第43羽 大切な時間を
亡きデュークの後、新しい宰相となった男は、複雑な面持ちで絵の具のチューブを見つめていた。
顔を上げると、まだ汗の引かないルーファスへ向かい、事務的に問う。
「……王女殿下が国王陛下暗殺を企て、実行し、君はリンディ・フローランス嬢に罪を着せる為、有毒の絵の具を管理していた。間違いないな?」
「はい、間違いございません。王女殿下に家門を潰すと脅され、従うしかありませんでした。ですが、やはり兄妹として育ったリンディを、犠牲にすることは出来ないと気付いたのです」
宰相は傍らの記録係に手を止めるよう目配せした。
「……記録は取った。証拠品は、一先ず私が預かろう」
「お願い致します。これは謀反であり、また、娘が父親を殺害するという重罪です。王女殿下に気付かれませぬよう、慎重に調査をお願い致します」
「分かった。……王女殿下を泳がせる為に、君の身柄はあえて拘束しない。それでよいか?」
思っていたよりもあっさり話が通じたことに、多少の違和感は覚えたものの、ルーファスは安堵した。それはこの新しい宰相が、父が最も信頼し次期宰相へと育て上げた後輩だからであり、ルーファス自身も絶大な信頼を寄せていた為だ。
「はい。ご配慮に感謝致します」
頭を下げ、部屋を出て行くルーファス。パタリとドアが閉められるなり、宰相は顔を歪ませ、グラグラと座り込んだ。
先程と同じ王女の私室を訪れると、ネグリジェにガウンを羽織った主が出迎えた。ルーファスを見ると、欠伸を噛み殺し、気だるそうに腕を組む。
「今何時だと思っていらっしゃるの? 心身共に疲れきっていて、少しでも仮眠を取りたいというのに。マナー違反はどちらかしら」
「申し訳ありません。心が決まりましたので……居ても立っても居られず、こうして飛んで来てしまいました」
「へえ……」
王女は薄いネグリジェを、わざと足に絡み付かせるようにさばきながら、ルーファスへ近付く。
「意外と情熱的なところがあるのね。それで、お返事は?」
「……貴女と結婚致します。ご提案通り、リンディの釈放と引き換えで」
「……そ。随分簡単に決めたのね。明日一杯時間をあげたのに」
「どれだけ考えても同じです。どのみち誰と結婚しても不幸せなのですから、貴女と結婚して、リンディを一刻も早く助けた方がいいでしょう」
「賢明な判断だわ」
ニヤリと笑うと、ガウンのポケットから無造作に折り畳まれた紙を取り出す。
「じゃあ早速、これにサインと印をちょうだい。気が変わらない内にね」
皺の入った婚姻届を見下ろすと、ルーファスは厳しい声で言う。
「リンディの釈放が先です。立場の弱い者を先に救ってくださらなければ、貴女を人生のパートナーとして信頼することは出来ません」
「……そうね。貴方の言う通りだわ」
王女は呆気なく婚姻届を引っ込めた。
「きっと貴方は良いお返事を下さると思ってね。リンディは既に釈放しているのよ。……今、向かいの部屋で休んでいるわ」
飛び込んだ部屋の先には、身綺麗なリンディが大人しく座っていた。
「リンディ!」
駆け寄り肩を掴むと、彼女の身体に何度も視線を往復させる。頭から爪先まで、痛々しかった傷は医師の回復魔力ですっかり消え、新しい服を身に纏っていた。
「大丈夫か!? 痛い所はないか?」
また泣きそうなルーファスを見て、リンディはにこりと笑う。
「うん、大丈夫よ。全部綺麗に治してくださったの。お水もお食事も頂いたし、とっても元気!」
「……本当に?」
「うん!」
傷のあった額や手だけでなく、背中などの見えない部分も服の上から触れ確かめる。リンディの穏やかな表情から、本当に治療されていることが分かると、ルーファスはようやく息を吐いた。
「お義兄様……ごめんなさい、心配かけて」
ルーファスは、華奢な身体をぐっと抱き寄せる。何も言葉にならずに、ただ黙って背中を撫で続けた。リンディも広い背中にそっと腕を回し、小さな手で同じように撫でる。
「ごめんなさい……ずっと、ずっと、ごめんなさい。いつかちゃんと謝りたいと思っていたの」
「……何を?」
「子供の頃、お義兄様と会って、すぐに大好きになって、一緒にお昼やおやつを食べることになって、義兄妹になって、いつも世話をしてくれたり海まで迎えに来てくれたり……私はとても幸せだったけど、お義兄様には沢山沢山、迷惑を掛けてしまったわ。お義兄様の大切な時間を、沢山沢山奪ってしまったわ」
震える声に、ルーファスは身体を離し、彼女の顔を覗き込む。
「何故そんなことを言うんだ。奪ったなんて……そんなこと。君が居なかったら、僕はきっと大人になれなかった。逆に僕は、君から時間をもらったんだよ。大切な時間を分けてもらったんだよ」
「お義兄様……」
澄んだ青い瞳は、ルーファスを通して何処か遠くを見ている。身体の傷は全て癒えたはずなのに、一番大切な部分が痛みに耐えているようで。ルーファスの胸は苦しくなり、恐怖すら感じていた。
リンディは微笑むと、ルーファスと自分の左手を重ね、指を絡めていく。互いの指輪が、異なる砂の輝きが、はっきりと目に映った。
「ありがとう……お義兄様」
ノックもなくドアが開き、王女が入って来る。
「そろそろいいかしら。眠くて堪らないのだけれど」
先程の婚姻届とペンをルーファスに突き出し、ドカッとソファーに座った。
「無事は確認したでしょう? ここまでしてあげたのだから、いい加減信頼して欲しいわ。……リンディの前で、今すぐサインをして。じゃなきゃ家に帰さない」
ルーファスは左手にリンディの手を、右手にペンを持ったまま、王女の腹を探る。
(……大丈夫。自分は先手を打った。こうしている間にも、宰相が動いてくれているはずだ)
一字一字、時間を掛けてサインをすると、捺印し王女へ渡す。
「……確かに。後は私の気分次第で、いつでも夫婦になれるわね」
目を通し満足気に頷く。
「……では、一旦リンディを家に連れて帰ります」
リンディの肩を抱き、部屋を出ようと向けた背を、王女の低い声が掴んだ。
「ねえ、さっき一旦家に帰ったでしょ? 何しに帰ったの?」
ルーファスは一瞬ピクリと震え、足を止める。振り返ると、懐から小さな袋を取り出し、王女へ掲げて見せた。
「……応急セットです。塗り薬やらガーゼやら。リンディの傷を見て、どうやら気が動転していたようで。こんな物を取りに帰ってしまいました。どうぞご確認ください」
王女はふっと息を漏らしながら笑い、大袈裟に手を振る。
「いいえ、結構よ。貴方の方はどうであれ、私は貴方を信頼しているもの」
「……身に余るお言葉に感謝致します」
「でもね、一つだけ教えて欲しいわ。さっき宰相と何を話していたの? それを取りに家に帰って、王宮に戻るなりすぐ宰相とコソコソ……気になるじゃない」
「国政に関することです。守秘義務がありますので、例え王女殿下でもお教えすることは出来ませ」
ルーファスが言い終わらない内に、王女は弾みをつけて勢いよくソファーから立ち上がる。
「模範的な解答ね、セドラー大臣。でも私……貴方のそういうところ大っ嫌い。国政よりも、何よりも、妻となる私を優先してくれなきゃ」
王女の冷たい目に、ルーファスの背を嫌な汗が伝う。
「……失礼致します」
手にしていた袋を花台に置き、再び王女に背を向けた時──
バンとドアが開き、なだれ込んだ兵によって二人は囲まれた。そして兵の後ろからは、暗い顔の宰相が現れる。
「……これは、一体どういうことですか」




