第55羽 闇に怯えるカラス
(私があの日、業者のおじいさんと彼の家を訪ねなければ……彼は誰からも援助を受けられず、進学しなかったかもしれない。武術学校へ進学せず働いていたなら、彼はどんな人生を送っていたのだろう。
お義兄様の護衛になるよりも、もっと良い仕事に就いていたかもしれない。もしかしたらもう結婚して、幸せな家庭を築いていたかもしれない。
彼にとって、二度目の今より、一度目の人生の方が幸せだったとしたら?
……私がそれを壊してしまったことになる)
リンディは床に、フラフラと座り込んだ。
(お母様だってそう。ハリエットさんと出会って、学習塾や教材のお仕事で毎日楽しそうにしているけど……お義父様とは結婚出来なかった。いつも笑い合っていた、あんなに仲が良かったお義父様と。
私は今まで自分の人生のことばかり考えていた。辛いことは回避し、幸せだったことは同じようになぞろうと、そればかりに必死で。
そのせいで、気付かない内に誰かの人生を壊してしまっていた。……幸せを奪ってしまったかもしれない。
……お義兄様は?
一度目と二度目の人生、どちらが幸せなの?
時を戻してなんて願わず、あのまま死んでしまえば良かったかな。でも、あの時私が死んでいたら、一人残されたお義兄様はどうなっていただろう。
ねえ、私はどうすれば良かった?)
指輪に問いかけるも、美しく輝くばかりで、返事は返って来ない。
愛しい砂。愛しい、愛しい……義兄の寿命。
せめて彼だけは幸せになって欲しいと思えば、またリンディは罪悪感に苛まれる。
(色んな人の人生を壊したくせに……身勝手すぎる)
目をこすり立ち上がると、イーゼルを窓辺に移動させる。星空が包む静かな王宮を、白いキャンバスにそのまま写していった。
◇
(暗い……真っ暗だ。
周りも、上も下も、何処を向いても暗闇ばかり。
心を無に包んでくれる、冷たくて心地好い世界。
何も、誰も居ない。自分さえも存在しない……はずなのに……
お前は誰だ?)
黒髪で、気味の悪い赤い目の、自分にそっくりな男が笑っている。何かを見て、誰かと話して笑っている。やがて男はこちらへ向き、哀れむような視線を送ってくる。
(やめろ……そんな目で見るな……やめろ……やめろ!!)
跳ね起きれば、全身が汗でぐっしょりと濡れている。荒い呼吸に乗って、凄まじい恐怖と苦しみが込み上げる。
(……くそ!)
ルーファスは枕を掴み、壁に投げつけた。
(あの暗闇が心を守る唯一の居場所なのに……! 闇が闇でなくなってしまったら、自分はきっと壊れてしまう)
頭を抱え、しばらくガタガタと震えていた。
室内が暗くなっていることに気付き、ランプを点けると、フラッと立ち上がる。ピッチャーから乱暴に水を注ぎ、溢れるのも厭わず一気に喉へ流し込んだ。
不意に視界の端に、チカチカするものを捉え顔をしかめる。濡れた口を苛立たしげに拭い、カーテンを閉めようと、星が輝く窓へ近付いた。
分厚い布をぐっと握った時、自分の護衛が下を歩き、アパートの入口へ入って来るのが見えた。ああして制服ではない姿を見ると、『護衛』ではなく、一人の『人間』なのだと認識させられる。
──ヨハネス・ウェン。彼はルーファスにとって、非常に優秀な護衛だった。武術や剣術の腕もさることながら、“ 女避け ” の役割も充分に果たしている。命じた仕事を完璧にこなすだけでなく、主の機嫌を読み臨機応変に対応する。一方余計な干渉は一切せず、四六時中張り付かれていても、ストレスを感じない貴重な人材だった。
そんな男が先日、護衛の任務中に初めて隙を見せた。
『ヨハネス・ウェン!!』
頭に響く高い声。女の顔はよく覚えていないが、あの声だけは、ルーファスの耳に不快感として残っている。
自分だけでなく、護衛にも近付こうとする女は今までに沢山居たが、ヨハネスがあのように反応することは初めてだった。
(すぐに任務に戻った為、咎めることはしなかったが……もし仕事に支障をきたすなら、女もろとも排除してやる)
カーテンで星を遮ってもまだ、何かがチカチカする。視線を落とせば、左手の薬指にあの指輪が光っていた。
(……ああ、心底苛立たしい)
7歳のある日から、突然指に嵌まっていた指輪。どんなに力を込めても抜けず、初めは父が自分を監視する為に嵌めた魔道具か何かかと思っていた。
だが、誰の目にもそれが見えないと言われ、口裏を合わせているのかと、屋敷外の人間にも見せたがやはり同じ答えだった。
混乱する自分を案じ、あちこちから医師を集め診させたことからも、父の仕業ではないと確信する。診察は苦痛だったし、母のように部屋に閉じ込められては敵わないと思った為、指輪についてはその後、一切口に出すのを止めた。
では、これは一体何なのか。
中等部への進学を機に、ルーファスはやっと父の居る息苦しい屋敷から離れ、王都学園の寮に移った。様々な書物を読み漁り、また、魔術科の教師に尋ねてみるも、手掛かりは掴めなかった。指に手をかざせば、確かに何かの魔力は感じるものの、その正体が全く分からないと。
奇妙なのは、石の砂が徐々に減り続けていることだ。特に亀裂など破損している部分は見当たらないのに。それにつれて、神経を逆撫でる光も弱まってきているのだけは救いだった。
(……砂が全て無くなれば、指から外れるのだろうか。もしくは忌々しいこれの正体が分かるかもしれない)
早く無くなってしまえと、ルーファスは念を込めて指輪の砂を睨みつけた。
◇
数日後の朝、王宮の裏門でまた、ルーファスはリンディを追い越していく。それに付き従うヨハネスは、すれ違いざまにリンディとチラリと目を合わせ微笑んだ。と同時に、彼女の手に、さっと何かを握らせる。
(……何かしら?)
こっそり手を開くと、“ リンディへ ” と書かれた小さな紙があった。
既に大分前を歩くヨハネスだったが、パッと顔を上げる彼女へ向け、背中越しに小さく手を振っていた。
──そんな二人のやり取りを、ルーファスは敢えて気付かない振りをしながら、冷ややかに見つめていた。
『リンディへ
この間は楽しかったよ。
美味しいご飯をどうもありがとう。
早速ですが、次の休日……お昼の十一時頃にまた家へ遊びに行ってもいいですか?
もし都合が悪ければ、紙に✕を書いて、ドアに貼っておいてください。お土産だけ置いて帰ります』




