第56羽 甘い休日
次の休日、ヨハネスは袋を手に、リンディの部屋の前に立つ。ドアに貼られた、大きな◯が書かれた紙を、ふっと笑いながら剥がした。
ノックしようと手を上げると同時に、バンとドアが開く。危うく顔に直撃する所を、彼は持ち前の反射神経で素早く躱した。
「いらっしゃい!」
「こんにちは。まだノックしてないのに、よく分かったね」
「階段がギシギシ鳴るから分かるの。紙を剥がす音もしたし」
「そうか……便利な階段だな。でも泥棒の可能性もあるから、今度からちゃんと確認してね」
「分かったわ」
セキュリティ面では大きな問題があるこの城。そこに一人で住む彼女を、ヨハネスは心から心配する。
(素直で警戒心がなさそうだからな……こうして男を簡単に部屋に入れてしまうし)
室内は相変わらず乱雑ではあるものの、例の魔道具で心地好く冷やされている。初めて来た時と同じ、鼻腔をくすぐる甘い塗料の香りに、ヨハネスはほっと温かな気持ちに包まれていた。
「良かった。お土産にアイスクリームを買ってしまったから、もし✕だったら一人で搔き込まなきゃいけないとこだったよ」
「アイスクリーム!? 嬉しい!」
「あと、ローストチキンと林檎。君の好みが分からなかったんだけど……食べられる?」
「うわあ、全部嬉しい! チキンも林檎も好きだけど、自分ではなかなか買えないから。ありがとう、ヨハン兄様」
「ヨハン兄様?」
「うん! 年上なのに、呼び捨ては失礼だと思って。そう呼んでもいい?」
(……ヨハン “ 兄様 ” か)
何だかくすぐったく、ヨハネスの顔は思わず綻んでしまう。
「もちろん。妹が出来たみたいで嬉しいよ。君は今18歳?」
「ううん、まだ17歳なの。飛び級で卒業して、採用試験を受けたから」
「飛び級!? 優秀なんだね」
「……ちょっとね、慣れてる試験だったから。頭が勝手に覚えてしまっていただけで、考えて解いた訳ではないし、優秀な訳でもないの」
ヨハネスは小首を傾げるが、それでも感心したように頷く。リンディは居たたまれず話を逸らした。
「ヨハン兄様は幾つなの?」
「21歳。もうすぐ22歳になるよ」
「じゃあ私より……1、2……ずっと上ね。やっぱり呼び捨てにしなくて良かったわ」
そこでふとリンディは思う。自分の実年齢は31歳なのだから、本当は自分の方が年上なのか? と。
(でも、彼も二度目の人生なのよね。そしたら実年齢は……えっと……ええと……本当に数字は嫌い。とにかく彼が年上であることには変わりないのかしら。何だかややこしいわ。
彼には一度目の記憶がないのだから、精神年齢は自分の方が上なのだろうけど。全く開きを感じないわ。むしろ彼の方が大人だし、しっかりしている。
……うん! 素直に肉体年齢で考えよう!)
難しい顔で唸るリンディの頬に、何やら冷たい物が当てられた。
「ひゃあっ」
驚き飛び退く彼女の手に、ヨハネスは笑いながらアイスクリームの容器を置く。
「溶ける前に食べよう。ね?」
舌に広がる涼しい甘さに、目を細めにんまりするリンディ。「う~ん!」と興奮しながら、夢中でスプーンを口に運ぶ。
ヨハネスはそんな彼女を眺めつつ、一人で食べるより何倍も甘く感じるそれを、しみじみと味わっていた。
祖父が亡くなってから天涯孤独の身であった彼は、ルーファスの護衛で得る破格の給金をもて余していた。支えたい家族は既にこの世になく、恩返ししたいあの老人は居所が分からない。自分は何の為に働いているのだろうと、ふとした時に、空しさを感じることもある。だからこうして、誰かの為に金を使えるのは幸せだった。
(アイスクリーム一つでこんなに喜んでくれるなら、幾つでも買ってあげたいな。きっと妹が生きていたら、そうしていたに違いないから)
最後の一匙を掬い、ご馳走さまでしたと手を合わせるリンディを、ヨハネスは優しい眼差しで見つめていた。
スプーンを置き、眩しい太陽が差す奥の部屋に、何とはなしに目をやるヨハネス。すると、彼女が『生きている絵』と呼んでいた出窓の隣に、もう一つ窓が見えた。なんとそちらの景色は、夜の星空だ。
どういうことかと目を凝らせば、それはイーゼルに置かれたキャンバスだということに気付く。ヨハネスは立ち上がると、星空に近付きまじまじと眺めた。
「すごい……窓が二つあるみたいだ」
「そう? 心を空っぽにして写したから、その絵はあまり気に入ってないのだけど」
「でもすごく綺麗だよ。本当に星が点滅しているみたいだ。昼と夜、両方の景色が同時に楽しめるなんて素敵だね」
リンディもぴょんと椅子から下り、改めて星空の絵を眺める。
(うーん……やっぱりこの絵はあまり好きじゃないな。だけどヨハン兄様の言う通り、もう一つの窓と考えれば、少しだけ素敵な気もしてきたわ)
「リンディ、お昼ご飯を食べ終わったら、絵を教えてくれないか? 僕もこんな風に描いてみたい」
さっきの貼り紙の裏にでも描くつもりだったヨハネスに、リンディは惜し気もなく、高価なキャンバスを差し出す。
「いいよ、練習なんだから勿体ない。絵を描くのなんて子供の時以来だし、きっと上手く描けないだろうから」
「だからこそキャンバスに描くのよ。絶対こっちの方が楽しいわ!」
リンディは彼の前に、ずらりと画材を並べる。木炭、鉛筆、それに絵の具が何種類も。
「どれでも好きなのを使ってね。色々試してみて」
ヨハネスはその中から、ガラスのシリンジに入った、緑の絵の具を手に取った。
「……綺麗な色だね。これであの木を描いてみたい」
指差す窓の外には、緑の葉が生い茂る大木がある。
「素敵! 私もまだ、あの木は描いたことがないの」
「すぐに色を塗りたい気分なんだけど、下書きからした方がいいよね?」
「ううん、どちらでも構わないのよ。途中で色を変えたくなったら、重ねていけばいいし。気分が大事!」
そう言いながら、リンディは絵の具を手早くパレットに出し、筆になじませヨハネスへ渡す。
「どうぞ。思いきり楽しんでね」
ヨハネスはまるで冒険に出発するような、わくわくした気分で、それを受け取った。
「……うーん、枝に奥行きを出したいんだけど、上手く描けないな。教えてくれる?」
キャンバスに色を置くヨハネスを、にこにこ見守っていたリンディ。すっと彼の背中へ回り、横から筆を持つ長い指を取った。左利きの彼に左手を添えるので、自然と身体が密着する形になる。
アイスクリームか……それともさっき食べたばかりの林檎だろうか。彼女から漂う甘い香りに、ヨハネスの胸がとくりと跳ねる。
「……君も左利きなの?」
「どっちも使えるの。色を塗るのは左の方が、線を描くのは右の方が少しだけ得意。でもその日によって違うから、手に訊いてから描くことにしてるわ。今日はね、左!」
「へえ……」
リンディの繊細な指に導かれ、平らな木は、みるみる立体的に仕上がっていく。
色を足しながら一通り木を描き終えると、ヨハネスは赤と黄色のシリンジを取った。
「この木に、果物を描いたら変かな。しかも林檎とオレンジ両方なんて」
「うわあ、すごく素敵! 両方食べられる木なんて夢みたい! 変でいいのよ。芸術には、“ 変 ” が必要なの」
「そうなの?」
「ええ! お義兄様の絵なんて、すごく変だけど可愛くて大好きだったもの」
あ、また……と、リンディは口をつぐむ。
「おにいさまって、この間言っていた親戚のお兄さん?」
「うん……」
それきり背を向け、絵の具の準備をするリンディ。
ヨハネスの目に映る彼女は、時折こうして、堪らなく哀しく見えた。
◇
それからもヨハネスは、休日の度にリンディのアパートを訪れ、共に過ごすようになっていた。長年孤独に耐えていた少年は、大人になった今、失った家族を再び手にしたような幸福感に満たされていたのだ。
一方リンディも、彼と過ごす休日を楽しみにしていた。ルーファスや指輪のことを考えては、混乱し押し潰されそうになる心が慰められるからだ。
それに、リンディはヨハネスのことが大好きだった。ルーファスが義兄だった時の甘酸っぱい “ 好き ” とは違い、ヨハネスに対するそれは、家族に抱くような優しい “ 好き ” である。
今日は買い物に付き合って欲しいと、ヨハネスに誘われ二人で来たのは、役所前の広場で年に二回開かれる雑貨市。
外国からの輸入品が多いこの市で、ヨハネスはリンディへ珍しい画材を買ってやりたかったのだ。彼の期待どおり、リンディは画材が並ぶ出店の前で足を止め、目を輝かせる。財布と相談しながら物色する彼女の横で、ヨハネスは迷っては泣く泣く戻された方の画材を、どんどん自分の篭に入れていった。
こっそり買って、後でまとめて渡したらどんなに喜ぶか。その笑顔を思い浮かべるだけで、ヨハネスは楽しかった。
二人が買い物を楽しんでいたその時、役所から出て来た一人の男は、人混みの中の一点に目を止め立ち尽くす。
(あれは……!)
恐ろしい光景に、ルビー色の瞳は激しく揺れた。




