第46羽 二度目の人生へ
(かたつむり……雨……かたつむり……塀……
この塀!!)
触れようと伸ばした自分の手が、異様に小さいことに驚く。
(変なの……まるで子供みたい。こど……も?)
“ もしこの指輪が本当に願いを叶えてくれるなら、私を5歳の時へ戻して欲しい ”
(まさか……)
ふっくらとえくぼのある左手。その細く短い薬指には、あの指輪が玩具のように輝いている。ゆっくり視線を落とせば、この手に釣り合う小さな身体と、それを包む子供用のワンピース。ペタペタ触れると、確かに自分の身体だという感触がある。
「リンディ、どうしたの?」
優しい声の方へ向けば、今より少し若い母フローラが、首を傾げていた。
「お母様……」
自分から発せられる声も、幼い子供のものだ。思考が追い付かず、母を見つめたままぼんやりするリンディの肩に、温かな手が置かれる。
「かたつむりはもういいの?」
(かたつむり……)
再び高い石塀を見上げる。それは紛れもなく、実家……セドラー家の屋敷の塀だった。
塀を見上げたまま、またぼんやり立ち尽くすリンディに、フローラは更に首を傾げる。横から覗き込めば、娘の視線の先には、さっきまで夢中になっていたかたつむりがいない。
(雨に濡れて、熱でも出たのかしら……)
小さな額に手を当てると、いつもと変わらぬ程良い体温が伝わりほっとする。フローラが手を下ろすと同時に、リンディから思わぬ質問が飛んできた。
「お母様……私、今、もしかして5歳?」
(……リンディが! やっと……やっと、自分の年齢を言えたわ!
フローラは感激のあまり叫びそうになる。というのも、リンディは『数字』を言うことは出来るのだが、年齢を尋ねると混乱してしまうからだ。あの手この手でどんなに教えても、数の概念を理解しない。
『あなたは前まで4歳だったわ。お誕生日が来て、一つ上の歳になったの。さあ、4歳の次は何歳?』
『うーん、分かんない!』
『数えてみたら?』
『1、2、3、4、5……』
『あっ! 今、4の次は何だった?』
『5』
『そうよ、5よ! じゃあ、今あなたは何歳?』
『うーん、分かんない!』
いつもこんな調子だった。
娘を抱き締め、顔中にキスしたい気持ちを抑えながら、フローラは出来るだけ冷静に言う。
「そうよ、5歳。あなたは5歳よ。よく言えたわね」
リンディは大きく目を見開いたまま固まっている。
(あら、やっぱりもう少し、褒めてあげた方が良かったかしら)
「私は5歳で……名前はリンディ・フローランス?」
「そうよ。あなたは5歳のリンディ・フローランス」
「そう……そうなのね」
いつもの好奇心ではなく、どこか憂いを帯びた青い瞳に、フローラは少し不安になる。
「お母様、お母様はまだ、このお屋敷で働いていない?」
「え? ……このお屋敷?」
前後を見渡せば、端が見えぬほど長い石塀が続いている。この中にあるのは、相当巨大な屋敷だろう。
「ええ、ここでは働いたことがないわ。家から離れているし」
「そう……」
リンディはこくこく頷くと、フローラの手を取る。
「お母様、帰りましょう。お家に帰りましょう」
「……ええ、ええ! 帰りましょう」
さっきまであんなに帰りたいと思っていたのに、こうして言われると拍子抜けしてしまう。手を握っているのは、自分のよく知っている娘ではない気がして、フローラは戸惑っていた。
塀沿いに歩いていると、向こうから、一台の立派な馬車がやって来た。すれ違う際、リンディははっと背伸びし、窓の中を覗く。
なんとか見えたのは、黒い帽子に金色の髪。そして懐かしいルビー色の瞳……
お義父様……お義父様が……まだ生きている。
走り去る馬車を見つめたまま、ボロボロと涙を流した。
家に帰ったリンディは、真っ先に姿見へ向かう。そこに映っていたのは、やはり小さな子供の姿だった。
濡れた服を着替えると、懐かしい自分の部屋の、懐かしいベッドへ潜り込んだ。
柔らかな布団に顔を埋めた途端、またボロボロと涙が溢れる。勝手に溢れて、溢れて過ぎて、全然止まってはくれない。
(落ち着いて……落ち着いて、リンディ。よく考えて。かたつむりの……実家の塀を見ていたその前、私は何をしていたのだっけ?
……逃げていたわ。お義兄様と必死に森を逃げていたの。お義兄様の足に矢が刺さって、動けなくなって、抱えて一緒に湖に入って……また矢が飛んで来るのが見えて、飛び出したら胸が熱くなって、苦しくなって……
指輪にお願いしたの。
“ 5歳の時へ戻して欲しい ” って。
“ もう二度と、義妹になりたくない” って、そう思ったから……)
『それぞれ一度だけ、相手を強く想う時にのみ、願った時に戻ることが出来る』
(信じられない……まさか本当に、時が戻るなんて)
暗い布団の中、指輪の砂はたっぷりと満ちて輝いている。
(この砂がお義兄様の寿命なら、お義兄様も元気に戻って来たのよね? 子供に戻って、あの塀の向こうに居たのよね?)
涙がどっと溢れ、髪の毛も布団もぐしゃぐしゃになる。
(会いたかった……本当は、塀の向こうに飛び込んで、お義兄様に会いたかった……)
それでもあそこから離れなくてはと、リンディが咄嗟にそう思ったのは、あの塀が義父との出逢いの場所だと気付いたから。
あの後義父がかたつむりを帽子に入れて、屋敷に招かれて、その数日後に母は義兄の家庭教師になる。
そのまた数ヶ月後には二人が結婚し、ルーファスと自分は義兄妹になってしまうからだ。
(これで義妹になる運命は変えられたはず……でも、義兄妹にならないんだったら、これからどうやってお義兄様に会えばいいの? このまま、ずっと他人のまま、会えなかったらどうしよう……本当にこれで良かったの?)
とうとう堪えきれず、リンディはふええと声を上げて泣き始めた。
フローラがドアの隙間から覗き見れば、ベッドには小さな布団の山が出来ていた。
年齢を正しく言えたり、自らかたつむり観賞を切り上げたり、急に泣き出したり、おやつを拒否したり……挙げ句にはもう寝ると言って、こうしてベッドに潜ってしまった娘に違和感を覚える。
今のところ熱はないが、やはり体調が良くないのだろう。明日もこんな調子だったら医者に診てもらおうと、フローラはそっとドアを閉めた。
◇
カーテンを閉めきった暗い室内。
呼び掛けても母の返事はない。
灯りの漏れる洗面所へ進み、上を見上げれば……
(苦しい……苦しい……)
カタリとペンを落とし、ルーファスは頭を押さえる。
数式を解いていただけなのに、こうして何の予兆もなく、あの光景がフラッシュバックするのだ。
(どうかあの闇へ……何も……誰も居ない、あの闇へ……)
──しばらく闇を漂うと、数字と記号が羅列するノートへと意識が戻った。
再びペンを取り、数式へ向かおうとした時、左手の薬指に覚えのない指輪が嵌まっていることに気付く。
これは……何だ?




