146:話せぬ懊悩
手首に腕輪のようにはめたガムテープのロールからテープをちぎり取る。
それを手にした金属製の感知護符に貼りつけて、目の前にある換気口周辺の、できるだけテープがはがれにくそうな箇所を探して接着する。
手を放し、テープが簡単にはがれてこないかを確認する詩織が聞くのは、足元から投げかけられる一つ年下の少女の声。
「どうですか、詩織さん? うまく貼れましたか?」
「う、うん。大丈夫みたい」
その声に内心少しだけビクリとしながら、詩織は空中に立ったまま、なんとか平静を装いそう返答する。
対して、足元の静の方は見たところいつもと変わらない様子で詩織のその返答に頷くと、やはりいつもと変わらぬ様子で次の段階へと話を進める。
「では次に参りましょう。詩織さん、下りてこられますか? 一応跳び下りられる高さではありますけど、できれば、そう、階段でも降りるような形で」
「う、うん。やってみる」
なんとかそう返答し、詩織は自身の足裏、なにもない空中に存在している足場の感覚から、まずは右足を離してその一歩を踏み出して見る。
床から二メートルほどの高さとは言え、何もない空中に左足一本で立っているという自身の状態と、同じく踏み出す先がやはり何もない空中であるという事実に若干怯みそうになりながら、それでも詩織は慣れ始めたその感覚に任せて己の右足、正確には右足に履いたグラディエーターサンダルへと、己が魔力を流し込んだ。
直後、ベルトを編んで作られたようなサンダル、その靴底の裏に魔力によって小さな足場が形成されて、踏み出した右足がまるで階段でも降りるような感覚でその足場を踏みしめた。
(ふぅ……)
心中で安堵しつつ、同じ要領で今度は左足の方を動かすと、一歩、二歩とだんだんと足を速めて、最後の方は半ば普通に階段を下りるような感覚で、詩織は床の、本当の地面がある場所にまで無事に下り切った。
振り返り、空中に形成した魔力の足場が、その形成された順番通りに消えていくのを眺めていると、そんな詩織に静が声をかけてくる。
「どうやら大丈夫なようですね。というより、だいぶ自然な感じで使っておられたようですが、もしかしてどこかで練習していましたか?」
「う、うん。二人が来るまでに、床から少しだけ浮いた形で歩いてみたりとかは、少しだけ……。流石に高いところに昇ったりみたいな上下移動は今のが初めてだったけど……」
「それはよかった。その【天舞足】の扱いは通常の術技と違って、スキルに頼らず自分で習得せねばなりませんから……」
【天舞足】。それこそが詩織が今しがたこうして、なにもない空中を歩くことができたその理由であり、詩織が現在履いているグラディエーターサンダルの名前だった。
一つ上の階層で、恐らくはフジンが死亡した事による討伐報酬として出現したこのアイテムは、どことなく天使が履いていそうなその見た目に合わせたかのように、魔力を流すことで足裏の位置に足場を作り、その上を歩けるという、単純ながら非常に便利な効果を有していたのである。
同時に、その【天舞足】の存在こそが、現在詩織がこうして、静と二人で行動を共にすることになっている理由でもある。
「それにしても、おかげで助かりました。私と竜昇さんだけでは、どうしても手の届きにくい所が出てしまうもので……。【壁走り】や【空中跳躍】も試してみたのですが、どうにも【歩法スキル】の技は移動することはできても、一定箇所に留まるのは不得手なものでしたから」
詩織がこうして、護符の設置作業の方に駆り出されることになった理由は単純だ。要するに高い箇所への護符の設置が、静や竜昇だけでは難しかったらしいのである。
一応、二人で設置作業を行っていたときも、ある程度手の届く場所はそれなりにあったらしいのだが、やはり通気口は換気口と言ったものは往々にして高い場所に設けられがちで、そうした場所への護符の設置はやはり困難だったらしい。
静本人が言っていた通り、彼女の持つ【歩法スキル】の技は空中や壁面で立ち止まるような器用な真似ができる性質のものではない。
必然、この【歩法スキル】で作業をしようと思ったら、目的の場所に通り過ぎざまに護符を張り付けるか、あるいは駆け上がった場所でどこかに掴まって、ぶら下がるようにした状態で作業を行わなければならず、作業が非常にやりにくかったらしいのである。
それでも、静のセンスでどうにかそれをやっていたというのだからそれはそれでたいしたものなのだが、しかしさすがに天井や壁にぶつかる危険があったらしく、こうして【天舞足】を譲り受けることとなった詩織が駆り出されることになった、というのが現在の状況だった。
「一応竜昇さんに肩車してもらうという手も考えたのですが、なぜか竜昇さんには断られてしまったんですよね……」
「それは……、たぶん、当然だと思うよ」
静の発言についつい彼女の現在の格好、水着の上にパーカーを羽織っただけのその姿と、そしてそれ故にむき出しになった太腿のあたりに視線をやって、思わず詩織はそう口にしてしまう。
別に詩織とて男子の視線や心理を熟知しているとは言えないが、しかしそういったものに鈍くとも、今の静を肩車するという絵面を想像すれば竜昇がそれを断った理由は容易に想像できる。
果たしてこれはあまりにも不用心な静を注意するべきなのか、それともある種の誘惑を跳ね除けたことになる竜昇を称賛するべきなのか。
「さて、それでは次を探しましょうか」
そんなことを考えつつ、しかし結局何も言えずに問題を流してしまった詩織に対し、静は詩織のその内心の葛藤などつゆ知らず、次の設置個所を探すべく詩織の先を歩き始める。
そんな静を慌てて追いかけながら、同時に詩織が抱くのは一つの疑問。
すなわち、なぜ自分が、今こうして静と行動を共にすることになっているのか、その本当の理由はいったい何なのか。
(やっぱり、ただ単純に作業を手伝ってほしいから、って言うだけじゃないよね……)
先を歩き始めた静の背中を見つめながら、詩織は先ほどから何度も考えているその思考に立ち返る。
実のところ詩織自身、ただ作業を手伝うためだけに自分がこうして連れ出されてきたのだとは思っていない。
そもそも、詩織が【天舞足】を装備することになった理由は、単純に【天舞足】のサイズが男性陣二人には合わず、残る静は【歩法スキル】による空中移動能力を持っていたという理由の、いわば消去法の結果だ。同時にこれは逆に言えば、サイズに関してならば詩織だけでなく、静もその条件はクリアできていたということでもある。
ならば極端な話、高所作業の問題など、静が詩織から【天舞足】を借りて作業を行ったとしても解決できてしまうのである。
にもかかわらず、わざわざこうして詩織本人を作業に駆り出したというのは、果たしていったいどういう理由なのか。
(やっぱり、さっきのこと、怒ってるのかな……?)
思い出すのは、つい先ほど詩織自身がしてしまった、静が行っていた情報の秘匿に対する、突っかかるようなもの言いだ。
今にして思えば、なぜあんなことを言ってしまったのかと、そんな後悔したくなるくらい失礼な言い方をしてしまったという自覚が、今の詩織の中にはっきりと存在しているのである。
静のことをまるで裏切り者のように扱って、良かれと思ってやっていた行為に一方的な文句をつけてしまった詩織に、この先を歩く少女が一言文句を言ってやろうと考えてこうして連れ出していたのだとしても、詩織自身そう驚かない自信がある。
(それとも、もっと怒ってたりするのかな……。ヤキを入れてやる、みたいな……?)
そんな風に考えながら、しかしどうにも詩織が現状に対して危機感のようなものを覚えられずにいるのは、恐らくこの小原静という少女が、そういったことをしそうな人間に見えないことが原因だろうか。
それは単に、詩織が静の善良さを信じているからとか、そんな単純な理由故の判断ではない。どちらかと言えば、詩織が静に対して抱いているのは『この相手がそんなわかりやすい真似をするとは思えない』という感覚だ。
正直に言えば、詩織にはこの小原静という少女が何を考えているのか、その思考回路がさっぱり予想できていなかった。
(竜昇君なら、静さんが何を考えてるかわかるのかな……?)
自問して、しかし詩織は自分でも意外なことに、その部分については違うのではないかとそんな風に推測する。
先ほどの話し合いの中での竜昇の様子を見た限り、竜昇も静のことを全て見通しているというわけではないようだった。
そもそも話を聞けば、二人の付き合いとてこのビルのなかで出会った時からのもので、時間的に考えてもそれほど長い付き合いというわけではないらしい。
いかに人と人との関係が時間だけで決まるものではないと言っても、流石にそれだけの時間であの二人が相手の考えを一から十まで理解できるほど、その関係を深めたとは考えにくいだろう。恐らく竜昇とて、この静という少女の内面の動きを、一から十まで理解し、見通しているわけではないはずだ。
けれど、相手に対する理解の浅さは、必ずしも相手への信頼の大きさに直結するわけではない。
恐らく相手の全てなど理解できていないはずなのに、それでも先ほどの話し合いのさなか、竜昇が見せたのは、その静に対する強固と言っていい信頼だ。
相手の考えを見通せるから相手を信じられるというのではなく、根拠などなくとも相手を信じられるという信頼関係。
だからこそ、竜昇は静が情報を秘匿していたと知っても彼女に疑いなど持たなかったのだろうし、今にして思えば静の方も、そんな風に竜昇が信じてくれると確信していたから、自身もある程度危険をはらんだ行為に踏み切ることができたのだろう。
(うらやましい、な……)
なんとなく、絆を見せつけられたような、そんな気分になって来る。
いっそ立ち入る隙の無いような、そんな二人の関係を、酷くうらやましく思っている自分がいる。
(うらやましい、か……)
思いながら、同時に詩織は、自分ではこうはいかないだろうなと、冷静な部分でそう自嘲する。
何しろ今の詩織は、竜昇達に話すべきなのではないかと迷って、そしていまだに話せていない事実をいくつも抱えているのだ。
しかも厄介なことに、そのうちのいくつかに至っては、むしろ話すことができない理由の方が増えてしまったくらいである。
『このことについてはまだ黙っていてほしいんだ。今話すと、余計な誤解を与えることになるからね』
詩織の元にその要請が来たのは、つい今朝方の、様子が変わってしまった城司と共に浴場エリアに向かおうとしていた時のことだ。
竜昇と静、そして誠司と理香の四人が話し合いに向かったその間に、詩織の元に誠司からの伝言を携えて馬車道瞳がやってきたのである。
曰く、『時期が来たらこちらから竜昇達に伝えるから、それまで詩織には、竜昇達に余計な誤解を与えないよう、黙っていてほしい』と。
(余計な誤解、か……)
もしもことが詩織一人の問題だったならば、流石に詩織もここまで悩みはしなかっただろう。
あるいは、話せずにいる複数の事実が、それぞれ別個の独立した問題だったならば、一つくらいは話すこともできたかもしれない。
けれど、秘密をひとつ話すだけで連鎖的に他の事実までも露呈してしまって、しかもそれによって現状の誠司たちと竜昇達の二つのパーティーの関係にまで悪影響を及ぼしかねないとなれば、流石に詩織も軽々しくことを口にはできない。
そう思いながらも、しかし事実を話すことができないその現状に、詩織は強烈な負い目と罪悪感に襲われる。
他人の秘密にあれだけ過剰に反応しておいて、自分の時にはこれなのかと、これでは竜昇や静と顔を合わせるのも心苦しいと、そんな強烈な自己嫌悪に飲み込まれそうになって――。
「――さん、詩織さん」
「――えっ、わッ!?」
――と、思い悩んでいた詩織の目の前に、突如として静の整った顔が下から見上げるような姿勢で現れて、否応なく合わせる顔がないと思っていた、その相手と目が合った。
否、実際には先ほどから声をかけていて、返事が無いからこちらの視界に入ってきたのだろうと後になって気付いたが、唐突な出現に驚く今の詩織にはそんなことにまで気を回す余裕はない。
驚き、思わずのけぞってしまったことで態勢を崩し、あえなく詩織はそのまま後ろに倒れて尻餅をつく。
「大丈夫ですか?」
「あ、っぅ……、う、うん」
若干躊躇しながらも差し出された手を取って立ち上がると、自分たちがいつの間にか、廊下から広い空間に出ていたことにようやく気付く。
周囲に見えるのは、ベンチと観葉植物の鉢植え、そして壁際の自動販売機などの数々。
どうやら考え事をしながら静について歩いているうちに、入浴後に使う休憩スペースのような場所にたどり着いていたらしい。
「さて詩織さん、一つお聞きしたいのですが、このあたりで何か音は聞こえますか? 誰かが近くにいたり、何かの魔力が働いていたりと言うことは?」
「え? えっと、特に誰もいないし、魔力の音も特に聞こえないけど……」
「そうですか。ではこのあたりでいいですね」
困惑する詩織の答えに、静は何やら納得したかのように手近なベンチの近くにまで歩を進める。
その様子に、流石の詩織も何かを始めようという気配を察して、同時にいよいよ来たかとその内心で身構える。
やっぱり絞められるのだろうかと、そんな覚悟を決めかけていた詩織に対してかけられるのは、しかし予想していたよりも若干楽しそうな、どこかいたずらっぽい感情すら混じったこんな一言。
「それでは詩織さん、少し内緒話をしましょう」




