第47羽 私が迎えに行くわ
今朝もフローラは、コップを傾ける娘をじっと見つめるが、ミルクは溢れることなく、無事に小さな口に吸い込まれていった。たまに少し溢すことはあっても、以前の比ではない。
あの雨の日以来、リンディは変わった。行動も言動も急に落ち着いたのだ。確かにその性質は間違いなく自分の娘であるのだが……急に大人になり、遠い所へ離れてしまったような、そんな気がしていた。
「お母様、私、お祖父様のお家で大人しくしているから。心配しないで、新しいお仕事を探してね」
頼もしいその言葉通り、手を煩わせることなく、フローラの実家で大人しく過ごすリンディ。以前は白旗をあげた父や乳母も、その変わり様に驚き喜んでいた。……と同時に、大きな病院でちゃんと診てもらった方がいいのでは? と心配もしているが。
子供と一緒の住み込み限定ではなく、通いの仕事も可能になった為、フローラの職探しの幅は一気に広がった。
とある子爵家の家庭教師に決まりかけていた時、職業安定所で自分と同じく教職を探す女性と知り合い、意気投合する。
貧しい子供達も通える学習塾を作る夢を持つ彼女と、安価で質の良い学習教材を作る夢を持つフローラ。年齢は少し離れているものの、互いに夫との離縁歴もあり、前向きな性格もよく似ている。
これは最良のパートナーに違いない! 男だったら再婚したのにね! と笑い合いながら、二人は夢に向かって早速動き出した。
充実した毎日を送るフローラだったが、やはり気がかりはリンディのこと。埃を被ったスケッチブックを見ては、寂しい気持ちに襲われるのだった。
◇◇◇
時が戻ってから五年後──
リンディは今日もこうしてふらりと隣町を訪れては、セドラー家の塀の前に立つ。
願いは虚しく、あれから一度もルーファスに会えることはなかった。
母フローラと友人のハリエットが立ち上げた学習塾の経営は順調で、着々と教室数を増やしていた。昨年、この隣町にも新しい教室を開き、フローラはそこの塾長を務めている。母を訪ねるという口実の元、以前よりこの場所にも来やすくなっていた。
ため息を吐き塀から離れると、今度は海へ向かう。いつもお決まりのコースだ。
前の人生で、義父が建ててくれた東屋のあった場所には、ただ草が生い茂っている。リンディはそこに腰を下ろし、白い波が揺らめく海を見つめた。
(振り向けば、今にもお義兄様が迎えに来てくれそうなのに……)
カサリ
物音にはっと振り向くが、獲物を啄む一羽の海鳥に肩を落とす。
(空も、海も、髪をなびかせる潮風も変わらないのに……貴方だけが居ない)
二度目の人生が始まったあの日から、どれだけ涙を流しただろう。泣き過ぎたせいか、もう今更泣くことはなくなっていた。心の中の、何か大切なものを失ってしまったのかもしれないとすら思う。
『それぞれ一度だけ、相手への想いで石を潤した時にのみ、願った時に戻ることが出来る。それまでの記憶は願った方にしか残らないが、指輪は互いの指に残る』
何度も繰り返し考えた、説明書の文言。
記憶は願った方にしか残らないということは、前の人生を覚えているのは自分だけで、きっとルーファスは忘れてしまっているのだろうと。
(もし覚えていたら、絶対に迎えに来てくれるはずだもの……
でも指輪は私と同じように、お義兄様の指にも残っているのかな? だとしたら、お義兄様はそれを見て、どんな風に思っているんだろう。呪いの指輪だ、外れないって、怖がっていないといいけれど)
立ち上がり海と別れると、義兄とよく歩いた裏道へ向かう。迎えに来ないのだから、途中で会える訳もないだろうが、少しでも想い出に触れていたいのだ。
いつも静かな裏道が、今日は何やら騒々しい。
「割引券ありますからね~良かったら覗いてみて下さい。はい、お嬢さんもどうぞ」
差し出されたチラシを受け取った途端、リンディの頭に前の人生の記憶が鮮やかに甦る。ばっとチラシを開けば、浮かび上がる店の地図と商品の立体像。胸がどくりと跳ねた。
(魔道具……魔道具店……タクト!
そうだ、今日はタクトと初めて出逢った日だわ!)
リンディはチラシを握り締め、大通りへ駆け出した。
(タクト……タクト……会いたい……タクト……)
チラシを配るぽっちゃり少年を見つけると、リンディは突進していく。
「魔道具店タクト、オープンしました! 割引券も付いて……うわっ!!」
謎の物体に突っ込まれたタクトは、ぬかるんだ土の上にべちゃっと倒れ込んだ。
(一体……何が起きたんだ?)
起き上がろうとするも、どうやら人らしいその物体が自分にしがみつき、なかなか離してくれない。
「タクト! タクト!」
高い声で何度も自分を呼ぶ、女の子らしいその物体。
「会えてよかった……ここに居てくれて、変わらないでいてくれて、ありがとう……タク……」
うわあと泣き出した女の子の黒い顔を、涙の筋が洗っていった。
「十分以内じゃないと、元に戻せなくなっちゃう!」
タクトの叫びに、全身泥で真っ黒の二人は、魔道具店タクトへ走り出した。
前と同じ砂時計をひっくり返し、手を繋いだままそれに触れれば、二人とも転ぶ前の綺麗な姿に戻った。不意に現れた、にこりと微笑む美少女に、タクトは顔を赤らめる。
「……いやあ、君って、汚れてないとすごく可愛いんだね」
「タクトもすごく可愛いわ」
その言葉にタクトは一層赤くなりながら、ポリポリと頭を掻く。
「……そういえば、何で僕の名前を知ってるの? 僕ら会ったことあるっけ?」
「あるわ。私達、こうして会うの二度目なの」
二度目……
タクトは眉を寄せうーんと考えるも、一度目の出会いとやらがどうしても思い出せない。
(こんな可愛い女の子と会っていたら、忘れる訳ないんだけどな。でも、そう言われたら確かに……)
「懐かしい気がするかも」
リンディは、ぱあっと顔を輝かせる。
「本当!? ほんとに、本当!?」
「うん……よく思い出せないけど、そんな気はするよ。忘れてしまっていてごめんね」
「ううん! ううん! ありがとう、タクト!」
青い瞳からはまた涙が溢れ、折角綺麗になった顔を濡らしていく。慌てたタクトに差し出されたハンカチで、ふんと鼻をかむと、少し落ち着いてきた。
「君の名前は何て言うの? もしかしたら前に聞いているかもしれないけど」
「……リンディ。リンディ・フローランス! あなたと同じ、10歳よ」
「リンディ……可愛い名前だね。君にピッタリだし、懐かしい気がするよ。それに僕の歳も知っているなんて、君の言う通り、やっぱり二度目なのかもね」
「うん、そうよ! ねえタクト、もう一度私の友達になってくれる?」
「もちろん! よろしくね、リンディ」
差し出された小さな手を、タクトは赤く染まったふくふくの手でしっかり握った。
タクトに手を振り魔道具店を出たリンディは、弾けるように駆け出す。母と教室で待ち合わせ、一緒に帰る約束をしていたことなどすっかり忘れ、一人でさっさと貸馬車に乗り込んだ。
母と二人で住むアパートへ帰ると、机を漁り、スケッチブックと色鉛筆を見つけ出す。
おたまじゃくしや色んな生き物をパラパラめくり、真っ白な紙を開くと、色鉛筆を一心不乱に動かしていく。
(私はどうして気付かなかったんだろう……一度目の人生で出逢えた大切な人達とは、二度目の人生では逢えないかもしれないってことに。ずっとお義兄様のことばかり考えていたけど……他にも逢えなくなってしまうかもしれない人が沢山いるのに)
モリーさん、サム爺、アリス、モネ、ランネ学園の先生達、ロッテさん、ジョセフ絵師長……そして、お義父様。
(逢いたい……また、みんなに逢いたい)
懐かしい顔を、次々と描いていく。
大丈夫、みんなの顔、ちゃんと覚えているわ。タクトみたいに、絶対にまた逢える。……絶対にまた逢うの。
一旦色鉛筆を置くと、一人一人を手に取り、その出逢いを回想する。
(本当だったらあのまま湖で死んでいたのに、こうしてもう一度やり直させてもらっているのよ。くよくよしたって仕方ない。
……今度は私がお義兄様を迎えに行くわ。それまで、待っていてね)
リンディは微笑むと、指輪の光る左手に黒い色鉛筆を握り締める。残った紙を、愛しい義兄の笑顔でひたすら埋め尽くしていった。




