第45羽 最期の砂が落ちる時
薄く開いたルビー色の瞳に、宰相はたじろぐ。
その眼光があまりに鋭く、そして淀んでいたからだ。
ルーファスは宰相を無視し、神経が通い始めた身体をゆっくりと起こそうとする。だが……
カチャリ
右手に手枷が嵌められており、ベッドと繋がれている。ぐっと引っ張ってみるも、びくともしない頑丈な作りに、ルーファスは顔をしかめた。
「ルーファス……すまない。王女殿下のご命令なんだ。処刑が済むまで、君を眠らせたままここで監視しなければならない」
( “ 処刑 ” 。ああ、コイツも随分簡単に言うんだな。大切なリンディの命を奪うというのに)
昏い笑みを浮かべ、クックッと肩を震わせるルーファスに、宰相の背筋は凍り付く。恐怖を押し殺しながら、弁解の言葉を口にした。
「すまない……本当にすまない。セドラー宰相が大切にされていたお嬢さんを……恩を仇で返す羽目になってしまって。君を守るだけで精一杯だったんだ」
ルーファスは視線を合わせぬまま、冷たい言葉を放つ。
「今更取り繕わなくて結構ですよ。貴方はご自分の立場を守りたかっただけでしょう」
「……そんなことは!」
「貴方みたいな人が宰相とは、この国の将来が危ぶまれる。あんな女に怯えて、まともな調査一つ出来ないのだから」
宰相はギリッと奥歯を噛み締める。
「……察してくれ。私も家族を人質に取られているようなもので、今は下手に動けないのだ」
「ご自分の家族を守る為なら私の家族を……リンディを犠牲にされると。まあ、人間そんなものですよね。私も逆の立場でしたら、貴方と同じことをしたでしょうから。責めるつもりはありませんよ」
「ルーファス……」
僅かに顔を緩める宰相。しかし次に放たれたのは、一段と冷たい、氷のような声だった。
「宰相、私の願いを一つ聞いていただけませんか?」
「……願い?」
「リンディにもう一度会わせてください。今がいつで何時なのかも分かりませんが、“ 処刑が済むまで ” ということは、まだ刑は執行されていないのでしょう。騙されたあの間抜けな騒動が最期の別れなんて、あんまりですから」
「しかし……」
「それくらいの誠意を見せてくださってもいいんじゃないですか? でなければ、亡くなった父も一生貴方を恨み呪い続けるでしょうね」
宰相は悲痛な顔で俯く。しばらく考えると、覚悟を決め口を開いた。
「……分かった。責任は私が取る。なるべく手短に」
胸ポケットから取り出された鍵が、手枷を呆気なく外す。ルーファスは自由になった手首を擦りながら、ゆっくり身体を起こし立ち上がった。
(……大丈夫、動けそうだ)
「リンディは地下牢ですか?」
「ああ。一番奥の牢で、厳重に監視されているよ」
宰相がそう答えた次の瞬間──
ルーファスは彼の後頭部を渾身の力で殴り、ベッドに押し倒した。
「うう」と少し呻いたきり動かなくなる宰相の手に、ルーファスは先程まで自分の手首にあった手枷を嵌め、ベッドに固定する。
宰相のジャケットを探り時計を確認すれば、時刻は八時半。窓のないこの部屋からは、それが朝なのか夜なのか判別出来ない。
あれこれ揉めて、医師に眠らされたのが日付が変わる少し前。宰相の表情から滲み出ていた疲労感と、自分の身体の感覚から、恐らく夜の八時半なのではないかと推測する。
……であれば、刑の執行は明日の午前中。時間がない。
更にごそごそと探り、腰から護身用の短剣を見つけると、ルーファスはそれを手にドアへ向かった。
見張り兵の首を、何の躊躇いもなく掻き切ると、剣を奪い慎重に廊下を歩く。あの頃と同じ暗い闇の中、リンディの命という一筋の灯を照らして。
地下牢の地図は、以前資料を読んだ為、頭に入っている。警備が厳重な正面から突破するのは困難だが……皮肉にも、あのアドベネ宰相から、秘密の隠し通路を教わったことがあった。
ルーファスは窓からひらりと飛び降りると、空を睨む。
(やはり夜だったか……)
隠し通路へ繋がる入口を目指し、月明かりが照らす仄暗い庭を先へ進んだ。
(剣術なんて、どんなにセンスがあると褒められても、人生において何の役にも立たないと思っていた。生まれながらの公爵令息。大臣から宰相へと敷かれたレールの上で、まさか自分がペンではなく、剣を振ることになろうとは)
無事に牢へ侵入したルーファスは、顔の返り血をぐいと拭う。倒れた看守から鍵の束を奪うと、奥の牢へ向かった。
カツ、カツ……
気持ちが逸る。だが走れば、足音が響いてしまう。葛藤しながらようやく着いた鉄格子の中には、白い影がうずくまっていた。
気配に気付き、ゆっくりとこちらを見上げるのは……愛しい、愛しい義妹の青い瞳。
まだ生きていてくれたことに感謝しながら、慌てる彼女をしっと指で制した。
正解の一本を求め鍵の束と格闘するが、指が震えて何度も落としそうになる。片っ端から差し込んでいくが、なかなか鍵穴と合わない。七個目にしてようやく鉄格子が開いた時には、もう辺りが騒がしくなっていた。
隠し通路を戻り何とか外へ出ると、手をしっかりと繋ぎ、暗い森へ走る。
(夢見ていたままごとではなく、こうして命がけの鬼ごっこをする羽目になるなんて……)
悲しい高揚感がルーファスを包んでいた。
途中で会う兵を片っ端から切り倒していくが、罪悪感など全くない。もはや彼らは “ モノ ” だった。リンディの命を奪おうとする、ただの “ 凶器 ” なのだから。
「あっ!」
顔から地面に転がるリンディ。こんな時なのに、ルーファスの顔は愛しさに綻んでしまう。
(そうだ、僕のリンディはこうでなきゃ)
邪魔な剣を捨てると、石につまずいた彼女を背中に背負い、再び走り出した。柔らかく甘いぬくもり。それはルーファスを力づけ、守ってくれているような安心感さえ与えた。
湖の畔まで出た時、足にビリッと何かが走り、倒れ込んだ。確認すると、ふくらはぎに鋭い矢が一本刺さっている。
リンディが心配そうに彼を覗く。落とさなかっただろうか、怪我はないだろうかとルーファスも不安になり、彼女を覗き込んだ。
乾いた草の音が、そんな二人の周りを取り囲む。リンディを守らなければという意思に反し、ルーファスの足は動かない。気付けば柔らかな胸に頭を抱かれ、湖へ引きずられていた。
凍りそうなほど冷たい水。だけど心地好かった。互いの温もりが、伝わる温もりだけが、互いの存在を教えてくれるから。
見つめ合う瞳には、もう何の後悔もない。
「リンディ……愛しているよ」
「私も、愛してるわ……ルー」
一斉に放たれる矢。ルーファスより一足先に、リンディが前へ立つ。
グサリ
それはルーファスの盾となったリンディの、心臓を残酷に貫いた。華奢な身体は、スローモーションのように、彼の腕へと崩れ落ちる。
(……酷いな。まだ言っていないだろう?
“ お義兄様 ” じゃなくて、“ ルーファス ” と。名前で呼んでくれるんじゃなかったのか?)
「……ディ、リンディ、リンディ!」
ルーファスの呼び掛けに、リンディは薄く微笑む。その瞳には、哀しい涙が揺らいでいた。
(やっぱり君は悔やんでいるのか? 僕と出会ったこと、兄妹になったこと。……それ以上を望んでしまったこと。
どうしよう。何も……何も無くなってしまう。
こんな風に君を失ったら、僕の存在が消えてしまう。
……闇に呑まれてしまう)
リンディの左手が、濡れた瞳から空へとかざされると、薬指から閃光が放たれる。
眩しいそれは二人を優しく包むも、彼の巨大な闇にはもう届かない。
──ハラリ。
ルーファスの指輪から、最期の一粒が落ちるのと同時に、リンディは意識を閉ざした。
◇◇◇
ぽつ……ぽつ……
(心地好い音……この音大好き。
えっと……でも何の音だっけ? 静かで、爽やかで、子守唄みたいな。
あっ、そうだ! 小雨の降る音だ!
でもどこ? どこで雨が降っているの?)
霧のかかった視界が徐々に晴れていく。
そこには……かたつむり達が、嬉しそうに塀を散歩していた。




