第53羽 愛する護衛さんは
突如響いた自分の名に、ミルクティー色の彼は足を止めた。背後から駆けて来る足音に元々警戒していた為、その手は剣の柄を掴んでいる。
横から自分を覗くのが、ふわふわの人形みたいな女性だと分かると、彼の切れ長の目が徐々に開いていく。警戒心は解け、柄からすっと手を下ろした。
少し前を歩いていたルーファスも足を止め、声の方を振り返る。自分の護衛の横に立つ得体の知れない女に、不快感を露にした。
「やっぱり……! ヨハネス、ヨハネス・ウェンでしょう!? 私を覚えてる? えっと……私が10歳の時だから……いち、に……七年前? 七年前に、貴方のお家にお邪魔したの!」
ヨハネスは、リンディの顔を穴が空くほど見つめる。
くるくるの金髪、白い顔に浮かぶ、青い大きな瞳と薔薇色の唇。まるで動く人形みたいだと印象に残っていた少女が、今少し大人になって、再び目の前に立っている。
(彼女の名前は確か……ディ……シンディ……)
「私、リンディ! リンディ・フローランスよ」
(そうだ、リンディだ。もう会うこともないと思っていたのに……こんな偶然もあるんだな)
またね! と手を振りながら、丘を下りる少女の姿が甦り、彼の胸は何となく温かくなった。
「……先に行く」
二人同時にはっと前を見れば、痺れを切らしたルーファスがスタスタと歩き出していた。
任務中だしどうすべきかとヨハネスは考え、こうリンディに提案した。
「明後日の休日は仕事休み? もし休みなら、会って少し話をしないか?」
「ええ、休みよ! 私も話したい!」
「じゃあ明後日の朝十時に、王宮の裏門横で待っているよ」
「分かったわ、私も待ってる!」
慌ただしく喋り、ルーファスの後を追うヨハネスに、リンディは手を振りながら叫ぶ。
「またね!」
あの日と同じように、ヨハネスも反射的に手を振り返していた。
約束の日、二十分も前に到着したリンディよりも更に早く、ヨハネスは裏門横で待っていた。先日のカチッとした護衛の制服ではなく、ラフなシャツを着ているというのに、背筋の伸びたその立ち姿は護衛そのものだ。
「お待たせしました!」
笑顔でこちらへ走って来るリンディに、つられて笑うヨハネス。彼のその顔は、金平糖をあげた時の、あのあどけない少年のままだとリンディは思った。
近くのカフェに入ろうとするも、まだ準備中だったり混雑していたりで、二人は諦める。ワゴンで買った飲み物を手に、木陰のベンチに腰を下ろした。
「この間は慌ただしくて……ちゃんと話も出来なくてごめん」
「ううん! 私も仕事があったし。こちらこそ突然叫んでしまってごめんなさい。でも、こうしてまた会えるなんて、驚いたけどすごく嬉しかった」
「僕も驚いたよ」
笑い合うと、同時にカップに口を付ける。汗ばんだ身体に、冷たい飲み物が心地好く浸透していき、ヨハネスはふうと息を吐いた。
「君も王宮で働いているの?」
「ええ、今週から。宮廷絵師になったの」
「絵が描けるんだね。すごいな」
「……貴方は、おにい、ルーファス・セドラーさんの護衛をしているの?」
「そうだよ。セドラー家で正式に雇われている」
「勤務初日にもね、裏門でルーファス・セドラーさんと擦れ違ったのだけど、その時は貴方が居たの全然気付かなかったわ」
ヨハネスは少し考え、口を開く。
「ああ、休暇をもらっていた日かな。祖父の命日だったから墓参りに」
「そうだったの」
リンディはホッとする。義兄に『退け』と言われたショックで、彼を見逃していたのかと思っていたからだ。
「あのおじいさん……君と一緒に家に来た、あの業者のおじいさん。あの後、ずっと僕を気にかけてくれてね。畑で取れた野菜だとかお菓子を持って、食べきれないからってよく訪ねてくれたんだ。学校で手が回らないのを見かねて、水汲みや草むしりまで手伝ってくれたり」
「そうだったの! 私は二度しか会っていないのだけど、優しいおじいさんだったものね」
「うん。すごくいい人だったよ。三年前にセドラー家に雇われてからは会えなくなってしまったけど。何しろ名前も住所も教えてくれなかったしね」
「名前は歳を取って忘れてしまったんですって。私、リンディって名前すごく気に入っているから、おばあさんになっても忘れたくないな」
老人の真意を理解していない純粋なリンディに、ヨハネスはくすりと笑う。だが次に彼女の口から出たのは、予想外に深刻な一言だった。
「あ……どのみち、おばあさんになるまでは生きられないか」
「……どうして?」
「えっ……えっと……何となく」
(寿命のことは……指輪のことは話しづらい。自分のお祖父様が作った指輪で、私とお義兄様が複雑な状況に置かれていると知ったら、彼は一体どう思うだろうか。それに、信じてもらえるか分からないし)
「君は元気だから長生きしそうだけど。むしろおばあさんになっても、走り回っている未来しか見えないよ」
(……自分もそんな気がしてたんだけどな。頭はおかしくても、元気と健康だけが取り柄だったのに。まさか矢が刺さって死ぬなんてね)
そこでリンディは、はっと気付く。
(二回目の人生も19歳で死ぬとしたら、今回はどんな風に死ぬのかしら。……また痛いのかな)
ゾッとし、思わず心臓に手を当てる。
(……そういえばアリエッタ王女様は? 今、どうしていらっしゃるのかしら)
難しい顔で考え込むリンディを見て、ヨハネスは深くは触れずに会話を戻した。
「あのおじいさんのお蔭で、僕は武術学校の高等部を卒業出来たんだ。“ 学問は一生の財産だ ” って、進学を勧められてね。貯金も尽きかけてたし、本当は中等部を卒業したら働くつもりだったけど。おじいさんが学費を援助してくれたんだよ。これは慈善事業じゃなくて投資だ、出世したら倍にして返せって」
老人が目の前で本当にそう喋っている気がして、リンディは微笑む。
「でも……名前も住所も分からないのに、どうやってお金を返すの?」
「そうなんだよ。折角狭き門をくぐって、公爵家の護衛になれたのに。いつか取立てに来てくれたらいいんだけど」
困った人だといった調子で笑うヨハネスの目には、老人への敬意が浮かんでいた。
(公爵家……セドラー家……お義兄様……。どうしよう……訊きたいけど、訊いてもいいのかな。でも今を逃したら、一生訊けない気がする。……よしっ!)
リンディは飲み物を横に置くと、覚悟を決めてヨハネスに向き合った。
「あの……貴方とルーファスさんは愛し合っているの?」
躊躇った割には直球すぎる問い。だがヨハネスは全く動じることなく、淡々と答えた。
「うん、愛し合っているよ」
顎が外れそうなほど、あんぐりと口を開けるリンディに、ヨハネスは噴き出した。
(くるみ割り人形みたいだな……)
そしてこう続ける。
「……ってことにしたいみたい。我がご主人様は」
「 “ したいみたい ” ?」
「うん。男好きってことにして、女性と距離を取りたいみたいだよ。害のない結婚相手を見つけるまでは、一切女性と関わりたくないんだって」
「じゃあ、じゃあ男の人が好きな訳じゃなくて、女の人を避ける為に貴方とお芝居してるの?」
「まあそうだね。僕は護衛でありながら、女性避けのカムフラージュなんだよ。半分顔で採用されたようなものだし」
ね? と同意を求める風に、長い指で指し示された彼の顔は、確かに美しい。ハッキリした目鼻立ちのルーファスとは異なり、シャープで繊細な硝子細工を思わせる美貌だ。
お義兄様と彼が並んだら、確かに絵になるわ……愛し合っていると言われたら、そうでしょうねと納得してしまうもの。そう、禁断の……世界……
リンディは口を開けたまま、ぶんぶん首を振る。
「それにしても、王宮で働き始めてまだ数日しか経っていないのに。もうルーファス様と僕の噂を知っているんだね」
「あ……うん……それは……絵師の先輩に色々聞いたの」
「確かにあの方は色々と有名人だしね。身分も容姿も……性格も」
聞いたでしょ? という風に、ニヤリとするヨハネスに、リンディは苦笑いしか出来ない。
「貴方はあの人に虐められていないの?」
「うん、特に問題なく働かせてもらっているよ。仕事さえこなしていれば何も言われないし。隣の部屋に住んでいるんだけど、お互いプライベートには一切干渉しない」
(隣の部屋……もしお義兄様が前の人生と同じアパートに住んでいるとしたら、以前私が住んでいた部屋に彼が居るのかしら。男性好きではないと聞いたばかりなのに、何だか複雑な気持ちになってしまうわ)
……ともあれ、ヨハネスが器用にやっているらしいことが分かり、リンディは安心した。
次第に日は高くなり、葉の傘で直射日光からは守られているものの、じわじわと全身が蒸されてきた。額から垂れる汗を拭い、ヨハネスは言う。
「少し早いけど……何処か涼しい所で、お昼でも食べようか」
「あっ、それなら家に来る? 近くだし、魔道具もあるから涼しいわ。きっと」




