第44羽 暗闇の中で
驚き、猜疑心、落胆……様々な感情が入り交じったルーファスの視線から、宰相は目を逸らす。
「アドべネ宰相、セドラー大臣に説明してあげて」
王女の言葉に、宰相は声を震わせながら残酷な言葉を発した。
「……セドラー大臣、すまない。君が自白をする前に、既にリンディ嬢が自白をしていたんだ。自分が国王陛下に故意に絵の具を飲ませたと」
(リンディが……自白?)
ギリギリと首を動かし隣を見れば、瞳に涙を溜めたリンディが震えている。繋いでいた左手をすっと離し、自ら兵に身を預ける。
「リンディ……どうして? 言ったじゃないか。君は王様に、絶対絵の具を飲ませたりなんかしていないって」
「ごめんなさい……嘘を吐いたの。私がやったの……本当は私が……ごめんなさい」
瞬く間に拘束され、リンディは落ちる涙を拭うことも出来ずに目を伏せる。
「証拠の絵の具も、彼女の言う通り、陛下のお部屋の庭を探したら出て来たわ。……ほら、これよ。外見は黒だけど、中はあのルビー色だったの。きっと分けて持っていたのね」
王女はガウンのポケットから、黒い色紙が巻かれた一本のチューブを取り出す。
「貴方、元妹を助ける為に、宰相に虚偽の自白をしたんでしょう? そこまでしたのに……結局無駄になってしまったわね。可哀想だけど仕方ないわ。リンディには、嘘を吐き通せるほどの、高度な知能はないんですもの」
宰相もまた、ルビー色の紙が巻かれたチューブを一本取り出した。
「こちらは君がさっき持ってきた方だ。残念だが……リンディ嬢の自白と証拠により、既に罪は確定してしまったんだ。……早朝には布令が出される」
(布令……何の……布令……何……の?)
恐怖の余り、ぐるぐると錯乱する頭。リンディと同様、拘束され身動きが取れぬルーファスの耳元へ、王女は勝ち誇ったように囁いた。
「先手より、更に先手を打つ人間が生き残るのよ」
◇
『貴女……もうすぐ釈放されるわよ。何故だと思う?』
『……分かりません』
牢の中、怯えた顔で首を振るリンディを、王女が見下ろす。
『お義兄様のお蔭。……何故かしらねえ』
リンディは少し考え、やはり首を振る。
『……分かりません』
『やはり貴女の知能じゃ、それ以上は考えられないのね』
せせら笑う王女に、リンディは縮こまり、『すみません』と俯く。王女はしゃがむと、リンディの顎を指で持ち上げ、無理やり目線を合わせた。
『……お義兄様がね、自白したのよ。自分が陛下に絵の具を飲ませたって』
『お義兄様が……絵の具を…………嘘!』
目を瞠り叫ぶリンディの顔を、王女は片手で強く掴む。
『嘘じゃないわ。ちゃんと証拠も持って来たのよ。あのルビー色の絵の具をね』
『持って来た……? 持って……そうです! お義兄様、きっと家から絵の具を持って来てくれたんです!私がイーゼルに置いてあるって言ったから……』
『さあ、そんなこと知らないわ。絵の具を持っている彼が、やったと自白したんだから。残念だけど、お義兄様が暗殺犯で確定ね』
『そんな……』
青白い頬からガタガタ震える肩に手を移し、王女は愉快そうに笑う。
『良かったじゃない、貴女は釈放されるのだから。それにしても……お義兄様は本当に義妹想いなのね。自分の命も顧みず、罪を被るなんて』
『……違います、お義兄様は絶対にやっていません』
リンディは冷たい床に、怪我した額を擦りつける。
『お願いします、お義兄様を助けてください。お願いします』
『そうねえ。まあ一つだけ方法はあるけど、貴女にとってはあまり良くないわ』
『……教えてください! 何でもしますから……お願いします、お願いします』
額から更に血が滲む様子を残酷な顔で眺めると、王女は持っていた一本のチューブを、傷だらけの手に握らせた。リンディは反射的に顔を上げる。
『それ……中身はルビー色よ。陛下のお部屋の庭から出てきたの。貴女が陛下にそれを飲ませて、庭の茂みに隠したと自白すればお義兄様は助かるわ。貴女の方が状況証拠は揃っているしね』
『本当に……本当ですか? 私がこれを王様に飲ませたと言えば、お義兄様は助かりますか?』
リンディは絵の具を握り締め、希望に満ちた目を王女へ向ける。
(この娘……どこまで愚かなのかしら)
王女は嘲笑と僅かな憐憫を顔に浮かべた。
『ええ、上手くやってあげる。今から宰相の元で正式な取り調べをしましょう。その代わり、きちんと自白してね。チューブを隠したのは犯人しか知り得ない場所…… “ 御不浄の窓の下の茂み ” よ。いい?』
◇
「違う……リンディは何もしていない! きっと証拠も捏造されたんだ! 王女に脅されたんだ! 宰相、調査を……どうか公平な調査をお願い致します!」
暴れるルーファスを、兵が数人がかりで押さえ付ける。
「無理だ……既に彼女の罪状は確定した。早朝には、国に布令が出される」
「そんな……!」
「大丈夫よ、刑の執行は明後日だから。明日一日あれば、お互いに心の整理も出来るでしょ。無事に処刑が済むまで、貴方の身柄も丁重に預からせていただくわね。落ち着けるように、ヒーリングの魔術もかけて眠らせてあげる」
命を弄ぶ王女に、ルビー色の瞳は昏く燃え盛る。もはや憎悪しかないそれに、医師の手により放たれる魔術が、重い瞼を下ろしていった。
リンディ……
黒い睫毛の隙間から見えたのは、兵に両腕を掴まれ引きずられていく、真っ白なワンピースだった。
◇
(暗い……真っ暗だ。
周りも、上も下も、何処を向いても暗闇ばかり。
母上の哀れな亡骸を見たあの日から、苦しくなる度に、この闇に襲われる。心を無に包んでくれるから。冷たいけど楽だった。
だけど……何も……誰も居ない。自分だって、本当は存在しないんじゃないかと、その内堪らなく怖くなった。呑み込まれないように、心を空っぽにしていたのに)
『カラス!! 赤い目のカラス!!』
(ああ……それは僕のことか?)
『カラスのお坊っちゃまは、カラスのお兄様になるの?』
(そうだよ、僕は君のお義兄様になるんだよ)
『きっと大人になっても、私が一番好きな男の人はお義兄様のままだと思うわ』
(僕も……僕も、君のことが一番好きだよ。大人になっても、どんなに歳を取っても、砂が全部落ちて例えこの身体が無くなっても……君を愛した僕の存在は、決して闇に消えたりしない。
リンディ……君を……リンディ……
リンディ!!)
頭は起きたのに、ルーファスの身体は全く動かない。瞼も開かず、暗闇の中で混乱していた。
やがて落ち着いてくると、自分の身に起きたことを冷静に分析し始める。
(そうか……魔術で眠らされたのか……くそ)
「……セドラー大臣は?」
(この声は……アドべネ宰相か)
「はい、変わりございません。ずっと眠っていらっしゃいます」
「ご苦労。私が代わるから、少し休んできなさい」
「はっ」
ドアが閉まる音が聞こえる。……兵が出て行ったのだろうか。残された足音が近付き、ルーファスの枕元で止まった。
やがて悲痛な声が、ポツリポツリと頭上から響く。
「ルーファス……すまない。我が身可愛さに……大切なものを守る為に、私は……。せめて君だけでも救えればと」
(……何を言っているんだ? あんたの目を見れば分かるさ。明らかに王女がやったと確信しながら、リンディを犠牲にした。
“ 君だけでも救えれば? ”
取って付けたように言いやがって。自分の立場を守りたかっただけじゃないか。こんなヤツを信頼していた自分が情けない。情けなくて腹立たしい)
ルーファスの怒りは、指先、手、腕と瞬く間に神経を駆け上がり……瞼をピクリと動かした。




