が落下してくるその中を、その落下速度にも勝るとも劣らない勢いで加速しながら駆け落ちる。
もはや着地のことなど考えることもなく、静はただひたすらに両の足を動かし続ける。
少しでも速度を緩めれば背後から迫る商品群の雪崩に呑みこまれ、速度を緩めなければその果てに待つのは地面にたたきつけられての転落死と言うそんな状況の中で、しかし微塵も恐れることなく、普通に地面の上を駆けるような気やすさで奈落の底へと落ちていく。
(こうなればかえって好都合です。もとより垂直の壁を駆け上がるくらいなら、こうして駆け下りる方がよほど消耗も少ない……!!)
この相手の【神造物】の性能は凶悪だ。
これまで相手取ってきた敵達、その中でも【決戦二十七士】の操る神造物も相当に強力ではあったが、周囲一帯の重力方向を変化させて階層ひとつを丸ごとひっくり返すというのはこれまでの敵と比べても相当に大規模で危険な能力である。
もし仮に、空中移動や壁面走行と言った重力に逆らう何らかの手札が無かったら、その時点で反撃の手段もなく状況的に詰みかねない。
仮にあったとしても、重力の狂った空間と言うのはその時点で相手に対して圧倒的不利を強いる空間になりうるのだ。
おそらくこの敵は、自身にとって有利な環境を自ら作り出し、その中で相手を追い詰めることにとにかく長けている。
単純に強い戦士と言うよりも、どちらかと言えば狩人に近い一方通行の戦闘スタイル。
(――、――、――――――――ッ、来た――!!)
研ぎ澄ました感覚と半ば以上直感にものを言わせて、垂直の通路を駆け落ちる静が突如斜め前へと飛び退いて、そして直後に静がいたその場所を奈落の底から放たれた矢が通過する。
背後に迫る、莫大な量の商品群にミサイルのような勢いで一本の矢が着弾し、直後に強烈な爆発を起こして静の背後から追い風のような爆風と、そしてそれに吹き飛ばされた重量物が追い越すように降って来る。
(――やはり、迎撃してきましたか――!!)
一度は静の前へと投げ出され、しかしすぐに速度を失って前方から襲い掛かって来る棚板や家具、エレベーターの残骸のようなものの隙間を走り抜けながら、静は自身の推測の的中を半ば当然のこととして受け止める。
なにしろ押し寄せる商品群を背後に、静と言う敵が自身の元へと迫っているのだ。
この状況なら矢を的中させられなかったとしても、その足を止めることさえできれば仕留めるのはそう難しいことではないし、逆に何の迎撃もしなければ静が自身の元まで到達してしまう現状、敵の立場からしてみれば、今の静に対して迎撃しないという選択肢はありえない。
(――けど、裏を返せばこの状況はやはり悪くない――!!)
【壁走り】と【爆道】を駆使して狙いを付けられないよう動き回りながら、静はこの危機的状況でなおもそう判断する。
無論背後に迫る商品群の雪崩は脅威ではあるが、それは恐らくこの先にいるヘンドル自身にとっても同じことだ。
もしもこのまま静と商品群が落下し続けた場合、静だけならば一人で勝手に転落死してくれるだけの話で済むが、一緒に商品群までも押し寄せてくるとなれば、どこかのタイミングでヘンドル自身が自分を守るためにその雪崩を止める必要に迫られる。
(となれば、あとはどちらがギリギリまで耐えられるかのチキンレースです)
飛び退く動きで打ち込まれた矢を躱し、その矢の爆発によって飛び散る商品群の隙間に飛び込み交わしながら、しかし静は背後から迫る商品群との距離を一定に保ったまま奈落の底を目指し駆け続ける。
やがて落下するその先に、これまでの道のりの中ではすでに途絶えた電光の明かりが見えてくる。
それはこれまで比較的破壊に晒されずに済んでいたが故に、建物の中で唯一残っていた店舗入り口の照明。
(――素晴らしい。こ奴にしてみれば高所から真っ逆さまに落下するに等しい行為だろうに、それを走り落ちてくるなどとは大した度胸だ)
そうして、建物の中で唯一残った照明に照らされながら、弓を構えるヘンドルは心中でそう惜しみない賞賛を送る。
迫る商品群の雪崩が奏でる地響きは、それを引き起こしたヘンドルに対してももはや一刻の猶予も許さない。
この先、もしも静を転落死させることができたとしても、ほとんど同時にこの空間に飛び込んで来た商品群はその勢いでもってヘンドル自身の身を圧殺することだろう。
(――なにより、せっかくの生きの良い獲物にそんな死に方をされては興ざめであるしな……!!)
そんな想いと共に、いよいよヘンドルは天井目がけて飛び退いて、同時にその手の中に先ほどまで使っていたのとは違う一本の矢を呼び出して、即座に弓へと番えて引き絞る。
それこそが、狙い、撃ち込んだ箇所を天と定める【天決矢】。
ヘンドルの持つ【天を狙う地弓】に付属する、その機能を真に発揮するための、天の方位を決める神造の矢。
直後、ロビーにつながる巨大な縦穴(大通り)から商品群の雪崩が噴水のごとく吹き出して、しかし直前の重力の逆転によりすべての物量がなだれ込むことなく治まって、やがてロビー内になだれ込んだ物品諸共、落下してきたそれらが再び縦穴から新たに設定された奈落の底へと落ちていく。
(なるほど、あの特別な矢を撃ち込むことで、その方向を『天』に設定しているわけですか)
反転した重力の中、真上となったショッピングモールの入り口真上、その壁面の中央に突き立てられた、どこか星のような輝きを放つ矢をつぶさに観察して、静はそう分析しながら飛び散り、落下していく物品群の間を縫って、手近な壁面を目指して空中での跳躍を繰り返す。
そうして大量の商品群が再び奈落の底へと落下して、あとに残されるのは天井と床に分かれて互いに睨み合うただ二人。
『ようこそ、美しき獲物のお嬢さん。まずは歓迎と賞賛を。よくぞここまで、私の弓を掻い潜ってこの場所にまでたどり着いた……!!』
(――!! これは……)
感極まった様子で語り掛けられるヘンドルのその言葉に、静は表情に一切の変化を表さぬまま、しかし心中で密かに驚嘆する。
意味が解る。
すべてではない、ヘンドルの話す言葉のところどころが。
彼自身は今まで通り、これまでの【決戦二十七士】が当初そうだったように静達の知らない未知の言葉を話しているはずなのに。
(――これは、先の戦いでアーメリアさんの記憶を取り込んだ、その影響でしょうか……?)
だとすれば、同じようにすでにアパゴの記憶を取り込んでいる竜昇も、当初の予想通り彼らの言葉を理解できるようになっているのか。
そしてもし言葉がわかるというのなら、こちらから話しかけることで彼らと交渉し、情報を引き出し、和解に望むことも可能なのではないか。
そんないくつもの思考が脳裏を駆け巡り、しかし直後に静は壁面(床)へと石刃から変じた長剣を突き刺して、それによって体重を支えながら腰の十手を抜き放つ。
(――まあ、無理ですね。現状理解できる言葉は単語がいくつかわかる程度、こちらから話しかけられるほど熟達してはいませんし、なによりこの方をこれ以上野放しにしておくという、その選択がまずありえない……)
そう判断して、そこで静は迷いの感情をあっさりと断ち切って、眼の前の敵へと躊躇なく自身の武器と殺気を突きつける。
互いに相手にかける言葉は、しかし実際には相手との意思の疎通を期待しない勝手な宣告。
『さあ、始めようではないか美しき獲物よ。せいぜい最後に私に、その命の輝きを存分に見せつけてくれ』
「言葉は半分もわかりませんが、そちらがその気でいるのならこちらも是非もありません。せいぜい後悔の類は、その首か弓を叩き落とした後にいたしましょう」
武器を構えて睨み合い、そして二人はほとんど同時に動き出す。
重力の変転により頂点と化したその場所で、噛み合わない二人が互いに相手に牙をむく。




